楽土の幻

2014年に史文庫~ふひとふみくら~の唐橋史さん主催で発行された『日本史C』というアンソロジーがあったのですが、そちらに寄稿した小説です。Web再録的な感じでこちらに格納します。

~登場人物と少しの補足~
中臣鎌子……中臣鎌足のこと。作中で改名しています。彼が鹿島の神官の子であるというのは『大鏡』などに見える伝説です。

軽皇子……後の孝徳天皇。中大兄皇子の叔父に当たります。

中臣真人……鎌足の長男。出家して定慧と名乗ります。今作では、彼が上宮王家(聖徳太子の一族)の生き残り、弓削王であるというフィクションを展開してます。彼の

出家と渡唐については、その年齢も併せて謎が多いです。

中臣史……後の藤原不比等。彼が中大兄皇子とその同母妹の間人皇女の子であるという設定はフィクションですが、藤原不比等は中大兄皇子の落胤ではないかという伝説は様々な史料に登場します。

伝説に基づいたフィクション多めの小説ですが、お楽しみ頂ければ幸いです。

 

 

 

 

楽土の幻

濁った、冬の嵐の夜だった。泥濘でいねいを奔馬の蹄が掻き乱し、ざあざあという強い雨音にも負けず、嘶きと共に疾駆してゆく。手綱を取る男は泥だらけの甲冑姿だったが、かぶとを何処かへ置いて来たらしい、雑な角髪みずらはじっとりと水を含み、且つ毛羽立って居る。粗悪な拵えの太刀が、馬の躍動と共に緩慢に揺れた。何処かで流れ矢が走ったのだろう、右の顎筋に、長い切り傷が見えた。乾き切らない傷口だったが、雨は血さえも流してゆく。
広足ひろたり、後どれ程か」
かっ、と雷が空を貫く。鞍に跨った男の背に掴まる、稚い手が雷光で白く映えた。申し訳ばかりに蓑を被り、縮こまって背に掴まって居る。蓑からはみ出た袖口には、豪奢な金糸の刺繍が施してあった。か細い、高い声は辛うじて男の耳に届く。その不安げな響きが、広足の心を締め付ける様に苦しめた。
みこさま、お静かに。悪路故、話せば舌を噛みまする。飛鳥の宮が見えて参りました故、今暫くの辛抱に御座居ます」
小さく頷くと、王、と呼ばれた少年は、只黙って男の背に身体を預ける。寒さ故か、それとも恐懼故か、微かに震えて居るのが広足にも分かった。馬は苦しそうに息をしながら、鞭を恐れて速度を緩めずに居る。また一閃、雷が夜闇を切り裂いてゆく。雨脚は緩まず、雨粒は叩き付ける様な勢いで、風景を濡らし、混濁させてゆく。
急がなくては、と心ばかりが逸った。馬にも限界が近づいて居たし、追手が来ないとも限らない。斑鳩宮いかるがのみやには多数の王、女王ひめみこが居たけれど、その数が一人足りない事に気付かぬ蘇我林臣そがのはやしのおみでもあるまい。怪しめばすぐさま姿を求めるであろうし、そうなれば仮令たとえ七歳にもならぬ幼子であろうと、見つかった上は殺される。
飛鳥の板蓋宮いたぶきのみやは、夜闇の中でも仄白く、その存在を周囲に示して居る。凛々しい佇まいは、常ならば大王おおきみの威厳を表すかの様に感じられたが、今となっては夜にすら逆らう様で不気味だった。だが、もうじき飛鳥に入る。そうすれば広足が引き受けたこの脱走劇の目的も、殆ど果たし終えた様なものだった。幸い、広足には軽皇子かるのみこに仕えた経験があった。常にひびの入った状態の朝廷が何とか機能して居るのも、ひとえに彼のお蔭である。軽皇子を領袖と仰ぐ人物ならば、今回の件を快く思っては居らぬであろうし、またその中には、蘇我氏の専横を苦々しく思って居る者も居よう――広足はそう推測して、只今飛鳥の或る邸へ向け、馬を走らせて居るのである。
「王さま、此処からの道はくまが多う御座居ます。しかとお掴まり下さい」
