カミュ『異邦人』整理

カミュ『異邦人』は私の愛読書にして座右の書の一つですが、母に『異邦人』をプレゼンする為に書いたものが出てきたので、整形して載せます。

新潮文庫版は読みにくいことこの上ないので、高いですが是非、柳沢文昭訳『フランス語で読もう「異邦人」』(第三書房)で読んでみてください!対訳版の日本語の方が絶対読みやすい。

『カリギュラ』についても何かしら整理して載せたいなあ。

・ムルソーが母の死を悼むそぶりを見せなかった理由、また母の死の直後にガールフレンドといちゃいちゃする等、とにかく母の死を何とも思って居なかったのは何故か
ムルソーとしては、母親とある種の別れをもう済ませて居た感覚があるのかもしれないと感じる。母と住んだアパートは彼一人になってもう長いみたいだったし。彼の中で既に母は(ある意味で)死んで居た。だから悲しまなかったというのはあるだろう。
だが、より感じるのは、人の死は現実には「そんなもん」なのかなという事。人の死を悲しみで彩るのは人間の慣習とか、その慣習によって形成された思考様式とかであって、ただ一人の人が他の人の死に、慣習無しに立ち向かったら、こんなものなんじゃないかと思う。母が死んでも腹は減るし、爪は伸びる。母の死に打ちひしがれて咽び泣かなきゃいけない、とムルソーに強要するのは、彼の内面とか心とかではなくて、人間社会(他者ではない)とか慣習とかだろうと思う。ムルソーは彼自身に対して誠実に生きようとして、そういうものを拒んで居たのだと思う(というか、自分自身に誠実に生きる以外の生き方を知らなかったのだと思う)。

・ムルソーがアラブ人を殺した理由(「太陽のせいだ」)や、何故五発撃ったのか
ナイフの反射で眩しかったから撃った、というのがムルソーの言葉に沿った解釈だが、アラブ人がナイフを出した、ナイフで目が眩んで何も見えない(暫く物を見れる状態に無い)というのは結構怖い事で、自分が知らない間に刺されやしないかと怖くて反射的に(反射的に、が重要)撃ったのではないか。これが一発目。
二発目〜五発目は難しい。一度撃ってしまった、殺してしまった、という事がムルソーにも諒解された後の四発だから。ムルソーとしては、「やってしまった」という感覚があったのかなと思う。「やってしまったのなら、それはもうどの様なやり方でも同じだ」という様な一種のヤケを起こして四発撃ったのかな?と私は読んだ。(だからこそ「不幸の扉を叩いた音」にたとえられるのかなと思う)
一種のヤケと書いたけれど、「やってしまった」「起きてしまった」という事が彼の中では重要で、その後の四発は殆ど遊びというか、まあ何となく四発撃ったんじゃないかなと思う。例えば先生と物凄く言い合いになった生徒が、先生だけは殴ってはいけない…と思いつつもカッとなって一発殴ってしまったら、もう良いや何発でもいってしまえ、って感じで割とそのあとは雑にぼこぼこ殴る(決して憎しみが溢れて続けざまに殴る訳ではない)っていう感じに近いと思う。賽は投げられてしまったというか、何かを犯してしまった、という諦観が、惰性でその行為を継続させるのかなと。

・何故彼は自らの罪について釈明しないのか
彼は彼なりに誠実に(例えば嘘をつかない、事実を述べる、といったやり方で)釈明しているけれど、それは社会的な慣習(といううわべだけの儀礼的なやりとり)を重んじる多くの人からすると、奇妙で反省するそぶりが無く、不気味な人間に見える。彼はその視線に気付いているけれど、自分が他に振る舞うべき方法を知らないし(そういう意味では彼は不器用だとも言える)、彼は彼に対して誠実であり続けているから、自分の態度、自分のありように今一つ問題意識を持てずに居る。彼が彼の殺人の理由を「太陽のせいだ」と言ったのも、誠実な答えだったと思うのだけど、それは社会の慣習なりルールなりから見れば滑稽でしか無かったから、全く取り上げられなかった。でも、彼の中では真実「太陽のせい」だった。「太陽がナイフに反射して、それが眩しく視界が封じられて、ナイフを持った男が迫ってきて…」という因果関係的なところをすっ飛ばして、眩しい、(危険を感じる)、打つ、という直感的な過程を経た所為で、その事実のみをなぞると殺人の理由にならない…という内実なのではないかと思う。
或いは、「視界が封じられて怖かった」と発言すると、言い訳がましいとムルソーは思ったのかも。

