『十二国記』人名元ネタまとめ

目次
はじめに
⓪調査に当たって
①固有名詞(人名・地名)に由来するもの
桓魋
恵施
恵棟
蒿里‬
項梁
杵臼
伏勝
鄷都

②出典が明らかなもの、故事に由来するもの
翕如
黃姑
虎嘯
柴望
砥尚
迅雷
菁華
青喜
靖共
率由
知音
彤矢
包荒
明珠
蘭玉
蘭桂

③古典漢語の文章(文言文)の中で、熟語として独自の意味を有したり、特定の物の名前となっているもの
淵雅  泓宏  嘉慶
帰泉  朽桟  玉葉
去思  元魁  懸珠
浩歌  浩瀚  午月
駿良  浹和  津梁
遂良  清玄  成行
清白  道範  白沢
丕緒  風漢  平仲
壁落人 蒲月  沐雨
余沢

④熟語やコロケーションとして用いられ、概ね字義通りの意味であるもの
淵澄  温恵  回生
橋松  興慶  洽平(草洽平)
更夜  建中  習行
朱夏  馴行  春水
詳悉  昭彰  酔臥
青江  清秀  夕暉
端直  長天  同仁
敦厚  梨雪  利達
斂足

⑤辞書には熟語として記載がないが出典のあるもの、また字同士が縁語的関係で結ばれているもの
月渓
芭墨

はじめに
『十二国記』シリーズの人名の特徴
読者の多くがご存じの事とは思いますが、『十二国記』シリーズの人物名の多くは古典中国語(古典漢語)の熟語に材を取っています。
例えば浩瀚という名は、「浩瀚な蔵書」などといった形で現代日本語でも用いられる熟語「浩瀚」を元にしています。
「浩瀚」を『漢辞海』第三版で引くと……
浩汗・浩瀚 コウカン ①水の豊かなさま。②(事物や書物などが)はなはだ数が多いさま。

とあり、ここから何となく「浩瀚って書痴なんだろうな……」とか「大学で付いた字なのかな……」と想像した読者も多いのではないかと思います。

そうなのです、実際に漢籍の中の文(文言文)で用いられている熟語に取材している場合、その語感から、名を冠せられた人物の為人ひととなりを想像する事が出来るのです。読書が捗る!
という訳でこのページでは、こうした所謂「元ネタ」を持っている人物名について整理してみました。
登場人物が膨大な数に上りますので、必ず遺漏があるかと思いますが、追々精度を上げていきたいと思います。
この記事の初出はPrivatterです。『十二国記』に関する調べ物は、これからもこちらがPrivatterがメインになりますので宜しくお願いします。

⓪調査に当たって
工具書類
人物名の「元ネタ」を整理する上で用いた辞書類やデータベースをここに記します。

『十二国記』シリーズに関して
・をや様「十二国記データベース」人名録
→人名を今から網羅するなんて私には無理なので、潔くお世話になりました。本当にありがとうございます。
・Fruit様『白銀の墟 玄の月』人物マップ
→『白銀の墟 玄の月』の人物についてはこちらのお世話になりました。大量の人物が整理されています。

辞書類
・三省堂『漢辞海 第三版』
ジャパンナレッジ(複数辞書が格納されていますので都度明記します)
・漢語大詞典出版社『漢語大詞典』
・小学館『中日辞典 第三版』
・商務印書館『辞源 修訂本』
・中華民国教育部国語推行委員会編『重編國語辭典』

データベース類
寒泉(台灣師大圖書館古典文獻全文檢索資料庫)
中國哲學書電子化計劃
維基文庫
宋人與宋詩地理資訊系統
漢籍リポジトリ
捜韻
中國歷代人物傳記資料

整理方法
一口に「元ネタ」と言っても色々あります。「蒿里」の様に、現実の中国に実在する地名が元ネタとなった人名もあれば、「馴行」の様に、文言文の中でコロケーション(連語)として用いられている形容詞を元ネタとする人名もあります。二点目の場合、字面から明確に語の意味が分かる為に「元ネタ」と言って良いのか微妙な例もあります(「夕麗」など)。

整理方法を色々と悩みましたが、ひとまず以下の五項目に分けて、該当する人名をリストアップする形を取りました。

①固有名詞(人名・地名)に由来するもの
②出典が明らかなもの、故事に由来するもの
③古典漢語の文章(文言文)の中で、熟語として独自の意味を有したり、特定の物の名前となっているもの
④熟語やコロケーションとして用いられ、概ね字義通りの意味であるもの
⑤辞書には熟語として記載がないが出典のあるもの、また字同士が縁語的関係で結ばれているもの

また、例えば「西王母」の様に、元ネタとキャラクターそのものが限りなく近似の存在である場合はリストに含めていません。

その他
・それぞれの項目ごとに、五十音順で明記しています。

・漢和辞典→中国語の古語辞典→中国語の辞書の訳→出典・用例の原文→出典・用例の書き下し文→出典・用例の現代語訳
の順番に明記しています。漢和辞典に記載が無い場合は中国語の古語辞典からのスタートになります。漢和辞典の説明のみで事足りる場合、中国語の古語辞典を用いない場合もあります。

・書き下し文や現代語訳文に、括弧付きで「訳者注」と記したのは、ほしなみが付した補足になります。

固有名詞(人名・地名)に由来するもの

桓魋
(『漢辞海』第三版より)
春秋宋の政治家。桓司馬とも。孔子を暗殺しようとした。

出典①
(『論語』述而)
子曰「天生德於予、桓魋其如予何。」

書き下し
子曰く「天は徳を予に生ぜり、桓魋其れ予を如何せん。」

日本語訳
先生が言った「私は天から徳を授かった身だ、桓魋などが私をどうにかできようか。」

出典②
(『春秋左氏伝』哀公十三年 )
経一「十有三年、春、鄭罕達帥師取宋師于喦。」
傳「十三年、春、宋向魋救其師。鄭子賸使徇曰『得桓魋者有賞。』魋也逃歸。遂取宋師于喦、獲成讙、郜延。以六邑為虛。」

書き下し
経一「十有三年、春、鄭の罕達は師をひきゐて宋師をがんに取る。」
伝「十三年、春、宋の向魋其の師を救ふ。鄭の子賸(訳者注:経文に見える罕達のこと)使ひとなへて曰く『桓魋を得る者は賞有り』と。魋や逃げ帰る。遂に宋師を喦に取り、成讙、郜延を獲り、六邑を以て虚と為す。」

日本語訳
(小倉芳彦『春秋左氏伝』下巻 岩波書店 1989年 P.446)
「十三年春、宋の向魋が[包囲された喦の]軍を救援に来たが、鄭の子賸(罕達)は、『桓魋(向魋)を捕らえた者には賞賜するぞ』と全軍に布告し、向魋は逃げ帰った。ついで喦で宋軍を全滅させ、成讙、郜延の二大夫を捕獲して、さきの六邑を双方の管轄外の土地とした。」
(※『論語』『春秋左氏伝』『史記』に見える桓魋の事績についてはこちらにまとまっています。また、「魋」字は「クマ科の哺乳類」の意味です。)

恵施
(『漢辞海』第三版より)
戦国宋の思想家。恵子とも。魏の恵王に仕えた。荘子と交友があり、『荘子』に問答が記録されている。『恵子』

出典①
(『荘子』内篇 逍遙遊)
惠子謂莊子曰「魏王貽我大瓠之種、我樹之成而實五石、以盛水漿、其堅不能自舉也。剖之以為瓢、則瓠落無所容、非不呺然大也、吾為其無用而掊之。」莊子曰「夫子固拙於用大矣。宋人有善為不龜手之藥者、世世以洴澼絖為事。客聞之、請買其方以百金。聚族而謀曰『我世世為洴澼絖、不過數金、今一朝而鬻技百金,請與之。』客得之、以說吳王。越有難、吳王使之將、冬與越人水戰、大敗越人、裂地而封之。能不龜手、一也、或以封、或不免於洴澼絖、則所用之異也。今子有五石之瓠、何不慮以為大樽而浮乎江湖、而憂其瓠落無所容。則夫子猶有蓬之心也夫。」

書き下し
(森三樹三郎訳『荘子 Ⅰ』中央公論新社 2001年 P.16)
惠子、荘子に謂いて曰わく「魏王は我に大瓠の種をおくれり。我之を樹えて成るに、実は五石なり。以て水漿を盛るに、其の堅きこと、自ら挙ぐる能わざるなり。之をきて以てひさごと為せば、則ち瓠落にして容るる所無し。呺然きょうぜんとして大ならざるには非ざるも、吾其の用無きが為に而ち之をくだけり」と。荘子曰わく「夫子は固より大を用いるに拙し。宋人に善く不亀手の薬を為る者有り。世世絖を洴澼へいへきするを以て事と為す。客、之を聞き、其の方を百金に買わんことを請う。族を聚めて謀りて曰わく『我世世、絖を洴澼するを為せども、数金に過ぎず。今一朝にして技を百金に鬻ぐ。請う、之を与えん』と。客、之を得て、以て呉王に説く。越と難有り。呉王、之をして將たらしむ。冬、越人と水戦し、大いに越人を敗る。地を裂きて之を封ぜり。不亀手を能くするは一なり。或は以て封ぜられ、或は絖を洴澼するを免れず。則ち用うる所、之異なればなり。
今、子に五石の瓠有り。何ぞ以て大樽を為りて江湖に浮かぶるを慮わずして、其の瓠落にして容るる所無きを憂うるや。則ち夫子は猶蓬の心有るかな」と。

日本語訳
(同P.17)
恵子が荘子に向かっていった。
「魏王が私に大きな瓠の種をくれた。これをまいて育てたところ、五石もはいるほどの大きな実がなった。ところが、これに飲みものを入れてみたところ、堅くて重く、もちあげることもできない。そこでこれを二つに割って柄杓にしようとしたところ、浅く平たくて水もくむことができない。ばかでかくて、大きいことは大きいのだけれども、使いみちがないから、ぶちこわしてしまったよ」
これを聞いて、荘子はいった。
「お前さんは、もともと大きいものを使いこなすことがへたなんだよ。こういう話がある。宋の国の男で、不亀手あかぎれしらずの薬をつくる名人があった。そのいえは代々、まわたを水にさらすことを職業としていた。あるとき旅のものが聞きつけて、その薬をつくる秘法を百金で買いたいと申しこんできた。そこで、その男は一族を集めて相談し、『わたしは代々、絖のさらしをやってきたけれども、その収入はせいぜい数金どまりだ。ところが、いま一度にこの技術を百金で売ることができる。ひとつ、売り渡すことにしたいと思うが』といった。
旅の男は、この薬を手に入れ、呉王に面会して、その効能を説きたてた。まもなく呉と越とのあいだに戦争が起こったので、呉王はこの男を将軍に任命した。冬のさなかに、越の軍勢と水上で戦ったが、不亀手の薬があるおかげで、この男は越の軍勢を大いに破った。そこで呉王は領地をさいて、かれを諸侯に封じたという。
どちらも不亀手の薬をつくることでは変わりがないが、一方の男はこれによって諸侯に取りたてられ、他方の男は絖のさらし業から抜け出られないのは、同じものでも使い方がちがっているからだ。
いま、お前さんも、せっかく五石もはいる瓠をもっていなさるのだから、いっそのこと大きな樽をつくって舟にし、ゆうゆうとした大江や湖に浮かべることを考えてみたらどうかな。それもしないで、浅く平たくて水もくめないなどと愚痴をこぼしているところをみると、お前さんも案外、融通のきかない頭の持ち主のようだな」

出典②
(『荘子』雑篇 天下)
惠施多方、其書五車、其道舛駁、其言也不中。歷物之意、曰「至大無外、謂之大一、至小無內、謂之小一。無厚不可積也、其大千里。天與地卑、山與澤平。日方中方睨、物方生方死。大同而與小同異、此之謂小同異。萬物畢同畢異、此之謂大同異。南方無窮而有窮、今日適越而昔來。連環可解也、我知天下之中央、燕之北、越之南是也。氾愛萬物、天地一體也。」惠施以此為大觀於天下而曉辯者、天下之辯者相與樂之。

書き下し
(森三樹三郎訳『荘子 Ⅱ』中央公論新社 2001年 P.466)
恵施は多方にして、其の書は五車あり。其の道は舛駁せんばくにして、其言や中らず。物意を歴して曰わく「至大は外無し、之を大一と謂う。至小は内無し、之を小一と謂う」「厚さ無きは積むべからざるも、其の大きさは千里なり。天は地と与にひくく、山は澤と与に平らかなり」「日はならび中し方び睨、物は方び生じ方び死す」「大同にして小同と異なる、此を之れ小同異と謂う。万物ことごとく同じく、畢く異なる、此を之れ大同異と謂う」「南方は窮まり無くして窮まり有り」「今日越に適きて、きのう来たる」「連環は解くべきなり」「我天下の中央を知る。燕の北、越の南、是れなり」「万物をひろく愛すれば、天地は一体なり。」と。
恵施は此れを以て大なりと為し、天下にしめして弁者にさとす。天下の弁者は相与に之を楽しむ。