背後で頷いた気配を読み取ると、広足は手綱を引いて、馬の速度をやや緩める。人工的に引かれた道々を、細心の注意を払って次々に曲がってゆく。宮の造営に伴って、飛鳥には様々な氏の者が采配の為に簡単な邸を構えて居る。宮の周囲は、近頃だと隋、唐の都の造りを模して、簡単な市街を形作るのが流行だった。その市街の西端に、目指す邸は在る。邸とは言うものの、斑鳩宮とは比ぶべくもなく、また蘇我の邸を考えても、その差は歴然だった。茅葺きの勾配のきつい屋根、低い柴垣、踏み固められた庭と、其処に大きく根を張って居る栗の木と。
幾度か直角に配された隈を曲がり、宮の偉容が遠景と思えて来る程の距離だった。小ぢんまりとした邸の一つを前にして、扉の無い門を騎乗した儘潜り抜ける。広足は速度を緩めると、馬の首筋をゆっくりと叩き、鞍から飛び降りる。ばしゃん、という水溜りから泥水の跳ね返る音がした。平素ならば顔をしかめる処だったが、場合が場合である。気に留めず、未だ騎乗した儘の幼子に、両手を差し出した。
「さ、お早く」
少年は頷いて下馬する。従者に伴われ、地面に降り立つと、ふらふらとして思わず広足の左腕を掴んだ。蓑を何処かで落としてしまったらしい、絹の衣はじっとりと濡れて居た。
雨音の中に在っても、疾駆する馬の気配を感じたらしい、邸の中から人の動く気配がする。ややあって戸が細く開くと、痩身の若い男が一人、顔を覗かせた。
「馬を放しなさい」
男は唐渡りの墨の様な、黒々とした瞳で辺りを観察すると、それだけを言った。広足が面喰って居ると、早く、と急かされる。言われる儘に馬の手綱を引き、門の処まで連れて行って鼻面を叩く。初めはゆったりとした速度で、そして段々と速く、二人を運んだ馬は闇へと消えて行った。
「こちらは」
広足は泥濘の中に額づき、事の次第を話そうとしたけれど、男は一つ首を振って、邸の中に居る者に、湯を、と告げた。
「この様な晩に、の許を訪れる客人まろうどがどなたであるか、大体の想像は付く。まずはこちらへ」
その言葉は明らかに、広足ではなく少年へと向けられたものだった。最初は戸惑ったものの、少年は覚悟を決めたと見えて、かのくつを脱いで邸へと上がる。女が一人出て来て、大きな布と共に彼を抱き上げた。広足はその様子を見ると、ほっとした様に溜息をつく。
「軽皇子さまの処へ行け。厩から一頭持ってゆくが良い。中臣の馬と分かれば事情は通じよう」
男のさばさばとした物言いに、広足は大きく頷いた――己の様な者が、此処に置いて貰える理由も無い。
「有り難く」
広足がそう言って深く叩頭すると、男は少し戸惑った風で、小さく笑う。
「――上宮かみつみやの他の方々は、全て」
男の言葉には、既に諦観が滲んで居た。広足は一つ頷く。そうか、という声に、感情は含まれて居ない。
「末の王……弓削王ゆげのみこさまのみが、こうして」
「惨い事だ」
男はそう言うと、蘇我は、と言いさして一つ首を振る。思う処がある様子だったが、広足がそれを汲むには、男との隔たりがあり過ぎた。
「細かな事ははいずれ明らかになろう。今はく」
その言葉と共に戸は閉じられる。広足は立ち上がり、うまやへと歩いて行った。
男――中臣鎌子なかとみのかまこは戸を閉じると、どんよりとした面持ちで小さくなった灯火を凝視する。灯火はいつしか、想像の世界で大きな火炎となって、壮麗な宮を焼いてゆく。庭園の木々は朽ち、鈍色にびいろの瓦葺きの屋根は崩れ、背の高い柱は灰燼と化す。そしてその中で、苦しそうに自らをくびる高貴な人々。全ては男の想像でしかなかったが、それが事実と遠くはない事も承知して居た。一つの時代が終わりつつあり、そしてまた新しい時代が始まるのだろうという事が、彼には分かって居た。彼にとってこれからの未来重要なのは、その新しい時代を手繰り寄せる事の出来る者の下に就く事だ。
