坂の下の世界

二〇一七年三月二十六日に行われた文学フリマ前橋での無配本です。前橋にちなみ、萩原朔太郎『坂』をモチーフに、彼の住んだ馬込~大森の周辺の地域を舞台に書いています。

 

 

 

すぐに私は、草の中で動くパラソルを見た。二人の若い娘が、秋の侘しい日ざしをあびて、石の上にむつまじく坐つてゐたのだ。
『娘たちは詩を思つてる。彼等の生活をさまたげまい。なぜなら娘たちにとつては、詩が生活の一切だから。けれども僕にとつては! 僕は肯定さるべき所の、何物の観念でもない!』
さうして心が暗くなり、悲しげにそこを去らうとした。けれどもその時、背後をふりかへつた娘の顔が、一瞥いちべつの瞬間にまで、ふしぎな電光写真のやうに印象された。なぜならその娘こそ、この頃私の夢によく現はれてくるやさしい娘――悲しい夢の中の恋人――物言はぬお嬢さん――にそつくりだから。いくたび、私は夢の中でその人と逢つてるだらう。いつも夜あけ方のさびしい野原で、あるいは猫柳の枯れてる沼沢地方で、はかない、しづかな、物言はぬ媾曳あいびきをしてゐるのだ。
『お嬢さん!』
いつも私が、丁度夢の中の娘に叫ぶやうに、ふいに白日はくじつの中に現はれたところの、現実の娘に呼びかけようとした。どうして、何故に、夢が現実にやつて来たのだらうか。ふしぎな、言ひやうもない予感が、未知の新しい世界にまで、私を幸福感でいつぱいにした。実はその新しい世界や幸福感やは、幾年も幾年も遠い昔に、私がすつかり忘れてしまつてゐたものであつた。

(萩原朔太郎『坂』より)