日本語訳
(同)
恵施の学問は多方面にわたり、その蔵書は五台の車に積むほどであったが、その説く道は矛盾に満ちて統一がなく、その議論は道理にあわない。物のもつ意味を列挙して、次のように述べている。
無限の大きさをもつものには、その外側となるものがない。これを大一と名づける。無限に小さいものには、その内側となるものがない。これを小一と名づける。
厚みのないものは、いくら積み重ねても厚みはできない。だが、その厚みのないものは、千里の大きさをもつといえる。
天と地とは同じ高さにあり、山と沢とは同じ高さにある。
太陽は中天にあると同時に、東西のいずれかに傾いている。万物は生まれると同時に、死んでいる。
大きな類概念からみれば同じになるが、小さな種概念からみれば異なっている場合、これを小同異という。万物は、根本ではまったく同じであるとともに、個物としてはそれぞれにまったく異なっているが、その場合これを大同異という。
南方ははてがないと同時に、はてがある。
きょう、越の国に向かって出発することは、きのう、越の国に到着したということである。
鎖のようにつながった知恵の輪は、解くことができるものである。
私は世界の中央にあたる場所を知っている。それは北国の燕の北、南国の越の南にある。
万物をひろく愛すれば、天地のあいだにあるすべてのものは一体となる。
恵施は、この論法を非常にすぐれたものとして自負し、ひろく天下に示し、弁者たちに教えた。天下の弁者たちは、たがいにこれを論じあって楽しんだ。

恵棟
(『漢辞海』第三版より)
清の学者。字は定宇、号は松崖。漢の儒学を尊び、考証学の呉派を開いた。『周易述』『古文尚書考』『九経古義』


(梁啓超『清代學術概論』)
元和惠棟、世傳經學。祖父周惕、父士奇、咸有著述、稱儒宗焉。棟受家學、益弘其業。所著有『九經古義』、『易漢學』、『周易述』、『明堂大道錄』、『古文尚書考』、『後漢書補注』諸書。其弟子則沈彤、江聲、餘蕭客最著。蕭客弟子江藩著『漢學師承記』、推棟為斯學正統。實則棟未能完全代表一代之學術、不過門戶壁壘、由彼而立耳。惠氏之學、以博聞強記為入門、以尊古守家法為究竟。士奇於九經、四史、『國語』、『國策』、『楚辭』之文、皆能暗誦、嘗對座客誦『史記』封禪書終篇、不失一字。(錢大昕『潛研堂集』惠天牧先生傳)棟受其教、記誦益賅洽。
(※注釈に括弧を補いました)

日本語訳
(梁啓超著 小野和子訳注『清代学術概論 中国のルネッサンス』平凡社 1974年 P.84)
元和の恵棟は、代々経学を伝えた。祖父の周惕しゅうてき、父の士奇ら、どちらも著述があって、儒学の指導者と称せられた。恵棟は家学を受け、ますますその学問を発展させた。著書には、『九経古義』『易漢学』『周易述』『明堂大道録』『古文尚書攷』『後漢書補注』などの諸書がある。弟子では、沈彤しんとう、江声、余蕭客しょうきゃくがもっとも有名である。余蕭客の弟子江藩は『漢学師承記』を著わしたが、恵棟を斯学の正統に推している。じつは恵棟は、一代の学術を完全には代表しえないのであって、門戸と壁塁が、かれによってきずかれたにすぎないのである。恵氏の学問は、博覧強記を出発点とし、古えを尊び家法を守ることを終局の目標とするものである。恵士奇は、『九経』『四史』『国語』『戦国策』『楚辞』などの文章をすべて暗誦でき、かつては対座した客の前で『史記』封禅書を終わりまで暗誦して一字もまちがえなかったという(銭大昕『潜揅堂集』巻三十八、恵先生士奇伝)。恵棟はその教えを受け、記憶は、いっそう広汎におよんだ。

蒿里‬
(『漢辞海』第三版より)
①山東省にある泰山の南にある山。死後の魂が集まるといわれた。
②墓地。
③身分の低い者の葬式でうたう挽歌。
注:身分のある者には、「薤露」を歌う。

出典
(崔豹『古今注』音樂)
薤露、蒿里並喪歌也。出田橫門人。 橫自殺、門人傷之、為之悲歌。言人命如薤上之露易晞滅也。亦謂人死魂魄歸於蒿里、故有二章。一章曰「薤上朝露何易晞、露晞明朝還復滋、人死一去何時歸。」其二曰「蒿里誰家地、聚斂魂魄無賢愚、鬼伯一何相催促、人命不得少踟躕。」至孝武時、李延年乃分為二曲。薤露送王公貴人、蒿里送士大夫庶人。使挽柩者歌之、世呼為挽歌。

書き下し
薤露かいろ、‪蒿里‬は並びに喪歌なり。田橫の門人より出づ。橫自殺し、門人之を傷み、之の悲歌をつくる。人命の薤上の露の如く晞滅し易きを言ふなり。亦た人死にて魂魄の‪蒿里‬に歸るを謂ふ、故に二章有り。一章に曰く「薤上の朝露何ぞかわき易き、露晞きて明朝ほ復たうるほす、人死にて一たび去れば何れの時にか歸らん。」其の二に曰く「蒿里は誰家すいかの地ぞ、魂魄を聚斂して賢愚無し、鬼伯は一に何ぞ相ひ催促するや、人命はやや踟躕ちちゅうするを得ず」と。孝武の時に至りて、李延年乃ち分かちて二曲と為す。薤露は王公貴人を送り、‪蒿里‬は士大夫庶人を送る。棺を挽く者をして之を歌はしめ、世は呼びて挽歌と為す。

日本語訳
薤露、‪蒿里‬はどちらも葬送の歌である。田横(訳者注:秦末の斉の王族。斉の再興を企図して自ら王となるが、劉邦に敗れ自殺した)の門人から生まれた。田横が自殺し、門人がこの事を悼んで、この悲歌を作った。人命がおおにらの上の露のごとく乾いて消滅しやすい事を言うのである。また人が死んで魂魄が‪蒿里‬山に帰る事を言っている。それ故にこの歌には二つの章がある。一章に言う「薤上の露はどうして乾き易いのか、露が乾いても明朝更にまた露で潤っている、人が死んで一度去ってしまったらいつ帰るというのだろう」、二章に言う「‪蒿里‬は誰の土地なのだろう、魂魄を一つところに集め収め、賢い者と愚かな者の区別もしない、鬼の王は何と厳しくせきたてることか、人命は少しも進まないでいることが出来ない」と。孝武帝(訳者注:漢の武帝のこと)の時代になって、李延年がこれを二曲に分けた。薤露は天子諸侯や身分の高い人を送る歌であり、‪蒿里‬は士大夫や庶民を送る歌である。棺を挽く者にこの歌を歌わせたので、世の中ではこれを挽歌と呼ぶようになった。

項梁
出典
『史記』項羽本紀
項籍者下相人也。字羽。初起時、年二十四。其季父項梁、梁父即楚將項燕、為秦將王翦所戮者也。項氏世世為楚將、封於項、故姓項氏。
項籍少時、學書不成、去學劍又不成。項梁怒之。籍曰「書足以記名姓而已。劍一人敵、不足學、學萬人敵。」於是項梁乃教籍兵法、籍大喜、略知其意、又不肯竟學。項梁嘗有櫟陽逮、乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣、以故事得已。項梁殺人、與籍避仇於吳中。吳中賢士大夫皆出項梁下。每吳中有大繇、役及喪、項梁常為主辦、陰以兵法部勒賓客及子弟、以是知其能。秦始皇帝游會稽、渡浙江、梁與籍俱觀。籍曰「彼可取而代也。」梁掩其口、曰「毋妄言、族矣。」梁以此奇籍。籍長八尺餘、力能扛鼎、才氣過人、雖吳中子弟皆已憚籍矣。

書き下し
項籍は下相の人なり。字は羽。初めて起ちし時、年は二十四。其の季父は項梁、梁の父は即ち楚の將項燕、秦の將王翦の戮す所と為る者なり。項氏は世世楚將り、項に封ぜらる、故に姓は項氏なり。
項籍わかき時、書を學ぶも成らず、學を去りて劍するも又た成らず。項梁之を怒る。籍曰く「書は以て名姓を記すに足るのみ。劍は一人あたる、學ぶに足らず、萬人敵るを學ばん。」ここに於いて項梁乃ち籍に兵法を教ふ、籍大ひに喜びて、其の意を略ぼ知る、又た學を竟むを肯ぜず。項梁嘗て櫟陽にとらはるること有り、乃ち蘄の獄掾曹咎に書を請ひて櫟陽獄掾司馬欣にいたる、以て故に事已むを得。項梁人を殺し、籍と與に呉中に仇を避く。吳中の賢士大夫は皆項梁の下より出づ。吳中に大繇有るといへども、役及び喪、項梁常に主辦為り、ひそかに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、以て是れ其の能を知る。秦の始皇帝會稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と俱に觀る。籍曰く「彼取りて代はるべきなり。」梁其の口を掩ひて曰く「妄りに言ふ毋かれ、族さるるかな。」梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺餘り、力は能く鼎をげ、才氣は人を過ぐ、吳中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。

日本語訳
項籍は下相の人である。字は羽。初めて起兵した時、年は二十四。最も年少の叔父は項梁で、梁の父はつまり楚の將項燕、秦の将軍王翦に殺された者である。項氏は代々楚の将軍で項に封じられたいたので、姓が項氏なのである。
項籍は若い時、書を学んだが大成せず、学問をやめて剣術を学んだが、これもまた大成しなかった。項梁がこれを怒った。籍が言うことには「書は姓名を書くことが出来るようになるだけだ。剣は一人を相手取るだけで学ぶに値しない。万人を相手取ることを学びたい」と。そこで項梁は籍に兵法を教えた。籍は大いに喜んで、兵法の大略を知ったが、これもまた極めることは承服しなかった。項梁はかつて櫟陽で逮捕されたことがあったが、すぐに蘄の獄吏の曹咎に書状を書くよう求め、櫟陽の獄吏の司馬欣に書状が届き、これによって沙汰止みになった。項梁は人を殺したため、籍と共に呉中に仇を避けた。吳中の賢士や大夫は皆項梁の下から出ていた。吳中でも国を治める条理はあったが、労役や葬儀は項梁が常に中心となって処理をしていた。密かに兵法によって食客や若者を組織し、その能力を把握していた。秦の始皇帝が会稽に遊び浙江を渡るのを、梁と籍は共に見た。籍が言うことには「あいつは取って代わるべきだ」と。梁はその口を掩って言った「妄りに言うな、一族皆殺しの刑に遭うぞ」。梁はこれを機に籍を優れた人物だと思うようになった。籍の身長は八尺余り、力の点では鼎を持ち上げ、才氣の点では人を超越していて、吳中の若者であっても皆やがて籍を畏れるようになった。

杵臼
(『漢語大詞典』より)
春秋晉人公孫杵臼。
晉景公佞臣屠岸賈殘殺世卿趙氏全家,滅其族,復大索趙氏遺腹孤兒。
趙氏門客公孫杵臼捨出生命保全了趙氏孤兒。事見《史記・趙世家》。

日本語訳
春秋時代の晋人、公孫杵臼。
晋の景公の佞臣屠岸賈が、卿を世襲していた趙氏の全ての家の者を残虐に殺し、一族を滅ぼした。更に、まだ母親の胎内にいる趙氏の遺児はいないかと大掛かりな捜索を行った。
趙氏の門客(訳者注:いそうろう、食客)の公孫杵臼が命を捨てる事で、趙氏のたった一人の生き残りの命を助けた。この事は『史記』趙世家に見える。

出典
(『史記』趙世家)
趙朔妻成公姊、有遺腹、走公宮匿。趙朔客曰公孫杵臼、杵臼謂朔友人程嬰曰「胡不死」。程嬰曰「朔之婦有遺腹、若幸而男吾奉之、即女也吾徐死耳。」居無何、而朔婦免身生男。屠岸賈聞之、索於宮中。夫人置兒絝中、祝曰「趙宗滅乎若號、即不滅若無聲。」及索、兒竟無聲。已脫、程嬰謂公孫杵臼曰「今一索不得、後必且復索之、柰何」公孫杵臼曰「立孤與死孰難」程嬰曰「死易、立孤難耳。」公孫杵臼曰「趙氏先君遇子厚。子彊為其難者、吾為其易者、請先死。」乃二人謀取他人嬰兒負之、衣以文葆、匿山中。程嬰出、謬謂諸將軍曰「嬰不肖、不能立趙孤。誰能與我千金、吾告趙氏孤處。」諸將皆喜許之、發師隨程嬰攻公孫杵臼。杵臼謬曰、「小人哉程嬰、昔下宮之難不能死、與我謀匿趙氏孤兒、今又賣我。縱不能立、而忍賣之乎」抱兒呼曰「天乎天乎、趙氏孤兒何罪、請活之。獨殺杵臼可也。」諸將不許、遂殺杵臼與孤兒。諸將以為趙氏孤兒良已死、皆喜。然趙氏真孤乃反在、程嬰卒與俱匿山中。

書き下し
趙朔の妻は成公の姊なり、遺腹(訳者注:父親の死後に生まれる子)有りて、公宮に走りて匿る。趙朔の客を公孫杵臼と曰ふ、杵臼朔の友人程嬰に謂ひて曰く「胡ぞ死せざるや」と。程嬰曰く「朔の婦は遺腹有り、若し幸にして男ならば吾之を奉じ、即ち女なるや、吾徐ろに死すのみ」と。居ることいくばくも無く、朔婦免身して男を生む。屠岸賈之を聞きて、宮中をもとむ。夫人兒を絝中に置き、いのりて曰く「趙宗の滅するやなんぢけ、即ち滅せざらば若聲無かれ」と。索及ぶも、兒竟に聲無し。已に脫し、程嬰公孫杵臼に謂ひて曰く「今一たび索めて得ざれば、後に必ず且つ復た之を索むは、柰何いかんせん」と。公孫杵臼曰く「孤を立つことと死すことと孰れか難き」と。程嬰曰く「死は易し、孤を立つことは難きなり」と。公孫杵臼曰く「趙氏の先君は子を遇すること厚し。子つとめて其の難きことを為せ、吾は其の易き者を為す、請ふ先に死せんことを」と。乃ち二人謀りて他人の嬰兒を取り之を負ひ、衣するに文葆を以てし、山中に匿す。程嬰出でて、あざむきて諸將軍に謂ひて曰く「嬰不肖、趙孤を立つ能はず。誰か能く我に千金を與へば、吾趙氏孤の處を告げむ」と。諸將皆喜びて之を許し、師を發して程嬰に隨ひて公孫杵臼を攻む。杵臼謬きて曰く「小人なるかな程嬰、昔宮の難を下りて死す能はず、我と謀りて趙氏孤兒を匿すも、今又我を賣る。縱しんば立つ能はざるも、之を賣ることを忍びんか」と。兒を抱きて呼びて曰く「天や天や、趙氏の孤兒は何の罪あるや、請ふ之を活かさんことを。獨り杵臼を殺さば可なり。」諸將許さず、遂に杵臼と孤兒とを殺す。諸將以為へらく趙氏の孤兒まことに已に死す、皆喜ぶ。然るに趙氏の真の孤は乃ち反つて在り、程嬰にはかにともに俱に山中に匿る。