見た処、現在彼が庇護を受けて居る軽皇子は、政治的な手腕こそ見事だが、急場の判断力に欠く印象がある。今回、蘇我の斑鳩攻めを阻止出来なかった理由もそれだ。度々耳にする韓三国の情勢を鑑みるに、これからの時代に必要な君主は、万の軍勢に対して即興で歌の一つも詠み掛ける事の出来る人物である。
軽皇子か、それとも。それを考える度に、自分の冷えた心根を醜く感じる。見込みがあるのならば仕え、無くなれば見捨てる。けれどそうした目で大王おおきみの一族を見るより他に、中臣という氏を栄えさせる方策が、彼には無かった。寒門とまではゆかぬが、うだつの上がらない氏族である事は事実だった。
其処まで思いを巡らせた処で、油の切れた灯火が、ふつ、と途切れる。突然の暗さに驚いて、我に返った。そ、と呼び掛けると、妻の与志古よしこが無言で油を足し、燈を灯す。感謝に代えて一つ頷くと、おっとりとした表情が小さく綻んだ。
「そうお悩みにならずとも」
苦労性の夫を宥める様に言う姿は、屈託がない。釣られて苦く笑う。妻の明るい雰囲気に救われる事は多いものの、時として自分の中の暗さが明瞭になる様に感じる事もある。妻は、先程逃げて来た上宮王家の生き残りを、かくまえと言うに違いない。実際に匿うか否かという事よりも、妻にそれを切々と訴えられた際に、それを裏切ってしまうかもしれない自分が嫌だった。
は、あの小さな客人を匿えと言うのだろうな」
ざあざあ、と邸の内にまで響いて来る激しい雨音を感じながら、ぽつりと呟く。与志古は炯々とした瞳をゆっくり瞬かせると、再度笑んだ。けれどその笑みには、何か別の物も滲んで居た。
「中臣の子として育てれば、何の障りがありましょう」
それに、と言って与志古は一歩近付いて、夫の袖をぎゅっと掴んだ。微笑みと共に見えた悲しそうな眼差しに、胸を衝かれて立ち尽くす。
「そうでもしなければ、吾共わどもの間には、この先もずっと男子おのこが居らぬ儘やも」
それを言われると、返す言葉が無い。二人の間に生まれた子供の内、男子は皆生まれて直ぐに死んだ。早産も多かった。元気に育つのは女子めのこばかりだ。誰に罪がある訳でも無いのだけれど、お産の苦しみは女だけのものだ。そしてまた、母が子を失う悲しみは、父のそれとは比べ物にならない程強い。鎌子はその所為で妻を一方的に傷つけて居る様な気がして居た。
「露見したならば、何とする」
与志古は少しの間、思案する様に首を傾げた儘、黙して居た。雨の音が二人の間からも聞こえて来る様だった。
「汝も」
そう言ってから、はたと気づいた様に、与志古は言い淀む。黙って続きを促すと、俯いて袖を強く握られた。
「汝も、貰われ子ではありませぬか」
それとこれとは、と言い差して、妻が言いたいのはそういう事では無い、と思い至る。斑鳩から唯一人助け出された、あの稚い王は、此処を追われて行く処等在る筈も無かった。鎌子も、鹿島の社の祝部はふりべの子として生まれたのを、男子に恵まれなかった養父、御食子みけこ穎才えいさいと見込んで引き取ったのである。鹿島からこちらへやって来たばかりの時の心細さを思い出して、今度は鎌子が俯く番だった。
此処は寒い、と誤魔化す様に言って、妻を伴って戸の間近から部屋の中央、先程まで『史記』を読んで居た、その席へと戻る。竹簡が何巻も広げられた儘で雑然として居る。火鉢の近くへ来て、自分の手がかじかんで居た事を知った。
「中臣の者として育ったとて、それはあの方にとって良き事かどうか」
白湯を啜りながらそう言うと、側に座った妻は小さく首を振る。
「では汝は、自らが鹿島のはふりになった方が良かったとお思いで?」
そうではない、と否定して見せて、その言葉には逡巡が含まれて居る事を認めない訳にはいかなかった。助けたい、素直にそう思う。だがその慈悲の心は、結局は自身の満足の為に向けられるものの様な気がしてならない。鎌子が鹿島の祝としての人生を受け容れて居たのなら、もっと貧しい生活を強いられて居ただろう。そしてその代わり、日々この様な権謀術数の狭間で、汲々とせずに済んでも居ただろう。