・ムルソーは殺人を悔いて居るか
多分悔いて居ない。彼にとって、「自分が罪を犯した」という感覚に真っ正直に対峙する事が、罪への態度として最も善い(と言って良いか分からないけど)態度であり、反省したり後悔したりというのは彼の感覚では罪に対して取るのに相応しい態度では無いのだろうと思う。悔いる=悔恨、ではなく、悔いる=後悔(しなきゃよかった)という風に考えているのかなと想像。
ムルソーは何事にも「対峙する」という事で誠実を示して来た。彼の中では、母の死も、マリーとのデートも、人を殺す事も、全て目の前にあるという意味で同じ価値であり、同じだけ重要なものだった。それは「母の死はマリーとのデート程度の意味しかない」という事ではない。全て同じだけ大切なのだ、という事。全て重要であり、全て絶対的なのだという事だろうと思う。これは他者についても言えて、彼は裁判で友人に感謝するシーンが幾度かあるけれど、つまり彼にとって目の前にいる他者は、皆それぞれ重要な人で、彼は目の前の他者を軽んじた事は基本的に無いと思う。だから、その中で母だけが大切だとか、殺した相手だけ憎んでいるとか、そういう事は基本的に無い。母も殺した相手もある意味イコールなのだと思う。うざったい、とかめんどくさい、とか思うけど。

・ムルソーの考える「メカニズム」
ムルソーは死刑を宣告されてから随分の間、死刑が「メカニズム」によって行われる事に不満を抱いて居た。これは、生身の人間が法廷という場所で彼の死刑を決めるのに、死刑そのものは空虚な、主体の無い(誰も人格的に責任を負わない)システムによって、寸分の狂いなく実行される、という事への指摘だろうと思う。
つまり彼は彼の死に対峙しなくてはならず、そこから逃げたいのに逃げられない(そしてまた彼は逃げてはいけない、と自分に言い聞かせてもいる)状態にあって、彼はムルソーという一人の人間の死に主体的に対峙するのに、その死を彼に与えた人々は、彼に死を与える、という行いの責任の所在も明確にしなければ、実際誰一人その「死を与える」事に対峙しない事に不満を感じているのだろうと思う。彼は彼に対して常に誠実に生きて来たのに、彼の人生の最大事に際して他者は誰一人彼に誠実を見せてはくれない。それが彼の不満の理由だと思う。

・司祭とのやりとり
まず、司祭の立場は、notこの世的立場(神の世はこの世に先んじる立場)。ムルソーに(宗教的に)罪を悔い改めて欲しいと望んでいる。そしてまた、裁判の結果というのは、この世の人々がムルソーに罪を贖わせようとするものでしかなく、重要なのは神の前での罪を贖う事なのだ、と説く。それに対してムルソーはこの世的立場(彼自身の人生それだけを生き抜く立場)。彼は彼の人生の中で(他ならぬ現実世界=この世で)殺人を犯した。だからこの世の人間の裁きを受け止める、それ以上でもそれ以下でもない(つまり神の前で云々は無意味な議論だ、と一蹴する)という意見を変えようとはしない。

司祭の言葉は、他の多くの人々と同じく、社会の慣習に則った儀礼的なものかと最初は思わせる。だが次第に、司祭はムルソーとは違うやり方で、違う存在に対して誠実に生きて来た人間なのだという事が明らかになる。「では、あなたはそれほどまでに、この世を愛しているのですか?」とか「嘘だ。あなたの言っていることは嘘だ。あなたも絶対、来世を願ったことがあるはずだ」という司祭の言葉は、司祭があの世(訳が嫌だけど「来世」)やあの世に居る神を愛して居る、そこに至るものとしての人間存在を「本当に」愛して居る、という事を表している。それに対してムルソーは、この世に生きる自分自身、或いは自分を置いてくれているこの世を愛している。そして多分、他者の事も愛したいと思っている(友人への態度を見るとそう思わせる)。

司祭とムルソーの視点は真逆で、視点の共有は全く出来ない。とはいえ、ムルソーは自分の死というものに対して真摯で誠実な他者に、ほぼ初めて出会った。彼は司祭に対して激昂したけれど、その結果「世界の優しい無関心に我が身を開」く事が出来た。この世では、生まれてから死ぬまで、人を殺そうが母の死に涙を流さずにいようが、関係なく、ただ未来から吹く風から差し出されたものを受け入れて生きるしか無い。自分自身としてしか生きられないし、その「自分自身である事」は彼が慣習に沿った行いをしたかどうかとか、人を殺したかとか、そういう事で変えられたり損なわれたりするものではない。ムルソーは生きて死ぬ上で最も肝要な「自分自身である事」を貫いて(つまり自分自身に誠実であり続けて)いこうとした。

ムルソーは司祭の言葉から(或いは自分の怒りから)、自分がこの世界を愛しているのだ、と気付かされたのだと思う。来世をどう見ているか、という司祭の切迫した問いに対して、「こっちの世界のことを憶えていられるような世界ですよ」と答えたのは、「こっちの世界」を大切に思っているからだと思う。だから自分の事を幸福だと感じたし、生き直す準備ができたと感じたのかなと思う。生き直すというのは、他者とか世界への愛を持って生きる…という事なのかなと。死を前にして初めて、未来から差し出されたものをただ受け止め続けるという営為から解放されて、未来というものから解放されて、自分の生きる世界や、自分の生きた人生(来し方)を愛する事が出来る機会が得られる(もう死以外に差し出されないから「休戦の時」なのだと思う)。

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