日本語訳
趙朔の妻は成公の姉であり、妊娠していたので、公宮へと逃げて隠れた。趙朔の食客を公孫杵臼と言う、杵臼は朔の友人程嬰にこう言った「どうして死なないのか」と。程嬰が言うことには「朔の妻は子を妊娠している、もし幸運にも男ならば私はこの人の世話をするが、女であれば私はいずれ死ぬだけだ」と。いくらもせずに朔の妻は分娩して男を生んだ。屠岸賈はこれを聞いて、宮中を捜索した。夫人は嬰児を股下に挟み置き、こう祈った「趙氏の嫡子が滅びるのならばお前は泣け、滅びないのならば声を出すな」と。探索の手が及んだけれど、嬰児はとうとう声を上げなかった。ほどなく脱出して、程嬰が公孫杵臼に言うことには「今回一度探して趙朔の子を得られなければ、後に必ず、なおまたこの子を探すだろう、どうしたらよいだろう」と。公孫杵臼が言うことには「この孤児を育て上げることと死ぬことと、どちらが難しいだろう」と。程嬰言うことには「死ぬことは易しい、孤児を育て上げることは難しい」と。公孫杵臼は「趙氏の先君はあなたを厚遇した。あなたは努力して、難しいことをなしてください、私は易しいことをします、どうか先に死ぬことをお許しください」と言った。二人は謀って他人の赤子をを取って背負い、むつきを身につけさせ、山中に匿した。程嬰は出て来て、欺いて諸将軍たちに言った、「わたくしめ嬰は趙氏の孤児を育て上げることは出来ません。誰かが私に千金をくだされば、私は趙氏の孤児の居場所を告白しましょう」と。将軍たちは皆喜んでこれを聞き入れ、軍を遣わして程嬰を伴い、公孫杵臼を攻撃した。杵臼は欺いて言った、「徳の薄い程嬰よ、以前に宮中の難から逃れて死ねず、私と謀って趙氏の孤児を隠したが、今また私を売るのか。もし育て上げることが出来なかったとしても、この子を売らずともよいではないか」。子を抱いて叫んで言う、「天よ天よ、趙氏の孤児に何の罪があるというのか、どうぞこの子を生かしてください。わたくし杵臼を殺せばそれで良いではありませんか」諸将は許さず、とうとう杵臼と孤児を殺した。諸将は趙氏の孤児が本当にもう死んだのだと思い、皆喜んだ。しかし趙氏の本当の孤児は逆に生存していたのである。程嬰はすぐにこの子と共に山中に隠れた。

(杵臼という名の人物は複数見えますが、知名度等から公孫杵臼を挙げました。)

伏勝
(『漢語大詞典』より)
伏生
漢時濟南人,名勝,或云字子賤。原秦博士,治《尚書》。始皇焚書,伏生以書藏壁中。漢興後,求其書已散佚,僅得二十九篇,以教於齊·魯間。文帝即位,聞其能治《尚書》,欲召之。然伏生年已九十餘,老不能行,乃詔太常使掌故晁錯往受之。西漢《尚書》學者,皆出其門下。相傳所撰有《尚書•大傳》三卷,疑為後學雜錄所聞而成。

日本語訳
伏生
漢の時代の済南の人で、名は勝、字は子賤ともいう。元は秦の博士で『尚書』(訳者注:『書経』のこと)を修めていた。始皇帝が焚書をした際、伏生は書物を壁の中に(埋めて)隠した。漢が興って後、その書物を求めたが既に散逸しており、僅かに二十九篇を得ただけだった。この書を元に斉・魯の地域で学問を教えた。文帝が即位し、『尚書』を修めていると聞いて彼を召喚した。しかし伏生は既に九十余歳であり、年老いて都へ行くことができなかった。そこで文帝は太常(訳者注:礼楽や祭事を司る官)に命じて掌故(訳者注:礼楽に関するしきたりを司る官職)の晁錯を伏生のところへ行かせて、学問を伝授させた。西漢(前漢)の『尚書』の学者は皆この門下から輩出している。伏生の著作に『尚書大伝』三巻が伝わるが、後学が聞いたことを雑録して成したものの可能性がある。

出典
(『史記』儒林列伝
伏生者(集解張晏曰「伏生名勝、伏氏碑云。」)濟南人也。故為秦博士。孝文帝時、欲求能治尚書者、天下無有、乃聞伏生能治、欲召之。是時伏生年九十餘、老不能行、於是乃詔太常使掌故朝錯往受之。秦時焚書、伏生壁藏之。其後兵大起、流亡。漢定、伏生求其書、亡數十篇、獨得二十九篇、即以教于齊魯之閒。
(※注釈に括弧を補いました)

書き下し
伏生は(集解張晏曰く「伏生名は勝、伏氏碑に云ふ」と。)濟南の人なり。故は秦の博士たり。孝文帝の時、能く尚書を治むる者を欲求するも、天下に有る無し、乃ち伏生の能く治むるを聞きて、之を召さんと欲す。是の時伏生は年九十餘、老いて行く能はず、是に於いて乃ち太常にげて掌故の朝錯をして往きて之を受けしむ。秦の時焚書あり、伏生之を壁藏す。其の後兵大いに起りて流亡す。漢定まりて、伏生其の書を求むるも、亡ふこと數十篇、獨り二十九篇を得るのみ、即ち以て齊魯之閒に教ふ。

日本語訳
伏生は(集解 張晏の注「伏生の名は勝、伏氏の碑に言う」と。)済南の人である。元々は秦の博士である。文帝の次代、尚書を修めている者を探し求めたが、見つからず、伏生が修めていると聞いて召喚しようとした。この時伏生は九十歳余りで、老いていて行くことが出来なかった。そこで太常に命じて、掌故の朝錯を行かせて教えを受けさせた。秦の次代に焚書があり、伏生は尚書を(自宅の)壁に埋めて隠した。その後大きな兵乱があって郷里を離れた。漢が平定されて、伏生は(壁の中の)尚書を探したが、数十篇が失われ、二十九篇が残っているだけだった。この二十九篇によって斉・魯の地方で尚書を教えた。

鄷都
(『漢語大詞典』より)
酆都
本謂羅酆山洞天六宮為鬼神治事之所,後用以附會四川省・豐都縣。

酆都城
舊時迷信傳說中的陰司地府,人死後的去處。

日本語訳
酆都
本来は羅酆山洞天六宮は鬼神が職務にあたる場所を言うが、後に四川省の豐都縣に附会されるようになった。

酆都城
昔の迷信や伝説中の冥府の役所で、人が死後に行く場所である。

用例
(段成式『酉陽雑俎』玉格)
……又九地、四十六土、八酒仙宮,言冥謫陰者之所。有羅酆山、在北方癸地、周迴三萬里、高二千六百里。洞天六宮、周一萬里、高二千六百里。洞天六宮、是為六天鬼神之宮。六天、一曰紂絕陰天宮、二曰泰煞諒事宮、三曰明辰耐犯宮、四曰怙照罪氣宮、五曰宗靈七非宮、六曰敢司連苑一曰究宮。人死皆至其中、人欲常念六天宮名。空洞之小天三陰所治也。又耐犯宮主生、紂絕天主死。禍福續命、由怙照第四天鬼官北斗君所治、即七辰北斗之考官也。項梁城『酆都宮頌』曰「紂絕標帝晨、諒事構重阿。炎如霄漢煙、勃如景耀華。武陽帶神鋒、怙照吞清河。開闔臨丹井、雲門鬱嵯峨。七非通奇靈、連苑亦敷魔。六天橫北道、此是鬼神家。」凡有二萬言、此唯天宮名耳。夜中微讀之、辟鬼魅。
酆都稻名重思、其米如石榴子、粒稍大、味如菱。杜瓊作『重思賦』曰「霏霏春暮、翠矣重思。雲氣交被、嘉穀應時。」

書き下し
……又た九地、四十六土、八酒仙宮は、陰者を冥謫するの所を言ふ。羅酆山有り、北方癸の地に在り、周迴すること三萬里、高さ二千六百里。洞天六宮は周一萬里、高さ二千六百里。洞天六宮は是れ六天鬼神の宮なり。六天は、一は紂絕陰天宮と曰ひ、二は泰煞諒事宮と曰ひ、三は明辰耐犯宮と曰ひ、四は怙照罪氣宮と曰ひ、五は宗靈七非宮と曰ひ、六は敢司連苑と曰ふ、一に曰く究。人死ねば皆其の中に至り、人は六天宮の名を常に念ずるを欲す。空洞の小天は三陰の治むる所なり。又た耐犯宮は生をつかさどり、紂絕天は死を主る。禍福と續命は、怙照の第四天は鬼官北斗君の治むる所に由る、即ち七辰北斗の考官なり。項梁城『酆都宮頌』曰く「紂絕は帝晨をあらはし、諒事は重阿を構ふ。炎たること霄漢煙の如く、勃たること景耀華の如し。武陽は神鋒を帶び、怙照は清河を呑む。開闔して丹井に臨み、雲門は鬱として嵯峨たり。七非は奇靈に通じ、連苑は亦た魔を敷く。六天は北道に橫たはり、此れ是れ鬼神の家なり」と。凡そ二萬言有り、此れ唯だ天宮の名のみ。夜中微かに之を讀まば、鬼魅をく。

日本語訳
……また九地(訳者注:地底深くの意)、四十六土、八酒仙宮といった場所は、死後の世界において死者を流刑する所を言う。羅酆山は北方のみずのとの地にあり、外周が三萬里、高さが二千六百里。洞天六宮は一周一萬里、高さ二千六百里。洞天六宮は六天鬼神の王宮である。六天は、一つ目は紂絕陰天宮と言い、二つ目は泰煞諒事宮、三つ目は明辰耐犯宮、四つ目は怙照罪氣宮、五つ目は宗靈七非宮、六つ目は敢司連苑、一説に苑は究であるとも言う。人は死ぬと皆其の王宮に至り、(ここに来る)人は皆六天宮の名を常に唱えたがる。気の充満する小天(訳者注:神仙の居場所のこと)は三陰が処罰する場所である。また耐犯宮は生を司り、紂絕天は死を司る。禍福と続命は、怙照の第四天、鬼官北斗君が治める場所による。鬼官北斗君とは北斗七星の試験官である。項梁城『酆都宮頌』曰く「紂絕は帝晨をあらはし、諒事は荘重な屋根を構える。熱く燃えさかる様子は大空が煙るほどであり、勢いが盛んであることは強い光が輝くようである。武陽は神鋒を身に着けている(かのように峻厳であり)、怙照は清河を呑む(かのように雄大である)。開閉して丹の取れる井戸(訳者注:煉丹術に必要な井戸。丹、水銀が取れる井戸とも)に臨み、宮殿の門は鬱蒼として山が険しい。七非は不思議な霊に通じ、連苑は不思議な力を施す。六天は北道に横たわり、これは鬼神の家である」と。およそ二万言ある詩歌だが、天宮の名だけを言っている。夜中にひそかにこれを読めば、化け物を避けることができる。
(参考:段成式著 今村与志雄訳注『酉陽雑俎 1』平凡社 1980年)

※『酉陽雑俎』は唐代の思想や社会に関する随筆集で、この玉格の章は中でも当時の道教思想について書かれた箇所に当たります。参考文献に示した東洋文庫『酉陽雑俎 1』をご覧頂くと分かるのですが、この章の内容は多くを陶弘景『真誥』に依っています。古典文献学的な事を言えば『真誥』をお示しするのが筋ですが、生憎ほしなみは道教思想の文献に暗く、また参照出来る書籍が限られていましたので『酉陽雑俎』を挙げました。上記も間違いの多い訳かと思われますので、もしご指摘等ありましたら有り難く拝聴したいと思います。また、ここに見える項梁城という名も、十二国記ファン的には「!」ですよね。

出典が明らかなもの、故事に由来するもの

翕如
(『漢辞海』第三版より)
それぞれの楽器の音がいっせいに起こるさま。
注:一説に、演奏をする前の音合わせのさま。

出典
(『論語』八佾)
子語魯大師樂曰、「樂其可知也。始作翕如。從之純如也、皦如也、繹如也。以成。」

書き下し
(金谷治 訳注『論語』1963年・岩波書店 P.66)
子魯の大師に樂を語りて曰く、「樂は其れ知るべきなり(※)。始めておこすに翕如たり。これをはなちて純如たり、皦如たり、繹如たり。以て成る。」と。