今一度、斑鳩の事を思う。厩戸皇子うまやどのみこという人を、鎌子は噂でしか知らなかった。仏法の保護者であり、希代の政治家、また一流の教養人。彼を讃える言葉は、今尚朝廷にも、民草の間にも満ちて居る。だがその一族の事となると、戸惑う様な、或いは悪意を伴った評判ばかりである――曰く、斑鳩は異国とつくにであると。
その意味する処は、鎌子にも分かる様な気がする。第一に倭が敵対する新羅に縁故のある臣を多く抱えて居るし、第二に仏法を何よりも優先させ、これを重んじる。そして何より、上宮の一族は酷く閉鎖的だった。それが何に因るものなのかは分からない。だが、謀反の心を飼って居るだとか、誰某を匿って居るといった口さがない噂も、あの雰囲気からすると否定できない処がある。
「上宮の血筋の方がこれから先、生きて居ても幸せになれないだろう」
その言葉と同時に、湯を使って居た幼子が、はしために伴われてやって来た。泥だらけの豪奢な衣は取り替えられて、簡素な木綿ゆうの上下を纏って居た。結い直されたばかりの角髪は、湿って艶を帯びて居る。ほんのり上気した頬が酷く稚くて、鎌子は目を伏せた。
「何を読んで居る」
ぱたぱた、と駆け足で寄って来た少年は、広げられた書物を覗き込む様にして、鎌子の横に座り込む。湯の温かさがそうさせたのだろうか、惨劇を忘れたかの様な澄んだ瞳だった。先程の鎌子の言葉を聞いて居たに違いないのに、それを知らぬ風に好奇心の儘振る舞って居る。
飛ばす様にさらさらと目を動かすと、莞爾と笑む。桃の花が綻ぶ様な愛らしさだ。
「『史記』か。吾は項羽が好きじゃ」
七、八歳の幼子に分かる筈が無いと高を括って居た鎌子は、その言葉に驚いて思わず瞠目する。お分かりになりますか、と独語する様に言うと、桃花の様な面差しは、ばつが悪そうに顰められる。
「実は、余り知らないのだ。だが若くして滅んだ、英雄なのだろう。兄上がぬる前に、話して下さった」
それが気になって、少しずつ『史記』を読んで居るのだと言われて、鎌子は悲しく頷く。文華絢爛たる斑鳩の宮の幻影が、またしても彼の眼前に立ち現れる。今度は炎に巻かれる前の、嘗て一度だけ軽皇子の伴として訪った事のある、煌びやかな唐様の佇まいである。種々の牡丹の競い咲く季節、それは幻想的な風景だった様に思う。軽皇子が、自分には過ぎると思えてならない大仰おおぎょうな言葉で、鎌子を褒めちぎって紹介して見せたのを思い出す。それを聞いた山背大兄王やましろおおえのみこは軽やかに笑って、去り際に蜂蜜と紙とを持たせてくれた。二つからは、噎せ返る様に異国の香りがした。
「お父上の治める宮は、他の何処よりも美しい処だった」
徐に幼子を抱き上げると、ややあって腕の中で歔欷の声が聞こえる。
「斑鳩の誰もが、『史記』を諳んじてみせた」
そう言って幼子は、鎌子の肩に手を回す。小さい手は、先程与志子がそうした様に、彼の袖を強く掴んで離さない。
「けれどその内の一人も、『史記』に描かれる様ないくさを知らなんだ。それだから父上も母上も皆、自ら死ぬしかなかった」
心の中でその言葉に肯いながら、腕の中の子をあやす様に揺らす。あの美しい宮の麗しき人々は、粟散ぞくさんの地の惨い戦とは無縁の人々だった。きっとあの地は遠い遠い楽土で、常春の国、天人達が憂い無く過ごして居たのだろう。そして今、自分は天人の生き残りを抱いて居るのだ。鎌子はそんな想像をして、最初からこの客人を見捨てられない己が居たのを知った。しがみついて来る泣き声は愈々いよいよ大きくなって、背をさすってやると、肩口に涙が零れて来たのを感じた。

くぐもった、幼い泣き声が聞こえた気がして、鎌足かまたりは不意に目を覚ました。あの子を引き取ったのは、もう随分と前の筈だ。鎌足が、まだ鎌子と名乗っていた頃。夢の続きを辿りつつも、妙に醒めた思考はそう判断する。一瞬の後、あの子が唐から帰って来るとの報せを受けた事を思い出した。既にこちらへ上陸して居て、今は陸路くがじで飛鳥へと向かって居るらしい。それで昔の夢を見たのだろうか、と其処まで考えた処で、矢張り泣き声が耳を突いて来た。あの頃より大きくなった邸の、さて何処から聞こえたものだろう。起き上がって、何とは無しに庭へ出てみると、月下、朝貌ききょうの群生の中で、少年が一人しゃがんで居る。一瞬、何かの幻を見た様に感じて、ぎくりと一歩下がった。けれどそれがもう一人の息子であると知って、一つ溜息を零す。その気配に、少年は弾かれた様に立ち上がって、こちらを見た。
ふひと、この様な夜更けに如何いかがした」
振り返る白皙の面は、否が応にも己の主を想起させる。骨細な体躯、涼しい目元、薄い唇、何もかもが今上の天皇すめらみことにそっくりだった。その理由を承知で育てて来たものの、それを突き付けられる度に、矢張り複雑な気分になる。
「父上……」
涙に枯れたその声は、今度はその母に酷似して居る。耳を塞ぎたい様な気持ちを抑え込んで、濡れ縁から息子を見下ろす。
「何があった」
半ば答えを知りつつも、反射的にそう訊ねる。史は泣き腫らした目で、只じっと、こちらを見上げて来るばかりだった。言えない事なのは知って居た。そしてそれに、己が答えられないであろう事も。
「もう秋も深い。冷えようから、中に入れ」
そう告げて、庭に背を向けて室内へと戻る。憐憫と罪悪感とが交互に胸を刺した。先程のもの言いたげな息子の視線が、心に残る。恨む様なものではないものの、悲しみと淋しさに溢れて居た。史は鎌足の子ではない。その事は誰もが知って居る。だが誰が知ろう、あの子の実の二親を。
もう、六年も前の事だった。真人まひと――上宮王家の生き残りだった息子は最初その様に名を変え、また今は出家して定恵じょうえと名乗っていた――が此処へ来たのと同じく、矢張り酷い嵐の夜、この大原の邸に一人の女がやって来た。その女は、今では一応鎌足の妻という形で、実際は客人として、この邸に別棟を構えて居る。名を鏡女王かがみのおおきみ、といった。
鏡は一人の嬰児みどりごを抱いて居た。只ならぬ風情の彼女と抱かれた赤子とを見て、鎌足が事の仔細を訊ねると、彼女は説明の代わりに歌を詠んだ。
「夏草のあいねの浜の蠣貝かきがいに足踏ますな明かして通れ」
それだけだった。そしてそれで、鎌足は一切を悟った――この歌は、女衣通郎そとおしのいらつめが、兄であり不義の夫でもある木梨軽皇子きなしのかるのみこへ宛てて詠んだ歌である。
一時期、中大兄とその妹、間人はしひととの関係が噂になった事がある。実の兄妹でありながら、男女の仲にあるのではないかと。その時は鎌足も一笑に付すのみであったし、また当事者の中大兄も同様であった。仲の良い兄妹なのだ、それだけなのだと思って居た。だがその歌の意味を察して、そして間人に仕えて居た鏡の連れて来た乳飲み子を見て、それは全て嘘だったのだと知った。
暗闇の中で、ふと帰って来る長子、真人の事を思い出した。どちらも事実上は鎌足の息子であり、勿論鎌足も息子と思って接して来たが、どちらも実の子ではない。彼に血の繋がった息子は居なかった。そしてその二人は、まだ互いを知らない。真人に至っては、弟が居る事すら知らないだろう。幼い頃に与えられたものは何にも勝るらしく、結局真人は仏法と唐への憧れから、早々と歩むべき道を決めてしまった。父親としては半ば安心し、半ば残念にも思った。真人は、何処か客人の儘、鎌足の許を離れて行ったから。
そんな事をつらつらと考える内に、二人の兄弟を引きあわせてやらねば、という気持ちが湧いて来た。史が自身の出自について悩んで居るのは分かって居た。夜な夜な外に出ては物思いに耽る癖も、朝貌や常夏 とこなつを庭に持ち込んだのが彼である事も、誰かに乞われて墨を磨るのが好きな事も、父である鎌足は知って居た。出来るだけ良き父でありたいという心は、真人を引き取った日から変わらない。何せ、鎌足にはそれしか出来ないのだ。栄達の道を与えてやる事も、富貴によって幸せにしてやる事も、当時の彼には無理だった。
史の悩みを聴いて遣れるのは真人だけだろう、そういう確信が生まれたのも、矢張り彼が真実、二人の父だったからであった。