日本語訳
(同P.67)
先生が音楽のことを魯の楽官長に話された、「音楽はまあ分かりやすいものです。起こしはじめは〔金属の打楽器で〕盛んです。それを放つと〔諸楽器〕がよく調和し、はっきりし、ずっと続いていって、そうして一節が終わります。」
(※金谷治は上記「樂其可知也」の「也」を武内義雄校訂本に従って「已」と改め、「知るべきのみ」と訓読しています。同書注に「唐石経・通行本では『也』」とあり、そちらの方が一般的なテキストと判断しましたので今回は後者に拠って訓読しました。)

黃姑
(『漢語大詞典』より)
(黃姑,黄姑)
1. 牽牛星。
→黃姑女
指織女星。黃姑本指牽牛星,因「姑」字從女,故訛稱織女星。

2. 指臘梅

日本語訳
1.牽牛星(彦星のこと)。
→黄姑女
織女星を指す。黄姑は本来牽牛星を指すが、「姑」の字が女に従う(女偏を持つ)ことから、織女星に転訛した。

2. 蝋梅を指す。

出典①
(『玉臺新詠』巻九 歌辭二首 蕭衍「東飛伯勞歌」)
東飛伯勞西飛燕、黃姑織女時相見
誰家女兒對門居、開華發色照里閭
南窗北牖挂明光、羅幃綺帳脂粉香
女兒年幾十五六、窈窕無雙顏如玉
三春已暮花從風、空留可憐與誰同

書き下し
東のかた伯勞飛び西のかた燕飛ぶ、黃姑と織女と時に相まみ
誰の家か女兒の對門に居る、華開きて色發し里閭を照らす
南窗 北牖 明光をけ、羅幃 綺帳 脂粉香る
女兒の年幾は十五六、窈窕として雙ぶこと無し かんばせは玉の如し
三春已に暮れて花は風に從ふ、空しくも可憐を留むも誰と與に同じくせん

日本語訳
東に伯労(訳者注:鳥の名。一説にもず)が飛び、西に燕が飛ぶ、牽牛星と織女星が再会する頃
誰の家だろうか、少女が向かいの門に腰掛けている。花が咲き美しさが現れてこの村を照らすかのよう
南の窓にも北の窓にも光が差し込むかのよう うすもののたれまく、あやおりのとばり、おしろいが香る
少女の年頃は十五六、しとやかで美しいこと、ならぶ者などいないくらいに、そのかんばせは玉のよう
三年目の春が既に暮れ、花は風に従って散ってゆく あの子は他の誰とも似ていない、可愛らしさだけが虚しく心に留まる

出典②
(楊萬里「次東坡先生蠟梅韻」)
梅花已自不是花 冰魂謫墮玉皇家
不餐煙火更餐蠟 化作黃姑瞞造物
后山未覺坡先知 東坡勾引后山詩
金花勸飲金荷葉 兩公醉吟許孤絕
人間姚魏漫如山 令人眼暗只欲眠
此花寒香來又去 惱損詩人難覓句
月兼花影恰三人 欠個文同作墨君
吾詩無復古清越 萬水千山一瓶缽

(※この楊萬里の詩は、題からも分かる通り蘇東坡、すなわち蘇軾の詩に基づいたもので、次韻詩と呼ばれる特徴を備えた詩です。他に、詩の中に出てくる「后山(後山)」から陳師道の詩にも依拠していることが分かります。次韻詩とは、元となった詩の韻字とその順序をそのまま用いて新たに作られた詩の事で、唐代以来詩を贈り合う文学的な遊びの中で好んで用いられました。従ってこの詩を書き下したり訳したりする際には以下の蘇軾と陳師道の詩を訳す必要があるのですが、陳師道の詩の訳に難渋しています。先に別の元ネタを更新していくかと思いますがご容赦ください。また、次韻詩については内山精也『蘇軾次韻詩考』を参考にしました。)

参考
(蘇軾「蠟梅一首贈趙景貺」)
天工點酥作梅花 此有蠟梅禪老家
蜜蜂采花作黃蠟 取蠟為花亦其物
天工變化誰得知 我亦兒嬉作小詩
君不見萬松嶺上黃千葉 玉蕊檀心兩奇絕
醉中不覺度千山 夜聞梅香失醉眠
歸來卻夢尋花去 夢裏花仙覓奇句
此間風物屬詩人 我老不飲當付君
君行適吳我適越 笑指西湖作衣缽

書き下し
天工酥を點じて梅花と作す 此に蠟梅有り禪老が家
蜜蜂花を采りて黃蠟と作す 蠟を取りて花と為すも亦た其の物
天工の變化誰が知るを得ん 我も亦た兒嬉して小詩を作る
君見ずや萬松嶺上の黃千葉 玉蕊檀心兩つながら奇絕
醉中覺えず千山を渡る 夜梅の香を聞きて醉眠を失す
歸り來たりて却って夢に花を尋ね去れば 夢裏に花仙奇句をもと
此の間の風物詩人に屬す 我老いて飲まず當に君に付すべし
君行くゆく吳に適き我越に適く 笑ひて西湖を指して衣缽を作さん

日本語訳
天の造物のはたらきが酥を枝に点じて梅の花をお作りになりました。その蠟梅がここ長老の寺にあるのです。蜜蜂が花の蜜を吸って黄色の蠟を作ったのを、天が取って花にしつらえたものが他でもないこの蠟なのです。
天のはたらきは無尽であり料り知ることなどできませんが、わたしも子どもがいたずらするようにつまらぬ詩を作りました。
あなたはご存知でしょうか。万松嶺を一面の黄色に染める八重咲きの蠟梅の、玉のような花びらと淡い紅色をした花心とそのどちらもたぐいなく素晴らしいことを。酒に酔ううちに杭州から穎州まで幾重もの山を越えて来ましたが、夜に狼狽の香りに気づくと酔いの眠気もどこへやら。頴州に来ても夢の中で杭州に蠟梅を尋ねて出かけてみれば、花の神に面白い詩を嫁と求められるありさま。
こうした風雅は詩人ならではのいとなみです。でもわたしは老いてしまって飲めないのであなたにお任せします。あなたはまもなく呉に行かれるだろうし、私は越に参ります。(私の愛した)西湖をあなたに伝える衣鉢だと笑って指さしましょう。
(※訓読と訳文は、南山読蘇会『蘇軾詩注解(十八)」に依った。)

(陳師道「次韻蘇公蠟梅」)
化人巧作襄樣花 何年落子空王家
羽衣霓袖涴香蠟 從此人間識尤物
青瑣諸郎却未知 天公下取仙翁詩
烏丸雞距寫玉葉 却怪寒花未清絕
北風驅雪度關山 把燭看花夜不眠
明朝詩成公亦去 長使梅仙誦佳句
湖山信美更須人 已覺西湖屬此君
坐想明年吳與越 行酒賦詩聽擊鉢(※)

(※「鉢」字は検索に用いた「宋人與宋詩資訊系統」では文字不定となっていたが、いくつかのデータベースで「鉢」となっており、「擊鉢催詩」の故事成語もある為これに従った。また、「長使梅仙…」の「梅」は本によっては「詩」に作る)


書き下し

日本語訳

虎嘯
(『漢語大詞典』より)
1.虎吼叫。
2.比喻英傑得時奮起,四方風從,如風虎相感。

日本語訳
1.虎が咆哮する。
2.英傑が時機を得て奮起することの喩えで、英傑の四方に風が従い、風と虎とが呼応し合うかのようであることを示す。

出典①
(曹丕「十五」詩)
登山而遠望 溪谷多所有
楩柟千餘尺 眾草芝盛茂
華葉耀人目 五色難可紀
雉雊山雞鳴 虎嘯谷風起
號羆當我道 狂顧動牙齒

書き下し
山に登りて遠く望む 溪谷有する所多し
楩柟へんなん千餘尺 草おほくして芝盛茂す
華葉は人目を耀かし 五色はしるすべきこと難し
雉雊ちこう山雞鳴き 虎嘯きて谷風起こる
號せる羆我が道に當りて 狂顧して牙齒を動かす

日本語訳
山に登って遠くを見渡せば、渓谷の景色が多く見える
楠の大木は千余尺とも思われ、草や芝は数多く繁茂している
花や葉は人の目を輝かせ、様々な色あいは筆舌に尽くし難い
雉や錦雞きんけいが鳴き、虎が遠吠えして東風が起こる
吠えるひぐまが私の行く道に出て来ると、きょろきょろと見回しては牙を剥いている。

出典②
(『周易』乾卦 文言伝)
九五曰「飛龍在天,利見大人」何謂也。子曰「同聲相應,同氣相求。水流濕,火就燥,雲從龍,風從虎。聖人作而萬物睹。本乎天者親上,本乎地者親下,則各從其類也。」
(孔穎達疏)虎是威猛之獸,風是震動之氣,此亦是同類相感。故虎嘯則谷風生,是風從虎也。

書き下し
九五曰く「飛龍天に在り、大人を見るに利あり」と。何の謂ひぞや。子曰く「聲を同じくして相ひ應じ、氣を同じくして相ひ求む。水はうるほへるに流れ、火はかはけるに就く、雲は龍に從ひ、風は虎に從ふ。聖人おこりて萬物睹る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ、則ち各おの其の類に從ふなり」と。
(孔穎達疏)虎は是れ威猛の獸、風は是れ震動の氣、此れも亦た是れ同類相ひ感ず。故に虎嘯けば則ち谷風生ず、是れ風は虎に從ふなり。

日本語訳
乾卦九五の経文に「飛龍天に在り、大人を見るに利あり」とあるが、どういうことか。先生がおっしゃるには「声を同じくするものは感応しあい、気を同じくするものも引きあうものである。水は湿っている場所へと流れ、火は乾燥しているものに着き、雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人がこの世に立ち上がれば万物がこれを見る。天に基づくものは上方に親しみ、地に基づくものは下方に親しむ。これはそれぞれの種類に沿っているのである」と。
(孔穎達疏)虎は勇猛な獣であり、風は震動の気である、これもまた同類がお互いに呼応しあっているのである。それゆえ虎が吠えれば東風が生じる、これが風は虎に従うということなのである。
(参考:本田濟『易』朝日新聞出版・1997年 P.52)

参考
(『漢語大詞典』より)
虎嘯風生
比喻英雄乘時奮起。
日本語訳
英雄が時機に乗じて奮起することのたとえ。

虎嘯風馳
謂事物之相互感應。
日本語訳
物事がお互いに呼応しあうことを言う。

柴望
(『漢辞海』第三版より)
木の小枝をたいて天の神を祭り、山川を望んで地の神を祭る。

出典
(『尚書』武成)
惟一月壬辰,旁死魄,越翼日癸巳,王朝步自周,于征伐商。厥四月哉生明,王來自商至于豐。乃偃武修文。歸馬于華山之陽,放牛于桃林之野,示天下弗服。丁未,祀于周廟,邦甸、侯、衛,駿奔走,執豆籩。越三日庚戌,柴望大告武成。

書き下し
惟れ一月壬辰、死魄に旁たり、翼日を越えて癸巳、王朝して周より商を征伐するに步む。すなはち四月はじめて明生じ、王來りて商より豐に至る。乃ち武をせ文を修む。馬を華山之陽に歸し、牛を桃林の野に放ち、天下に服せ弗るを示す。丁未、周廟を祀りて、甸、侯、衛を邦し、駿すみやかに奔走し、豆籩とうへんを執る。三日を越えて庚戌、柴望して大ひに武成を告ぐ。

日本語訳
一月壬辰の日、新月に近く、翌日の癸巳の日、王は臣下の謁見を受けて周から商(訳者注:殷のこと)を征伐しに行軍した。そして四月に月明かりが初めて出て来た頃、王は商から豐に至った。そして武をやめて文教を興した。馬を華山の南麓に帰し、牛を桃林の野に放牧し、天下に再び牛馬を車につけることはしないと示した。丁未の日、周の廟を祀って甸、侯、衛の国々の領土を分かち与え、素早く尽力し、祭祀の為のたかつきを取る。三日後の庚戌、天地の神を祭り、大いに戦争での勝利を告げた。

砥尚
(『漢語大詞典』より)
砥礪崇尚。

日本語訳
励み努めて尊ぶ。

出典
(『魏書』儒林傳序)
世祖始光三年春,別起太學於城東,後徵盧玄、高允等,而令州郡各舉才學。於是人多砥尚,儒林轉興。

書き下し
世祖始光三年の春、別に太學を城東に起こす。後に盧玄、高允等をして州郡をして各おの才學を舉げしむ。是に於いて人多く砥尚し、儒林うたた興る。

日本語訳
世祖の始光三年の春、他に太学を城東に建設した。後に盧玄、高允等を召し、州や郡からそれぞれ才能と学問のある人物を推挙させた。そうして人々は切磋琢磨して励まし合い、また尊重しあう者が多くなり、儒者の集まりは次第に興隆していった。

迅雷
(『漢辞海』第三版より)
迅電不及瞑目=迅雷不及掩耳
いなびかりが速くて、目を閉じられない。いなずまが急で耳をおおえない。動作や事件が突然起こって、防ぎようのないたとえ。

出典
(『六韜』軍勢)
……聖人徵於天地之動、孰知其紀。循陰陽之道而從其候、當天地盈縮、因以為常、物有死生、因天地之形。故曰、未見形而戰、雖眾必敗。善戰者、居之不撓、見勝則起、不勝則止。故曰、無恐懼、無猶豫。用兵之害、猶豫最大、三軍之災、莫過狐疑。善者、見利不失、遇時不疑。失利後時、反受其殃。故智者從之而不釋、巧者一決而不猶豫。是以疾雷不及掩耳、迅電不及瞑目。赴之若驚、用之若狂、當之者破、近之者亡。孰能禦之。

書き下し
……聖人は天地の動をあらはす、たれか其の紀を知らん。陰陽の道に循ひ其の候に從ふは、天地の盈縮に當たる。以て常たるに因る。物に死生有り、天地の形に因る。故に曰く、未だ形をあらはさず而るに戰へば、眾と雖も必ず敗る。善く戰ふ者は、之に居きて撓まず、勝ちを見れば則ち起ち、勝たざれば則ち止む。故に曰く、恐懼無く猶豫無し。用兵の害は猶豫最も大なり。三軍の災は狐疑に過ぐは莫し。善き者は、利を見て失はず、時に遇ひて疑はず。時に後れて利を失へば,反って其の殃を受く。
故に智者は之に從ひて釋せず、巧者は一たび決すれば猶豫せず。是を以て疾雷は耳を掩ふに及ばず、迅電は目を瞑るに及ばず。之に赴きて驚くが若く、之を用ゐて狂ふが若し。之に當たる者は破れ、之に近づく者は亡ぶ。孰か能く之を禦がん。

日本語訳
……聖人は天地の動きを審らかにした、誰がその規律を知っているだろうか。陰陽の道に沿い折々の気候に従うのは、天地が膨らんだりしぼんだりすることを司っている。この世の法則に因っている。物には生死がある、天地の形に因っている。故に言うのである、まだ形を現わしていないのに戦えば、人数が多くても必ず敗れる。善く戦う者は、ここに留まってもたじろがず、勝機を見れば起って、勝たないと見れば止まる。故に言うのである、恐れることなく、ためらうこともないようにせよ。用兵の害の中で、ためらいは最も大きな害である。三軍の災の中で、疑ってためらう以上のものはない。善く戦う者は、利を見ればこれを失わず、時機に遭遇すれば疑わない。時に遅れて利を失ってしまうと、逆に災いを受けることになる。
故に智者は天地の動きに従って一々解き明かそうとはせず、巧者は一度決断すればためらわない。それで、速い雷は耳を掩うのも間に合わない、速い稲妻は目を瞑るのも間に合わない(というのと同じだ)。その場所に赴いてから驚くようであり、それを用いてから猛烈になるようである。これに当たる者は破れ、これに近づく者は滅ぶ。だれがこれを防げるだろうか。

菁華
(『漢辞海』第三版より)
ものの最も優れたところ。精華。

出典
(『尚書大傳』虞傳)
於時俊乂百工、相和而歌卿雲。帝乃倡之曰「卿雲爛兮、(和氣之明者也。)糾縵縵兮、(教化廣遠、或以為雲出岫、回薄而難名狀也。)日月光華、旦復旦兮。(言明明相代。)」八伯咸進稽首曰「明明上天、爛然星陳、日月光華、弘於一人。」帝乃載歌擁(※)旋持衡曰「日月有常、星辰有行、四時從經、萬姓允誠、於予論樂、配天之靈、遷於賢聖、莫不咸聽、鼚乎鼓之、軒乎舞之、菁華已竭、褰裳去之。於時八風循通、卿雲叢叢。(叢或為蔟、言和氣應也。)蟠龍賁信於其藏、(蟠、屈也。)蛟魚踴躍於其淵、龜鱉咸出於其穴、遷虞而事夏也。」
(注釈に括弧を補いました)

(※ 陳寿祺『尚書大伝輯校』の指摘により、擁字を補いました。なお、この「擁旋持衡」の日本語訳については間嶋潤一『禅譲と太平国家:『尚書中候』における禅譲神話』を参照しました。)

書き下し
時に俊乂百工は、相和して卿雲を歌ふ。帝乃ち之をとなへて曰く「卿雲は爛たり(和氣の明なる者なり。)、はさること縵縵たり(教化廣遠にして、或は以為おもへらく雲の岫を出で、回薄して名狀し難きなり。)、日月の光華、旦復た旦(明明として相代はるを言ふ。)」と。八伯はみな進みて稽首して曰く「明明たるかな上天、爛然たり星陳、日月の光華、一人によりて弘まる」と。帝乃ち歌をはじめて擁旋持衡して曰く「日月に常有り、星辰に行有り、四時は經に從ひ、萬姓は允誠なり、予に樂を論ずるは、配天の靈なり、賢聖に遷りて、咸聽かざる莫し、鼚乎として之を鼓し、軒乎として之を舞ふ、菁華は已に竭き、裳をかかげて之を去る。時に八風は循通し、卿雲は叢叢たり。(叢は或は蔟たり、和氣の應ずるを言ふなり。)蟠龍は其の藏に賁信し(蟠は屈なり。)、蛟魚は其の淵に踴躍す、龜鱉は咸其の穴より出で、虞は遷りて夏に事ふるなり。」

日本語訳
その時才徳備えた百官は、お互いに調和して「卿雲」の歌を歌った。帝はそこでこれを先唱して言うことには「瑞雲は鮮やかである(和気が明るいという事である。)、合わさることは広くたなびくようである(民衆への教化は広遠である。或いは雲が峰から湧き出て、循環し変化し続ける事が形容し難いのである。)、日月の輝きは、あくる日もあくる日も毎日続く(明るくお互いに交代する事を言う。)」と。八伯は皆進み敬礼して言うことには「全てを見通される上天、目にも鮮やかな星の並び、日月の輝きは、一人によって広まる」と。帝はそこで歌を始め、天を観察して言うことには、「日月には法則があり、星辰には運行があり、四時(訳者注:四季のこと)は道理に従う。民衆は誠実であり、私に音楽を論じるのは、天と共に礼拝する祖先の霊である。賢聖に(位は)移って、皆拝聴しない者はない。ちょうと鼓を打ち鳴らし、軒と舞を舞う。菁華(精華)は既に尽きた、裳を持ち上げてここを去る。時に八方からの風は巡り通って、瑞雲は群がり集まっている。(叢は或いは蔟である、和気が応じる事を言うのである。)とぐろを巻いてわだかまる龍は隠れ家にて躍動し(蟠は屈である。)、蛟魚みずちは住んでいる淵で踴躍する、亀やすっぽんは皆巣穴から出て、虞(訳者注:古の聖人、舜のこと)は王位から移って夏(訳者注:禹のこと)に仕えるのであった。」

青喜
(『漢語大詞典』より)
鵲的別稱。

日本語訳
かささぎの別称。

出典
(宋陶穀『清異錄』禽名門 青喜)
李正己被囚執、夢云「青雀噪、即報喜也。」是旦、果有群雀啁啾、色皆青蒼。至今李族居淄青者、呼雀為「青喜」。

書き下し
李正己囚執され、夢みて云く「青雀のさわがしきは、即ち喜びを報ぐるなり」と。是れ あした となり、果たして群雀の啁啾する有り、色皆青蒼たり。今李族の淄青に居るに至る者は、雀を呼びて「青喜」と為す。

日本語訳
李正己(訳者注:李正己は唐代の高句麗人で、最初の淄青平盧節度使。安史の乱に抵抗した功績を認められた後、兵力の回復を理由に平盧から青州へ移動し同地方の発展に寄与した)は敵に囚われた際に、次のような夢を見た。「青い雀が騒がしいのは、喜びを知らせているということなのである」と。朝になると、本当に雀の群れがちゅんちゅんと鳴いており、色は皆青々としている。そこで李族で淄青(訳者注:淄青は唐代の藩鎮の名。淄青平盧とも言う)へ住むに至った者は、雀を「青喜」と呼ぶのである。

靖共
(『漢辞海』第三版より)
まじめに勤め、つつしむさま。〈詩・小・小明〉

出典
(『毛詩』小雅 谷風之什「小明」)
明明上天,照臨下土。我征徂西,至于艽野。
二月初吉,載離寒暑。心之憂矣,其毒大苦。
念彼共人,涕零如雨。豈不懷歸。畏此罪罟。
昔我往矣,日月方除。曷云其還。歲聿云莫。
念我獨兮,我事孔庶。心之憂矣,憚我不暇。
念彼共人,睠睠懷顧。豈不懷歸。畏此譴怒。
昔我往矣,日月方奧。曷云其還。政事愈蹙。
歲聿云莫,采蕭穫菽。心之憂矣,自詒伊戚。
念彼共人,興言出宿。豈不懷歸。畏此反覆。
嗟爾君子,無恆安處。靖共爾位(高亨注,靖,猶敬也。共,奉也。),正直是與。神之聽之,式穀以女。
嗟爾君子,無恆安息。靖共爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。
(注釈に括弧を補いました)

書き下し
(石川忠久 訳注『詩経』中巻 1998年 明治書院 P.393~P.398)
該当部分の前後を訳出しています
嗟爾ああ君子よ つねに安處する無かれ
なんぢの位を靖共し(高亨が注す、靖とはちょうど敬うということである。共とは奉るということである。) 正直是れくみせよ
神の之を聽けば 穀をもっなんぢあたへん。
嗟爾ああ君子よ 恆に安息する無かれ
爾の位を靖共し 是の正直をよみせよ
神の之を聽けば 爾に景福をあたへん。

日本語訳
(同上)
ああ、あなた君子(祖霊)よ。(どうか私の一族の加護をお願いしたい。私は一族の者にその加護をいただくために戒めの言葉を言う。)いつも逸楽にふけるな、自分の職を静かに恭しく(勤め)、正しい道と親しめ。(祖霊に訴える戒めの言葉を)神がこれを聴けば、福禄をあなたに与えよう。
ああ、あなた君子(祖霊)よ。(どうか私の一族の加護をお願いしたい。私は一族の者にその加護をいただくために戒めの言葉を言う。)いつも安んじて居るな、自分の職を静かに恭しく(勤め)、正しい道を愛せよ(祖霊に訴える戒めの言葉を)神がこれを聴けば、大いなる福をあなたに与えよう。

率由
(『漢辞海』第三版より)
①〔旧習・旧慣などを〕尊重して、従う。従う。
②服従する。
③由来。物事のいわれ・わけ。

出典①
(『毛詩』大雅 假樂)
假樂君子,顯顯令德。宜民宜人,受祿于天。保右命之,自天申之。
干祿百福,子孫千億。穆穆皇皇,宜君宜王。不愆不忘,率由舊章。
威儀抑抑,德音秩秩。無怨無惡,率由群匹。受福無疆,四方之綱。
之綱之紀,燕及朋友。百辟卿士,媚于天子。不解于位,民之攸塈。

書き下し
(石川忠久 訳注『詩経』下巻 2000年 明治書院 P.156~P.160)
假樂する君子 顯顯たる令德
民宜しく人に宜し 祿を天より受さづ
保右し之に命じ 天より之をかさ
千祿百福 子孫千億なり
穆穆皇皇として 君に宜しく王に宜し
あやまらずうしなははず 舊章に率由す
威儀は抑抑として 德音は秩秩たり
怨まるる無く惡まるる無し 群匹に率由す
福をさづくることかぎり無し 四方の綱なり
之に綱し之に紀し やすんずること朋友に及ぶ
百辟卿士 天子をいつくし
位におこたらず 民のいこところ

日本語訳
(同上)
楽しめる祖霊、顕顕と輝くその善徳。人民に手厚く、恵福を天から授けたまう。周を保護して天命を授け、天から幾度も恵福を齎して下さる。
(祖霊の佑護により)千百の恵福がもたらされ、子孫は栄えて千億にも上る。祖霊は穆々と充実し皇々と輝き、君主に手厚い。過失なく古くから変わらず佑護して下さる。
その容貌は抑抑と厳かに、その恵福は秩秩として変わらず。怨まれることなく悪まれることなく、民衆の意志に従われる。恵福をお授けくださること限り無く、天下を治める要である。
秩序の要となり天下を治め、群臣までも安んじたまう。周の百官・官僚は天子を慈しむ。おのおのその職位に懈らず、民衆が身を寄せる国である。

出典②
(『文選』巻二十 献詩 曹植「責躬詩」)
(長い詩なので、途中で切っています。全文はこちら
於穆顯考,時惟武皇。
受命于天,寧濟四方。
朱旗所拂,九土披攘。
玄化滂流,荒服來王。
超商越周,與唐比蹤。
篤生我皇,奕世載聰。
武則肅烈,文則時雍。
受禪于漢,君臨萬邦。
萬邦既化,率由舊則。
廣命懿親,以藩王國。
帝曰爾侯,君茲青土。
奄有海濱,方周于魯。
車服有輝,旗章有敘。
濟濟儁乂,我弼我輔。
(後略)

書き下し文
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹 訳注『文選 詩篇 (一)』2018年 岩波書店 P.101~P.105)
躬を責むるの詩
ああ穆たる顯考、れ惟れ武皇
命を天に受け、四方を寧んじすく
朱旗の拂う所、九土披攘す
玄化あまねく流れ、荒服も來王す
商を超え周を越え、唐とあとなら
篤く我が皇を生み、奕世えきせい聡きを
武は則ち肅烈、文は則ち時雍
ゆずりを漢に受け、万邦に君臨す
万邦既に化し、旧則にしたがい由る
広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ
帝曰く なんじ 侯よ、茲の青土に君たれと
おおいに海浜を有して、周の魯に于けるに方ぶ
車服 輝く有り、旗章 叙有り
済済たる儁乂、我をたすけ我をたす
(後略)

日本語訳
(同上)
我が身を責める詩
ああ、気高き父君、これぞ武皇帝。
天より命を受け、国じゅうに安寧をもたらされました。
赤い御旗が振るわれた所、隅々まで平服するに至りました。
徳はあまねく行き渡り、地の果てまで帰順したのです。
殷にもまさり周をも越え、堯にもならぶほどでありました。
天の祝福を受けて我が天子がお生まれになり、二代にわたって聡明であらせられます。
武はといえば凜々しく、文はといえばみやびやか。
漢王朝より帝位を譲られ、よろずの国々に君臨されます。
万国が帰順すると、いにしえの典範に準拠されました。
広く身内に命じて、王国の護りとしたのです。
皇帝が仰せられました、「なんじ、臨淄侯よ。この青州の地に君主となれ」と。
広々とした海浜を所有したのは、周王朝が魯に封じた例にならぶものです。
侯として賜った車馬、衣服は光り輝き、旗印にも秩序を示されました。
あまたのすぐれた家臣が、わたくしの右腕となってくれました。
(後略)