「――兄上?」
今にも綻びそうに膨らんだ、椿の蕾をぼんやり眺めて居た時だった。背後から聞こえるおずおずとした声音は、澄んで居て高かった。袈裟の袖を心許なそうな所作で握り込む姿は、寄る辺の無い雰囲気を漂わせて、何となく哀れな感じがする。真人は振り向くと、もうすぐ八歳になろうとする弟を抱き上げる。目線を仰のかせて、兄を見上げて来るその面差しは、先日対したばかりの父の主その儘である。寒さに頬を赤くして居るのが幼く思われて、袖で包む様に抱える。含羞はにかむ口の端からは、生え変わったばかりの的皪てきれきとした歯が覗いた。
雪の降り積む中帰国した真人と、それを珍しげに迎えた史とは、この数日ですっかり親しい兄弟いろせになった。真人の様な人間を政治に役立てようとする程、朝廷は文化的な段階に至って居ない。帰国の挨拶と宴の折、唐の動静について二、三の質問が為されただけだった。持ち帰った仏典や珍しい文物を収めたいと申し出たものの、所縁の寺に、とだけ言われて終わりだった。父の主、天皇と呼ばれる男は、何処か遠くを見つめた様な、茫とした様子で言葉少なに座して居た。その、何処か翳りのある凄味と、夢を見る様な瞳だけを胸に収めて真人は大原に戻って来た。
初めて弟に対した時、天皇のそんな瞳を思い出した。唐を知る真人すら、遠いと感じる何処かを見据える目だ。その奥には、その何処かへ至る為ならば刻苦を厭わない力強さと、その為に己の全てを捧げ兼ねない危うさを秘めて居る。弟の実の父親が誰であるか、見ただけで分かった。そして何か深い訳が為に、中臣の子として育てられて居るのだろうとも。
庭には、昨晩降った雪がうっすらと積もって居る。仄白い地面に描かれた弟の足跡を眺めて、ちらと史に笑いかける。不思議そうに、その夢見る瞳は笑い返して来た。
「史、汝は『史』の名のこころを知って居るか」
突然の問いに、弟は双眸をぱちぱちと瞬かせる。兄の肩に回された手の力が緩んで、真人は先程よりも弟の身体の重みを強く感じた。
「名の、意」
確認する様な言い方に一つ頷くと、冷気でしっとりと冷たくなった小さな角髪を撫でる。
「文を巧みとする者を言うのだ」
史は少し考える風情で首を傾けると、ええと、と言い淀んで、兄の肩口を指でなぞって、何やら文字を書いた。
「『史』の字の意ならば知って居ります。いにしえの事々を司る者を言うのでしょう」
嬉しそうなその言葉に首肯して笑いかけると、弟の小さい手が肩に掴まり直して来る。重みが軽減されたのを機に、勢いを付けて抱え直した。
「あの、兄上」
考え考え、言葉を選ぼうとして居る様子の弟を辛抱強く待って居ると、『史記』の、と思いがけない言葉が出て来た。
「『史記』の……司馬遷こそ、まことの史でありましょうなあ。古の事々を、巧みな文で著わしたのですから」
真人はふと、己がこの邸に迎えられた際にも『史記』の話をした事を思い出した。あの頃、真人は項羽が好きだった。今や面立ちも声も思い出せぬ兄に聞いた悲しき英雄譚は、雛罌粟ひなげしの花と共に強く心に焼き付いた。だが己の運命に従い、それを見事に謳い上げた項羽の人生には、真人は既に心を動かされなくなって居た。自らくびはねた英雄と、忘れられない斑鳩の最期が、何となく重なって感じられるのかもしれない。
嘗て目の前で炎に巻かれて滅んでいった眩い幻の国を探して、思い出の麗しさに焦がれて、遠く異国へ赴いた。けれどそれは、項羽の求める楚の国と同じだ。地上の何処にも在り得ない、昔語りに姿を留めるだけの王国だ。
「汝は『史記』が好きか」
中途半端に続いた沈黙を気拙く感じて、ややあってそう問いかける。弟は一つ頷いて、けれど、と言い差して恥ずかしそうに笑う。
「もし出来る事ならば、吾は『史記』の如き書に、司馬遷の記すが如き文に、名を留める者になりとうございます」
遠く、唐より天竺よりまだ遠く、麗しき楽土を夢見る瞳は、埋火うずみびだった最奥の焔を燃やしてきらきらと輝いた。頼りなげな風貌は叡智を溢れさせ、か細き腕は健筆を振るう敏腕に変わる、そんな時がそう遠くない日にやって来る事を、兄は感じた。その中に、彼は血筋を見た。国を戴かんとする血脈に連なる、一人の幼子を見た。真人が唐に焦がれ、仏法に引き寄せられた様に、この弟の行く先にはまつりごとが待って居るに違いない。
「血は争えぬ、か」
脳裏の想像を追いかけながら呟くと、腕の中で身を固くする気配がした。訝しんで目線を下へ向けると、弟が怖々とこちらを見詰めて居る。
「吾の……」
史は躊躇う様に言葉を切ると、俯いて兄の肩に頤を載せる。視線を合わせたくないのか、そっぽを向きながら、もう一度口を開いた。
「吾の……真の父母かぞいろはどなたか、兄上はお分かりか。兄上は今、血は争えぬと言いましたが、それは何方の」
史は苦しそうに、兄の二の腕を緩慢に叩く。斯様に実の父親と似て居ては噂にもなろうし、またそれを否定するのも難いのだろう。何故史の素性を、飽くまで隠し通さねばならないのかは真人には分からない。だが父、鎌足の判断にとやかく言う気は彼には無いし、実際に史が事実上の長子として大切に扱われて居るのを見ると、益々真実を知りたいという気持ちは後退した。
鎌足は真人に対してそうであった様に、史に対しても良き父だった。時に厳格であり、時に優しい。そして心の何処かで何か大きな懊悩を常に抱えて居る事も、真人は何となく知って居る。優しさはその深い悩みからやって来るものなのだろう。だから真人は、父に優しくされるのが身を切られる様に辛かった。
大切なのは真実では無く、今を受け容れ尊ぶ事なのだと、弟に言えたらどんなに良いだろう。そう思って真人は弟に続いて俯く。彼も此処へ来たばかりの時は、斑鳩を密かに懐かしく思い出して居た。あらゆる点で最早帰れない場所は、彼の中で美しい思い出になった。兄に教えて貰った『史記』の項羽本紀を、何度も読み返した。実父、山背がして居た経典や、宮の其処彼処に存在して居た漢籍への憧憬を深くして、父や兄とどうにかして繋がった儘で居たくて、唐へ渡る事を決意した。己の知らない場所に本当に帰るべき国が在り、父や母や兄達が出迎えてくれるのではないかと、そんな幻を捨て切れなかった。目の前でくびれ死んだのに、否、目の前で死んでいったからこそなのかもしれない。だが唐へ行き、斑鳩よりも華麗な場所で暮らし、あの頃の山背よりも余程漢籍を易く読む様になって、段々と幻は褪せていった。真人の追いかけた幻は、その程度で破れる脆いものだった。眼前に居る弟の瞳に映る幻よりも、余程。思い出は捨てるには忍びなく、かといって叶えようと思うには賢くなり過ぎた。どんよりとした、諦めと淋しさだけが、真人の心を厚く覆って居た。
どう言えば良いのかと考え、口を開けては閉じる。数度それを繰り返す内に、弟の面差しがみるみる曇るのが見えた。その表情に更に悲しくなって、只強く弟を抱き締める。史、と弟の持つたった一つの名を呼んだ。