知音
(『漢辞海』第三版より)
①音楽に精通する/人。
②心の通いあった友人。知言。
注:伯牙の弾く琴の音をきいて、鍾子期が伯牙の気持ちを理解したことから。

出典①
(『禮記』樂記)
凡音者、生於人心者也。樂者、通倫理者也。是故知聲而不知音者、禽獸是也。知音而不知樂者、眾庶是也。唯君子為能知樂。是故審聲以知音、審音以知樂、審樂以知政、而治道備矣。是故不知聲者不可與言音、不知音者不可與言樂。知樂則幾於禮矣。禮樂皆得、謂之有德。德者得也。是故樂之隆、非極音也。食饗之禮、非致味也。清廟之瑟、朱弦而疏越、壹倡而三歎、有遺音者矣。大饗之禮、尚玄酒而俎腥魚、大羹不和、有遺味者矣。是故先王之制禮樂也、非以極口腹耳目之欲也、將以教民平好惡而反人道之正也。

書き下し
凡そ音は人の心に生ずる者なり。樂は倫理に通ずる者なり。是の故に聲を知りて音を知らざる者は、禽獸是れなり。音を知りて樂を知らざる者は、眾庶是れなり。唯だ君子のみすなはち能く樂を知る。是の故に聲を審らかにして以て音を知り、音を審らかにして以て樂を知り、樂を審らかにして以て政を知れば、治道備はる。是の故に聲を知らざる者は與に音を言ふべからず、音を知らざる者は與に樂を言ふべからず。樂を知れば則ち禮にちかし。禮樂皆得ること、之を有德と謂ふ。德は得なり。是の故に樂の隆は、音を極むに非ざるなり。食饗の禮は、致味に非ざるなり。清廟の瑟は、朱弦にして疏越、壹倡して三歎し、遺音なる者有り。大饗の禮は、玄酒而して俎腥魚を尚び、大羹は和せず、遺味有る者なり。是の故に先王の禮樂をさだむるや、以て口腹耳目之欲を極むに非ざるなり、將に以て民を教へ好惡を平らげ、人道の正にかへさんとするなり。

日本語訳
そもそも音とは人の心に生ずるものである。楽は倫理に通じるものである。その為、声を知っているが音を知らない者は、禽獣である。音を知っているが楽を知らないものは、庶民である。ただ君子だけが楽を知ることが出来る。ゆえに声を知り尽くして音を知り、音を知り尽くして楽を知り、楽を知り尽くして政治を知れば、国を統治する道は備わるのである。その為、声が分からない者は同時に音についても述べることが出来ず、音が分からない者は楽について述べることは出来ない。楽が分かれば、それら礼に近いということである。礼楽を会得することを有德という。德は「得る」ということである。ゆえにに音楽の隆盛は、音を極めることにあるのではない。神を祭る酒食は、味を極めはしない。清廟の曲(訳者注:帝王が祖霊を祭る楽曲)の瑟(訳者注:大きな琴)は、朱弦と疏越を用い、一度唱えては三歎し、余韻というものがある。大饗(訳者注:先王の霊を合わせた祭礼)の礼は、玄酒(訳者注:祭礼用の水)と俎に載せた鮮魚を尚び、大羹(訳者注:肉汁のこと)は調和せず、後味がある。ゆえに先王が礼楽を定めたのは、口腹耳目の欲を極めようとするのではない。民を教化し、好悪を均し、人道の正しいあり方に立ち返らせようとしてのことなのである。

出典②
(『列子』湯問篇)
伯牙善鼓琴、鍾子期善聽。伯牙鼓琴、志在登高山。鍾子期曰「善哉、峨峨兮若泰山。」志在流水。鍾子期曰「善哉、洋洋兮若江河。」伯牙所念、鍾子期必得之。伯牙游於泰山之陰、卒逢暴雨、止於巖下、心悲、乃援琴而鼓之。初為霖雨之操、更造崩山之音、曲每奏、鍾子期輒窮其趣。伯牙乃舍琴而歎曰:「善哉善哉、子之聽夫志、想象猶吾心也。吾於何逃聲哉」

書き下し
伯牙は善く琴を鼓し、鍾子期は善く聽く。伯牙琴を鼓し、志の高山を登るに在れば、鍾子期曰く「善き哉、峨峨たること泰山の若し。」志の流水に在れば、鍾子期曰く「善き哉、洋洋たること江河の若し。」伯牙の念ずる所、鍾子期必ず之を得。伯牙泰山の陰に游ぶ、にはかに暴雨に逢ふ、巖下に止まりて、心悲しみ、乃ち琴をりて之を鼓す。初めて霖雨之操を為り、更に崩山之音を造る。曲奏する每に、鍾子期輒ち其の趣を窮む。伯牙乃ち琴舍てて歎じて曰く「善き哉善き哉、子の夫の志を聽くこと、想象すること猶ほ吾が心のごときなり。吾いづくに聲を逃さんや」

日本語訳
伯牙は琴を弾くのが上手で、鍾子期はそれを聞くことが上手だった。伯牙が琴を奏で、その考えが高山を登ることにあれば、鍾子期は「良いねえ、泰山が高くそびえているかのようだ」と言い、考えが流水にあれば、鍾子期は「良いねえ、長江や黄河が広々としているかのようだ」と言った。伯牙が思うことを、鍾子期は必ず理解した。伯牙が泰山の北側に遊んだ時、突然暴雨に見舞われた。大きな岩の下で雨宿りをしたが、(悪天候に)悲しくなり、そこで琴を手に取って演奏した。最初に霖雨の操という曲を作り、更に崩山の音という曲を作った。演奏する度に、鍾子期は曲趣を理解し尽くした。伯牙は琴を捨てて慨嘆して言った、「良いねえ、良いねえ、あなたがの私の考えを聞き取ることは、私の心そのものを想像しているかのようだよ。私は声を何処に逃せば良いのだろう(あなたに全て聞き取られてしまうから逃げようがない)」と。

彤矢
(『漢語大詞典』より)
朱漆箭。古代天子用以賜有功諸侯大臣。

日本語訳
朱うるしで塗られた矢。古代、天子が功績のあった諸侯大臣に下賜するのに用いた。

(『漢辞海』第三版より)
彤弓 朱・赤色塗りの弓。天子が諸侯の功績に対して与えたもの。

出典
(『尚書』文侯之命)
王曰「父義和、其歸視爾師、寧爾邦。用賚爾秬鬯一卣、彤弓一、彤矢百、盧弓一、盧矢百、馬四匹。父往哉。柔遠能邇、惠康小民、無荒寧、簡恤爾都、用成爾顯德。」

書き下し
(加藤常賢 訳注『書経』1983年 明治書院 P.349~P.352)
王曰く、「父義和、其れ歸つて爾の師を視、爾の邦を寧んぜよ。もって爾に秬鬯一卣きょちょういちいう、彤弓一、彤矢百、盧弓一、盧矢百、馬四匹をたまふ。父往かん哉。遠きをやはらちかきを能くし、小民を惠康し、荒寧する無く、おほいに爾の都をうれひ、用て爾の顯德を成せ。」と。

現代語訳
(同上)
王は〔さらに〕いわれた、父の義和よ、〔今から、汝の国に〕帰って汝の官長を監督し、汝の国を安らかに治めよ。〔汝の功に〕よって汝に秬鬯酒(香料を入れ、黒きびで作った、祭礼に用いる酒)一つぼと朱塗りの弓一・朱塗りの矢百・くろ塗りの弓一・黸塗りの矢百・馬四匹を与える。父よ往けよ。〔これによって〕遠国のものどもをよくなつけ近国のものどもをよく治め、〔また〕下々のものどもをめぐみ、〔汝自身は〕安きを貪らずに、大いに汝の国のことを配慮して、そうして〔汝の〕明らかな徳を成しとげよ。」

包荒
(『漢辞海』第三版より)
①荒れけがれたものを包みかくす。一説に、度量が大きいさま。

出典
(『周易』泰卦九二)
九二。包荒。用馮河。不遐遺。朋亡。得尚于中行。
象曰、包荒得尚于中行。以光大也。

書き下し
(『周易』は占いの書であり、その文章の意味するところは難解です。日本語の一般書の範囲でも全く異なる訓読・訳文が記されていますので、内二つを挙げてここに記します。)

(三浦國雄『易経』2010年・角川学芸出版 P.67~P.68)
九二 包荒もてもって河をかちわたれば、つるにいたらず。朋は亡うも中行にたすけらるるを得。

(本田濟『易』朝日新聞出版・1997年 P.135)
九二は、荒をね、馮河ひょうかを用い、とおきをわすれず、朋亡ともうしなう。中行にかなうを得たり。
象に曰く、荒を包ね、中行に尚うを得るは、光大なるを以てなり。

日本語訳
(三浦國雄『易経』より)
九二 ヒョウタンを腰にくくりつけて河を渡れば、水没することはない。お金は失うが、途中で援助が得られる。
語釈:「包」は腰舟にする中空(荒)のヒョウタンととった。

(本田濟『易』より。現代語訳を含む解説)
(前略)さて九二は剛爻をもって柔の位におる。つまり内心剛毅果断で外には寛大ということ。そこで外に対しては荒を包ねる――穢いものでも包容するが、時としては大河を徒歩で渡るような思い切った策を用いる。泰平の時はとかく因循姑息に陥るからである。九二はまた下卦の「中」におり、上にむかっては六五と「応」じている(二と五は陽と陰でひきあう)。その徳は泰の主人たるにふさわしい。上に「応」があることは、遠くの者、たとえば陋巷の賢者をも忘れないで招く――遐きを遺れぬことにもなる。さりとて政治の衢に当たったうえは、私情に惹かれてはならないので、朋党の誼みをも絶ち切らねばならぬこともある。朋亡うことになってもやむを得ない。これらの態度はすべて中道(=中行)にかなったものといえよう。(後略)

(『易』のテクニカルタームである「卦」「爻」や「陰陽」については、ここでは説明を省略します。気になる方は是非上記で引用した本や、金谷治『易の話』講談社学術文庫 などをご参照ください。)

明珠
(『漢辞海』第三版より)
①光る珠たま。宝珠。
②優れた人や事物のたとえ。〈楚・憂苦〉
③{道}目。

出典
(『楚辞』九歎 憂苦)
欲遷志而改操兮,心紛結其未離。
外彷徨而游覽兮,內惻隱而含哀。
聊須臾以時忘兮,心漸漸其煩錯。
願假簧以舒憂兮,志紆鬱其難釋。
歎離騷以揚意兮,猶未殫於九章。
長噓吸以於悒兮,涕橫集而成行。
傷明珠之赴泥兮,魚眼璣之堅藏。
同駑鸁與乘駔兮,雜斑駮與闒茸。
葛藟虆於桂樹兮,鴟鴞集於木蘭。
偓促談於廊廟兮,律魁放乎山間。
惡虞氏之簫韶兮,好遺風之激楚。
潛周鼎於江淮兮,爨土鬵於中宇。
且人心之持舊兮,而不可保長。
邅彼南道兮,征夫宵行。
思念郢路兮,還顧睠睠。
涕流交集兮,泣下漣漣。

九歎は屈原や宋玉といった『楚辞』の中核的作品を担った人物による作ではなく、漢代に『楚辞』の影響を受けて作られた後続作品の一つで、「漢代擬騒作品」と呼ばれるものです。「九歎」は伝わる限りでは劉向作とされていますが、後代の仮託の可能性も大きく、良く分かっていません。内容は「離騒」の語り手の人生をなぞり、共感するものです。今回引用した中にも、『楚辞』や「離騒」を踏まえた表現が散見されます。参考:矢田尚子『「無病の呻吟」 ‐楚辞「七諫」以下の五作品につ
いて‐』

書き下し
遷志を欲して操を改むも 心紛結して其れ未だ離れず
外に彷徨して游覽し 內に惻隱して哀しみを含む
須臾をたのしみて以て時忘し 心漸漸として其れ煩錯す
願はくはこうを假りて以て憂ひを舒べん 志は紆鬱して其れ釋くこと難し
離騷を歎きて以て意を揚ぐ 猶ほ未だ九章にきざるがごとし
長く噓吸して以て於悒おゆうす 涕ちて集まり行を成す
明珠を傷つけて之くろみ 魚眼は之を璣とし堅く藏す
駑鸁どえい乘駔じょうそうとを同じくし 斑駮と闒茸とうじょうとを雜ふ
葛藟かつるいは桂樹にりて 鴟鴞しきょうは木蘭に集ふ
偓促あくせくと廊廟に談じて 律魁は山間に放たる
虞氏の簫韶しょうしょうを惡みて 遺風の激楚を好む
周鼎を江淮に潛め 土鬵どしんを中宇にかし
しばらく人心舊きを持するも 保長すべからず
彼の南道をてんし 征夫は宵行す
えいの路を思念し 還顧すること睠睠けんけんたり
涕流こもごも集まり 泣下すること漣漣たり

日本語訳
志を変えようと思って行動を改めても、心の憂悶は我が身を離れない
外にさまよって景色を眺め、内にいたわしさを抱えて哀しみを含む
一時楽しみを感じて時を忘れても、心は涙を流して煩悶する
出来ることなら笙を用いて憂いを述べたいが、志は鬱屈していて解くのも難しい
嘆いて離騒を作りその心を伝えたのは、正に九章には思いを書き尽くせなかったからだ
長いこと涙を流しては嗚咽し、涙は溢れて列をなす
明るく輝く珠を傷つけてすぐに黒ずませ、魚眼を宝石のように扱って大切にしまいこむ
ラバと駿馬を同じように扱い、彩り豊かなものの中に低劣なものをまじえる
葛藟は桂の木にすがりつき、ふくろうは木蘭の木にむらがる
偓促と朝廷で話し込み、賢士を山の中へと放逐する
虞氏(舜)の作った簫韶という音楽を嫌い、昔からの淫らな音楽を好む
周の鼎を長江や淮河に沈め、母屋で大釜を使って煮炊きする
暫くの間人の心が昔のことを保持できたとしても、長らく保つことはできない
江南の道に行き詰まって、旅人は夜も歩いて行く
楚の都の郢の通りを思い、出て来たというのに後ろを振り返る
涙が流れては集まって、とめどなく泣き続けるのだ

蘭玉
(『漢辞海』第三版より)
①「芝蘭玉樹」の略。他人の子弟をほめる言い方。②女子の徳操の優れたさま。

出典
(『晋書』謝安伝)
謝玄少穎悟、與從兄朗俱為叔父安所器重。
安嘗戒約子姪、因曰「子弟亦何豫人事、而正欲使其佳。」諸人莫有言者。玄答曰「譬如芝蘭玉樹、欲使其生於庭階耳。」

書き下し
謝玄は少くして穎悟し、從兄の朗と俱に叔父の安の器重する所と爲る。
安嘗て子姪に戒約して、因りて曰く「子弟は亦た何ぞ人事にあずかり、正に其の佳ならしむを欲さん」と。諸人言有る者莫し。玄答へて曰く「譬ふるに芝蘭玉樹の如し、其れ庭階に生はしめんことを欲するのみ。」

日本語訳
謝玄は若くして才知に優れ、従兄の謝朗と共に叔父の謝安に才能を重んじられていた。
謝安は嘗て自分の甥姪を戒めて言った、「お前達は一体どういう理由で世の中の事に関わって、その中で立派な働きをすることを欲するのか」と。誰も発言する者はいなかった。謝玄が答えて言うことには「譬えるなら(有徳者を表す)芝蘭や(優れた才能を持った人を表す)玉樹です、こうした草木を庭に続く階に生やすことを望むだけです」と。

(※芝蘭や玉樹に喩えられる才能のある者が、これからも一族から輩出されることを望む、というような意味あいだと思われます。ここから「芝蘭玉樹」は優秀な子弟を指す言葉になりました。)

蘭桂
(『漢辞海』第三版より)
①ランとカツラ。立派な人物のたとえ。
②他人の子孫をほめていうことば。

出典
(『文選』巻二十五 劉琨「答盧諶詩」)
(長い詩なので、途中で切っています。全文はこちら
(前略)
虛滿伊何
蘭桂移植
茂彼春林
瘁此秋棘
有鳥翻飛
不遑休息
匪桐不棲
匪竹不食
永戢東羽
翰撫西翼
我之敬之
廢歡輟職
(後略)

書き下し
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹 訳注『文選 詩篇 (三)』2018年 岩波書店 P.311~P.313)
虛滿はいかん
蘭桂 移し植うればなり
彼の春林を茂くして
此の秋棘をらす
鳥有りて翻り飛び
休息するにいとまあらず
桐にあらざれば棲まず
竹に匪ざれば食らわず
永く東羽をおさめんとし
びて西翼をu
我の之を敬する
歓びを廃し職を

日本語訳
(同)
庭に何もなく悲しみあふれるのは何ゆえか。蘭や桂が移し替えられてしまった。
あちらは春の林の華やぎ、こちらは秋のいばらの衰え。
鳥が翼をひるがえして飛んできても、止まって休むこともかなわない。
桐の木でなければ棲まず、竹の実でなければ口にしないから。
東でゆっくり羽を休めようと、西から翼を打って飛び去った。
かの鳥を深く敬愛するわたし、喜びは潰え務めは手につかない。

同書注より
(蘭桂移植は)「盧諶が立ち去ったことをいう。『蘭桂』はすぐれた人物のたとえ。」

参考
(『漢語大詞典』より)
蘭桂齊芳
喻子孫興旺發達。

日本語訳
子孫が盛んに発展することの喩え。

③古典漢語の文章(文言文)の中で、熟語として独自の意味を有したり、特定の物の名前となっているもの

淵雅
(『漢辞海』第三版より)
奥ゆかしくみやびやかである。上品なさま。

用例
(『三國志』魏志 管寧傳)「管寧淵雅高尚,確然不拔。」

泓宏
(『漢辞海』第三版より)
声が大きくてはっきりしているさま。

用例
(『文選』潘岳「笙賦」)「郁捋劫悟,泓宏融裔。」 李善注「泓宏,聲大貌。」

嘉慶
(『漢辞海』第三版より)
①慶事。
②帰郷して、親に挨拶する。

用例
①(焦贛『易林』萃之夬)「千懽萬悅,舉事為決,獲受嘉慶,動作有得。」
②(顏延之「秋胡詩」)「上堂拜嘉慶,入室問何之。」

参考:嘉慶子
(『漢語大詞典』より)
李子的別名。
日本語訳
すももの別名。

用例
(程大昌『演繁露』「嘉慶李」)
「韋述『兩京記』:‘東都·嘉慶坊有李樹,其實甘鮮,為京城之美,故稱嘉慶李。’今人但言嘉慶子,豈稱謂既熟,不加李亦可記也。」

帰泉
(『漢語大詞典』より)
歸於黃泉。謂人死。
日本語訳
黄泉に帰る。人が死ぬことを言う。

用例
(劉禹錫「代慰王太尉薨表」)「方膺作翰之寄,遽迫歸泉之期。」

朽桟
(『漢語大詞典』より)
破舊的車子。棧,車。
日本語訳
古くてぼろぼろの車。桟は車のことである。

用例
(韓愈『贈張籍』詩)「感荷君子德,怳若乘朽棧。」

玉葉
(『漢語大詞典』より)
Ⅰ.
1.對花木葉子之美稱。
2.喻雲彩。
3.猶玉牒,指皇家譜系。
4.喻皇家子孫。
Ⅱ.
指女子中的佼佼者。

日本語訳
Ⅰ.
1.花や木の葉に対する美称。
2.雲の彩りのたとえ。
3.玉牒という言葉と同じで、皇室の系譜を指す。
4.皇族の家の子孫のたとえ。
Ⅱ.
女子の中で優れた者を指す。

用例
2.( 陸機『浮雲賦』)「金柯分,玉葉散,綠翹明,岩英煥。」
3. (江淹『宋安成王右常侍劉喬墓志文』)「玉葉既積,金徽方傳。乃毓伊人,剋廣克宜。」
4. (蕭仿『享太廟樂章』懿宗舞)「金枝繁茂,玉葉延長。」
Ⅱ. (吳偉業『戲贈』詩之六)
「戒珠琥珀間沈檀,弟子班中玉葉冠。」靳榮藩注引張如哉曰:「喜妻如弟子之參禪師者然。」

参考:(『漢辞海』第三版より)
金枝玉葉 ①美しい樹木や雲のたとえ。 ②天子の一族や高貴な家柄の人のたとえ。

去思
(『漢辞海』第三版より)
離任して去った人を慕う。

出典
(『漢書』何武傳)
「欲除吏,先為科例以防請託,其所居亦無赫赫名,去後常見思。」

元魁
(『漢語大詞典』より)
殿試第一名,即狀元。
日本語訳
(科挙の)殿試を一番で合格した者、状元のこと。

用例
(李漁『凰求鳳』翻卷)「目下新主登極,首重文科,命下官速封試卷進呈,以便親定元魁,風示天下。」

懸珠
(『漢語大詞典』より)
1.比喻美目。
2.比喻太陽。
日本語訳
1.美しい目のたとえ。
2.太陽のたとえ。

用例
1.(『漢書』東方朔傳)「目若懸珠,齒若編貝。」
2.(高啟『贈步煉師禱雨』詩)「明朝師歸定何許,雲裏懸珠火如黍。」

浩歌
(『漢辞海』第三版より)
=浩唱 大きな声で歌う。

用例
(『楚辭』少司命)「望美人兮未來,臨風怳兮浩歌。」

浩瀚
(『漢辞海』第三版より)
①水の豊かなさま。
②(事物や書物などが)はなはだ数が多いさま。

用例
①(葉名澧『橋西雜記』湖廣省分闈鄉試)「湖南士子赴湖北鄉試,必經由洞庭湖。湖水浩瀚無涯,波濤不測。」
②(劉勰『文心雕龍』事類)「經典沈深,載籍浩瀚。」

午月
(『漢辞海』第三版より)
①陰暦の五月。端午の月。
②午夜の月。夜十二時の月。

駿良
(『漢辞海』第三版より)
①優れた馬。
②優れた人物。

用例
①(章炳麟『訄書』顏學)「且御者必辨於駿良玄黃,遠知馬性。」
② (歐陽修『賜文彥博進奉謝祫享加恩詔』)「乃因祭福之均恩,首效駿良而來獻。」

浹和
(『漢語大詞典』より)
和洽。
日本語訳
仲良く打ち解けているさま。

用例
(韓愈『新修滕王閣記』)「其歲九月,人吏浹和。」

津梁
(『漢辞海』第三版より)
①橋。
②手びき。橋渡し。
③衆生を彼岸(=あの世)へ渡す役目をするもの。
④導く。

用例
①(『國語』晉語)「豈謂君無有,亦為君之東游津梁之上,無有難急也。」
②(『魏書』封軌傳)「吾平生不妄進舉,而每薦此二公,非直為國進賢,亦為汝等將來之津梁也。」
③(劉義慶『世說新語』言語)「庾公嘗入佛圖,見臥佛,曰:‘此子疲於津梁。」
④(『宋書』禮志一)「先王所以陶鑄天下,津梁萬物,閑邪納善,潛被於日用者也。」

遂良
(『漢語大詞典』より)
薦舉賢良之士。
日本語訳
立派な人材を推薦する。

用例
(『書』仲虺之誥)「佑賢輔德,顯忠遂良。」孔傳「賢則助之,德則輔之,忠則顯之,良則進之。」

参考:(『漢辞海』第三版より)
褚遂良 人名。五九六ー六五八 初唐の政治家・書家。字は登善。太宗が王羲之の書を集めたとき鑑定に当たる。武氏が皇后になるのに反対して左遷された。
(※もしかしたらこちらが元ネタかもしれません)

清玄
(『漢語大詞典』より)
清虛玄妙。
日本語訳
きよらかで空っぽであり、奥深くで微妙である。

用例
(王粲『七釋』)「潛虛丈人,違世遁世,恬淡清玄,渾沌淳樸。」

成行
(『漢語大詞典』より)

准備起行;動身。

排成行列。
日本語訳

出発や、体を動かす準備をする。

列を成す。

用例

(『左傳』襄公十年)「諸侯既有成行,必不戰矣。」
(『宋書』王僧達傳)「時南郡王·義宣求留江陵,南蠻不解,不成行。」

(傅玄『雜詩』)「繁星依青天,列宿自成行。」
(杜甫『贈衛八處士』)「昔別君未婚,男女忽成行。」

参考:小学館『中日辞典 第三版』
成行 出発できるようになる;(旅行・訪問などが)本決まりとなる。

清白
(『漢辞海』より)
①品行が清らかで、私利私欲がないさま。清廉潔白。
②清酒と濁り酒。

用例
①(『楚辭』離騒)「伏清白以死直兮,固前聖之所厚。」
②(『樂府詩集』相和歌辭十二 隴西行)「清白各異樽,酒上正華疏。」

道範
(『漢語大詞典』より)
敬稱他人的容顏,風範。
日本語訳
他者の容貌を敬意をこめて言う。風格。

用例
(『鳴鳳記』獻首祭告)「自違道範信音稀,為傳旌久淹蠻地。」
(陳確『哭徐敬輿孝子文』)「得益親其道範焉,聆其微言焉,且數晨夕而未已焉。」

白沢
(『漢語大詞典』より)
傳說中的神獸名。
日本語訳
伝説の中の神獣の名。

用例
(『雲笈七籤』卷一百)「黃帝得白澤神獸,能言,達于萬物之情。」

丕緒
(『漢語大詞典』より)
指國家大業。
日本語訳
国家の大事業を指す。

用例
(『陳書』世祖紀)「朕以寡昧,嗣膺丕緒,永言勳烈,思弘典訓。」
(皮日休『悼賈』)「嗟大漢之丕緒兮,虯其賢於汙潢。」
(蘇轍『擬殿試策題』)「朕奉承祖宗丕緒,上觀三王,下覽漢·唐,考其為治之實。」

風漢
(『漢辞海』より)
考えや行動が正常ではない人。

用例
(『玉泉子』)「劉蕡,楊嗣復門生也。對策以直言忤時,中官尤所嫉忌。中尉仇士良謂嗣復曰:‘奈何以國家科第放此風漢耶?’」
(陸游『自述』)「未恨名風漢,惟求拜醉侯。」

参考1:(『漢語大詞典』より)
言語行動顛狂的人。風,今寫作「瘋」。
日本語訳
言動が軽はずみである人。風の字は、現在では「瘋」に作る。
参考2:(『中日辞典』より)
癲狂 ①気がふれている。②(振る舞いが)軽薄である、軽はずみである。▶顛狂と書くことが多い。