目の奥で、斑鳩が燃えて居る。父が縊れ果てて居る。母も、兄も、従兄弟も。轟々と燃え盛る炎の音と色、不吉な煙を感じる。炎は赤き雛罌粟の色だ。項羽の後を追った虞姫ぐきの色だ。
「――吾は幼き頃、弓削と呼ばれて居た。今とは異なる処で、異なる親と暮らして居た。そして吾のみが逃れて此処へ来て、真人になった。弓削は死んだ。項羽が自ら刎ねたが如く、また或いは吾の父が自ら縊れた如く、吾が弓削を殺したのだ」
弾かれた様に面を上げる弟を見返すと、何故か涙が滲んだ。不安そうな瞳がちろちろと揺れて、けれど右手のほっそりとした指が、優しく目尻を拭ってくれる。
「けれど、吾は未だ弓削の儘の様な気がして居た。それ故、弓削の幻を追いかけて、態々唐にまで行った。己の知らぬ国に、帰るべき場所が在るのではないかと思って。だがこの世の何処にも、麗しき斑鳩の姿は最早無き事を知って、漸く帰って来た。弓削の亡骸を抱いた儘」
史は兄の衣を強く握り、切ない面持ちで耳を傾ける。一つ、頭を柔らかく撫でた。
「汝が誰の子か、それを言わぬ父上の意が分かるか」
頭を撫で続けながら、真人は弟を更に抱き寄せる。甘える様に、肩口に擦り寄る体温が在る。
「汝の中で、誰も死なぬ様に。嘗て汝だった者を、殺さずとも、葬らずとも良い様に」
その言葉を聞いた史は、ゆっくりと下を向く。分かります、と掠れた声が聞こえる。父上は優しい方だから、と高い声は言う。長い睫毛が緩やかに動いた。瞬く様子は、蝶が翅を伸べた時の様だ。
「知って居ります、父上が誰よりも苦しんでおられるのは。それが吾にとっても、辛う御座います」
余りに優しい、と言った声音は泣き叫ぶかの様な鋭さだった。真人は慰めに、今一度頭を撫でた。
「汝の目に映る国を忘れるな。吾の中の斑鳩は、炎に巻かれて滅びてしまった。生きるよすがは、帰るべき国は消えてしまった。だが汝の目には光が在る。汝は楽土を現にする力がある。その目と、その腕に。兄は待って居るぞ、汝が『史記』にも記されるが如き大人物となる日を」
言って今度は、弟の肩口に指で文字を連ねる。ゆっくりと丁寧に、不比等、と記した。
「汝が誰の子であろうと、吾の弟だ。そして中臣の子だ。汝は誰とも等しからず、何とも比べられぬ。汝は、今此処に居る史一人きり。他のどんな者とも、他にあり得たどんな汝とも、比べる事は出来ぬ」
不比等、と誇らしげに呼んだ。真一文字に結ばれた、赤い唇が震えて緩む。嗚咽が漏れた。赤い頬はその儘、ぼろぼろと輝かしい瞳から涙が零れる。絞る様な泣き声に呼ばれて、兄の視界も歪む。
「兄上、吾はいつか兄上の言った通りの者になりましょう。不比等と名乗るに足る人物に。だから、どうかその日まで」
続く言葉は涙に紛れて聞こえなかった。それが、酷く悲しかった。この子の為に此処へ引き取られたのかもしれない、と真人は小さく思う。この弟に、二つと無き名を与える為に。この子は、真にこの中臣を継ぐ子だった。己は今の今まで、只の客人でしかない。此処は旅の途中、仮の宿に過ぎなかった。それを望んだのも、また己である。炎の記憶、懐かしきあの場所を喪った記憶が、彼の中の弓削を消してくれない。だが幼い双眸からとめどなく溢れる夢の雫が、漸く雛罌粟の炎を消してくれる様な気がした。帰るのだ。項羽の魂は、きっと楚に帰った事だろう。ならば真人も帰ろう。一度は殺した弓削と共に帰ろう。あの麗しき国、真の父の待つ国――斑鳩へ。

 

 

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