(参考の①②から、「正常ではない」は必ずしも所謂「狂人」を意味するばかりではなく「軽薄な人」「軽はずみな人」をも意味するのではないかと考えます。日本語で言う「瘋癲(フーテン)」に近いかもしれません。)

平仲
(『漢語大詞典』より)
銀杏的別名。
日本語訳
銀杏の別名。

用例
(『文選』左思「吳都賦」)「平仲桾櫏,松梓古度。」 劉逵注引劉成曰:「平仲之木,實白如銀。」
(王錂『春蕪記』感嘆)「紅雨亂春叢,清陰掩平仲。」

壁落人
(『重編國語辭典』より)
壁落  窗戶。
日本語訳
窓。

用例
(『喻世明言』卷三六 宋四公大鬧禁魂張)「二哥,我問你則個,壁落共門都不曾動,你卻是從那裡來,討了我的包兒?」

蒲月
指農曆五月。舊俗端午節,懸菖蒲艾葉等於門首,用以辟邪。因稱五月為「蒲月」。
日本語訳
旧暦(農事暦)の五月を指す。古い習俗では端午節に、菖蒲の葉などを門前に掛け、邪を避けるのに用いた。これにちなんで五月を「蒲月」と呼ぶ。

沐雨
(『漢語大詞典』より)
猶淋雨。多形容旅途艱辛。
日本語訳
淋雨に同じ。旅路の辛さを形容するのに用いられることが多い。

用例
(徐幹『中論』譴交)「吾稱古之不交游者,不謂向屋漏而居也;今之好交游者,非謂長沐雨乎中路者也。」
(『晉書』涼武昭王李玄盛傳)「衝風沐雨,載沈載浮。」

参考:『漢語大詞典』より
淋雨
1.連綿雨。2.即霖雨。大雨。
日本語訳
1.長く続く雨。 2.霖雨のこと。大雨。

(「霖雨」は『漢辞海』では「三日以上降り続く雨。長雨。」、『中日辞典』では「長雨」とあるので、「大雨」というよりは「長雨」のニュアンスが強いと思われます。降雨量が結果的に多くなる為に「大雨」の説明があるのかもしれません。)

余沢
(『漢辞海』より)
余(餘)沢(澤)
①先人の残した恩恵。
②大きな水源。

用例
①(曾鞏『皇妣昌福縣太君吳氏焚告文』)「維先君先夫人積德累善,鞏獲蒙餘澤,備位於朝。」
(王安石『寄題思軒』)「萬屋尚歌餘澤在,一軒還向舊堂開。」
②(韓愈『海水』)「一木有餘陰,一泉有餘澤。」

④熟語やコロケーションとして用いられ、概ね字義通りの意味であるもの
淵澄
(『漢語大詞典』より)
謂明凈,清澈。
日本語訳
明るくきれいで、透き通っていることを言う。

用例
(『北堂書鈔』卷一四八 袁崧「酒賦」)「素醪玉潤,清酤淵澄。」
(曾鞏『讀賈誼傳』)「余讀三代兩漢之書,至于奇辭奧旨,光輝淵澄,洞達心腑。」

温恵
(『漢語大詞典』より)
溫和仁慈。
日本語訳
温和で慈悲深い。

用例
(『左傳』昭公二十七年)「平王之溫惠共儉,有過成·莊,無不及焉。」

回生
(『漢辞海』より)
{医}生き返る。よみがえる。

用例
(『醫宗金鑒』頭面部 顛頂骨)「夫沖撞損傷,則筋脈強硬,頻頻揉摩,則心血來復,命脈流通;即可回生。」

参考:『漢語大詞典』より
迴生
再生,復生。
日本語訳
再生、生き返る。
(李商隱『寓懐』)「草為迴生種,香緣卻死熏。」

橋松
(『漢語大詞典』より)
高大的松樹。橋,通「喬」。
日本語訳
大きな松の木。橋は「喬」字に通じる。

用例
(『詩』鄭風 山有扶蘇)「山有橋松。」 朱熹集傳:「上竦無枝曰橋,亦作喬。」

興慶
(『漢語大詞典』より)
呈現吉慶之兆。
日本語訳
吉兆が出現する。

用例
(庾信『周宗廟歌』)「月靈興慶,沙祥發源。
(牛弘『皇高祖太原府君神室歌』)「締基發祥,肇源興慶。」

洽平(草洽平)
(『漢辞海』より)
天下があますところなく平和である。

用例
(『漢書』蕭望之傳)「將軍以功德輔幼主,將以流大化,致於洽平。」顏師古注:「令太平之化通洽四方也。」

更夜
(『漢語大詞典』より)
深夜。
日本語訳
深夜。

用例
(董解元『西廂記諸宮調』卷一)「更夜出庭,月色如晝。」

建中
謂建立中正之道,以為共同的准則。
日本語訳
公正な道を打ち立て、共通の規範とすることを言う。

用例
(『書』仲虺之誥)「王懋昭大德,建中於民,以義制事,以禮制心,垂裕後昆。」 蔡沈集傳:「立中道於天下。中者,天下之所同有也。」
(『舊唐書』文苑傳下 劉蕡)「朕聞古先哲王之理也,玄默無為,端拱思道……厚下以立本,推誠而建中。」

習行
常行。
日本語訳
平素の行い。

用例
(『百喻經』為二婦故喪其兩目喻)「世間凡夫,亦復如是。親近邪友,習行非法,造作結業,墮三惡道。」

参考:『漢語大詞典』より
常行
指平時的行為准則;永久實行的准則。
日本語訳
平素の行いの規範、また永遠に行われる規範を指す。

朱夏
(『漢辞海』より)
なつ。朱明。

用例
(『爾雅』釋天)「夏為朱明。」
(曹植『槐賦』)「在季春以初茂,踐朱夏而乃繁。」

馴行
(『漢辞海』より)
よい結果を生むよい行い。善行。

用例
(『漢書』石奮伝)「奮長子建,次甲次乙,次慶,皆以馴行孝謹,官至二千石。」

春水
(『漢辞海』より)
①春になって氷雪がとけて流れ出す川。
②女性の美しい目のたとえ。
③帝王の春の狩り。

用例
①(杜甫「遣意」詩)「一徑野花落,孤村春水生。」
②(崔玨「有贈」詩)「兩臉夭桃從鏡發,一眸春水照人寒。」
③(『金史』輿服志下)「其從春水之服則多鶻捕鵝,雜花卉之飾。」

詳悉
(『漢辞海』より)
詳細を極める。

用例
(王充『論衡』超奇)「班叔皮續《太史公書》百篇以上,記事詳悉,義浹理備。」

昭彰
(『漢語大詞典』より)
亦作「昭章」。
1.昭著;顯著。亦謂使彰明。
2. 光耀。
日本語訳
または「昭章」に作る。
1.明らかなこと、めざましいこと。または明らかにさせることを言う。
2.輝き、輝かしい。

用例
1.(『漢書』王莽傳上)「昭章先帝之文功,明著祖宗之令德。」
2.(王融「三月三日曲水詩序」)「昭章雲漢,暉麗日月。」

酔臥
(『漢辞海』より)
酒に酔って寝ころぶ。

用例
(『史記』高祖本紀)「常從王媼﹑武負貰酒,醉臥,武負﹑王媼見其上常有龍,怪之。」

青江
(『漢語大詞典』より)
1. 指水色清澈的江河。
2. 即清江。又名夷水。在四川省·奉節縣,水色清澄,蜀人因稱「青江」。相傳江中有鹽水神女。
日本語訳
1.水の色が清らかで透明な河川を言う。
2.清江のこと。又の名を夷水。四川省の奉節県にあり、水の色が清らかで澄んでおり、蜀の人々はこれに因んで「青江」と呼ぶ。川の中には鹽水神女(塩水の女神)がいると伝わる。

用例
1.(謝朓『拜中軍記室辭隋王箋』)「唯待青江可望,候歸艎於春渚。」
(陳子昂『春晦餞陶七於江南同用風字』)「黃鶴煙雲去,青江琴酒同。」
2.(楊慎『竹枝詞』)「青江白石女郎神,門外往來祈賽頻。」
(参考:酈道元『水經注』夷水「夷水,即佷山清江也。水色清照十丈,分沙石。蜀人見其澄清,因名清江也。昔廩君浮土舟于夷水,據捍關而王巴,是以法孝直有言:魚復捍關,臨江據水,實益州禍福之門。」)

清秀
(『漢辞海』より)
優れていて、俗でないさま。

用例
(『世說新語』方正)「羅君·章曾在人家,主人令與坐上客共語」劉孝標注引《羅府君別傳》:「此江左之清秀,豈惟荊楚而已。」

夕暉
(『漢辞海』より)
夕日のかがやき。

用例
(韋應物「送別河南李功曹」)「雲霞未改色,山川猶夕暉。」

端直
(『漢辞海』より)
正しく真っすぐなさま。

用例
(『韓非子』解老)「心畏恐則行端直,行端直則思慮熟。」

長天
(『漢辞海』より)
広い空。

用例
(王勃「滕王閣詩序」)「落霞與孤鶩齊飛,秋水共長天一色。」

同仁
(『漢辞海』より)
①「一視同仁」
一視同仁…すべての人をわけへだてなく平等に愛する。同仁。
②「同人」②
同人…①(略)②趣味や志を同じくする人々。同仁。

出典・用例
①(韓愈「原人」)「是故聖人一視而同仁,篤近而舉遠。」
②(陳子昂「偶遇巴西姜主簿序」)「逢太平之化,寄當年之歡,同人在焉,而我何歎。」

敦厚
(『漢辞海』より)
まごころが厚く親切なさま。

用例
(『禮記』經解)「其為人也,溫柔敦厚,《詩》教也。」

梨雪
(『漢辞海』より)
ナシの花の白さを雪にたとえていう。

用例
(蘇軾「菩薩蠻 回文春閨怨」詞)「細花梨雪墜,墜雪梨花細。」

利達
(『漢辞海』より)
立身出世、栄達。

用例
(『孟子』離婁下)「由君子觀之,則人之所以求富貴利達者,其妻妾不羞也,而不相泣者,幾希矣。」

斂足
(『漢辞海』第三版)
恐れて、足が進まないさま。

用例
(陳鴻『長恨歌傳』)「方士屏息斂足,拱手門下。」

⑤辞書には熟語として記載がないが出典のあるもの、また字同士が縁語的関係で結ばれているもの
月渓
用例
(『全唐詩』百九十二巻)
月溪與幼遐君貺同遊(時二子還城) 韋應物
岸篠覆迴溪 迴溪曲如月
沈沈水容綠 寂寂流鶯歇
淺石方凌亂 遊禽時出沒
半雨夕陽霏 緣源雜花發
明晨重來此 同心應已闕

書き下し
月溪に幼遐ようか君貺くんきょうと同遊す(時に二子城に還る) 韋應物
岸篠がんしょう迴溪を覆ひ 迴溪の曲がること月のごとし
沈沈として水容綠にして 寂寂として流鶯
淺石まさに凌亂し 遊禽時に出沒す
半雨は夕陽に霏たり 源に緣りて雜花ひら
明晨此に重來し 同心まさくを已むべし

日本語訳
月の様な渓谷に、幼遐と君貺と共に遊ぶ(二人は城へ帰る) 韋応物
岸辺の篠竹は曲がりくねった渓流を覆い その渓流の湾曲は月のようだ
水辺の浅いところの石は点々と散らばり 飛鳥はちらほらと出没する
小雨は夕日の中も降り注ぎ 水源からの流れに沿って花々が咲いている
明日の朝また此処を再訪し 心を同じくする者同士、足りないものを追い求めるのはやめよう

幼遐・君貺……李儋りたん元錫げんせきの字。韋応物はこの二人との交友を多く詩に残している。

補足
渓谷や渓流の曲がりくねった様子を月に喩えるというレトリックは、この詩以外にも多く見られます(一応、最も古いと思われるものを引きました)。特に唐代以降の仏典の中に非常に多くの用例を見出すことが出来ます。
また例えば本朝の画家、呉春(1752~1811)は、松村月渓という徘号を名乗って活躍しました。月と渓谷・渓流との結びつきは非常に分かりやすく、渓谷・渓流の修飾に月が頻繁に使われたと見るべきでしょう。

芭墨
出典
(『全唐詩』六百七十一巻)
聞應德茂先離棠溪 唐彥謙
落日蘆花雨 行人穀樹村
青山時問路 紅葉自知門
苜蓿窮詩味 芭蕉醉墨痕
端知棄城市 經席許頻溫

書き下し
應德茂先に棠溪を離るるを聞く 唐彥謙
落日 蘆花に雨ふり 行人 穀樹村たり
青山 時に路を問ひ 紅葉 自ずから門を知る
苜蓿 詩味を窮め 芭蕉 墨痕に醉ふ
端に城市を棄つるを知りて 席を經て頻りに溫むるを許す

日本語訳
応徳茂が先に棠渓を離れると聞く 唐彦謙
落日の中、葦の綿毛に雨が降る 旅人の行く先、植わっている穀物も木々も質朴である
青山の中 時には道を尋ねて 紅葉の中 自然と訪ねるべき門が分かることもある
苜蓿(のようなつまらない景物)にも詩の味わいを極め 芭蕉(のような閑雅な景物)を詠むとなれば筆致に酔っ払ってしまう
ちょうど街を離れると知って 貴方を何度も訪ねたいと思ったのです

棠渓……現在の河南省西平県にある地名。古来より刀剣で有名。
尾聯が良く分からず、訳に難があります。

補足
芭蕉と墨痕、あるいは墨に酔うという言い回しは、宋代以降の詩歌に散見されます。
上記の詩に基づいたものか、あるいは芭蕉という植物が水墨画や文人のイメージに合致したことを示すのか、その辺りは良く分かりません。

To be continued!