 ああくたびれた、と祖母が呟く。また一つ、坂を登ったのだった。この辺りは坂が多い。その昔はつづら坂とか九十九坂とかの呼び名があったらしく、駅から家へと帰る間だけでも二つの坂を越えなくてはならない。幼い自分でも、特に今時分の様な猛暑にはうんざりする道程だ。年老いて足腰の不自由な祖母ならば尚更の事だろう、と彼女は思う。暇を持て余した小学六年生の夏休み、学校のプールに友達と行った後、祖母と共にスーパーマーケットで買い出しをする。冬瓜と海老を籠に入れて居たから、今日の夕飯は貝柱と海老の殻で出汁をとった冬瓜の冷製スープが食卓に並ぶのだろう。
 四分の一の大きさでもずしりと重い冬の名を冠する瓜を、持つよ、の一言で自分の担うビニール袋に入れた。他に、水菜、油揚げ、豚こま、等々。ありがとうね、と言いながら、祖母は余りにすんなりと、重い麺つゆの瓶を自分の袋に入れた。孫が背伸びして居る事など気にも留めない様子だった。
 ちょっとむっとしたけれど、そのまま暑い屋外へと出る。彼女の心よりも、ずっとむっとした空気が肌に纏わり付いた。湿った髪の冷たさなんて、涼気の足しにもならない。祖母は暑いね、と言いつつ慣れた手付きで日傘を差した。何でもない普段着を着て居るのに、いっそ過剰な位に優雅な日傘だ。これが、夏に祖母を見つける一番の目印だった。嘗ては真白かっただろうそれは、幾年も夏の紫外線を浴び、熱風に吹かれて、柔らかなクリーム色になって居た。だが繊細かつ精緻な汕頭スワトウ刺繍は綻びも無く、籐の把手は艶やかな飴色になり、また汚れも丹念に落とされて居て、遠くから見ても近くから見ても、優美だった。
 その傘が、見た目以上に古いものである事を彼女は知って居る。祖母が、自身と暑気との境界線として、まるで魔除けの様に、その傘を長年に渡って愛用して居るという事も。傘の把手は祖母の手を覚えて居たし、骨組みは祖母の背丈を知って居た。複雑かつ雅やかな刺繍の紋様は、祖母の中を流れゆく様々な時間を見て来た。そして九月に雨が降って夏が終われば、祖母は傘の布地を丁寧に清め、骨組みに布地を縫い止めて居る糸の弱りを確認し、少し油を差して、また次の夏までそれを玄関の物入れに仕舞う。日傘は孫の彼女よりもずっと年配の、祖母の相棒だ。何故あの優美な日傘が、祖母とこんなにも長く夏を共にするのか、それは分からない。訊いてみようとも、思えない。日傘に触れる祖母には、こっくりとした重みのある何かが波打って居て、彼女はそれを覗く事が出来なかった。
 ぼんやりとそんな事を考えながら、坂の上で立ち止まった儘、ふうふうと息を継ぐ。祖母は数歩先で、矢張り立ち止まって汗を拭って居た。登りきった坂を振り返ると、空と坂の下とでぱっくりと明暗が分かれて居た。今にも崩れそうな入道雲と、ぎらぎらと輝く太陽。足元のアスファルトはだらりと下降して、翳った丘の下へと続く。暗い坂だった。大きな邸宅二件の間に延びる、蔦の生い茂る坂。勾配は大して険しくないものの、長い。丘ひとつをゆっくり周回しながら登る趣があり、湾曲して居る道の先、先程まで居た駅の方は見えなくなって居る。翳って居るのに涼しくないのは、風の通り道ではないからだろう。それがまた、きりりと青い空と対照的だった。
「おばあちゃん、持とうか」
 麺つゆの瓶は重い、そう思って隣を見遣れば、ふう、と息を吐く祖母が小さく笑う。小さく華奢な祖母だったが、労働に関しては孫である彼女の何倍も我慢強いところがある。昔の人だ、と感じる。
「ん、大丈夫よ」
 そう言って、傘と袋の持ち手を入れ替える。再度次の坂を降り、また登らなくてはならない。高台に登ったというのに、風は吹かないし日陰も無いし、暑さはちっとも手加減してはくれない。蝉がじぃーこ、じぃーこ、と鳴いて居る。汗が身体中を伝う。うえ、と内心で呟いた。
「汐見坂まで行けば、風が吹くと思うけど」
 二つ目の登り坂の方を見ながら、祖母がそれだけ言った。汐見坂を登り切れば、もうすぐ家が見えて来る。そうすればクーラーのついた部屋と、冷たい麦茶とが待って居る。うん、と手短に答えて、休めて居た足を再び動かし始めた。登ったのにすぐに降る不条理を覚えながら、ふと今し方登った坂の名前が気になった。暗くて湾曲した、長い坂。大森駅の目の前の丘を越える、だらだらとした勾配の。
「おばあちゃん、さっきの坂って、何て名前」
 今度はつま先が痛くなる様な急勾配を降りながら、やや後ろを歩く祖母に問い掛ける。祖母は何でも無さそうに、すぐに答えた。
くらやみ坂よ。暗いでしょ、あそこ」
 妙な名前だ、と彼女は反射的に感じた。怖い、思うには余りに日常的に通る道だった。彼女の日常に、微妙な色合いの非日常が侵入して来る感覚があった。それで態と、口に出してみた。
「闇坂? 何か怖い名前」
 怖い、その言葉は自分の中に入って来た謎の非日常、違和感について知る為の試金石になる様に思ったのだ。しかしいざ口にしてみると、どうやら違う気がした。怖い、という言葉は空々しく宙に消えた。斜め後ろに居る祖母は、ふふ、と可笑しそうに笑った。
「暗いってだけよ。夜は怖いかもしれないけどね」
 この辺りの坂は、名前を覚えても覚えてもきりが無い、そう言って祖母はまた笑った。下り坂の半分程まで来た所で、後ろから車の来る音がする。坂の右側へ寄る。ややあって、白い軽自動車が通り過ぎた。ふう、とまた溜息をつく。
「坂の名前、いくつ言えるか競争しようか」
 祖母が、買い物帰りに良く誘う遊びだった。何でも無い競争やちょっとした賭け事が、祖母は好きだった。通りの向かい側の人、右に曲がるかな、それとも左? 次に来る電車、隅の席に座れるかな? そんな判じ物を即席で拵えては、二人で暇潰しに遊ぶ事が多かった。今回は、先程の孫娘の言葉で思いついたのだろう、坂の名前を沢山言えた方が勝ち、という遊びらしい。
「ええ、それおばあちゃんが強いに決まってるじゃん」
 祖母は得意げに笑うと、まあ挑戦してみなさいよ、と軽やかに言う。
「この辺りの坂の名前って事だよね?」
「そうね。まさか日光のいろは坂、なんて言っても詰まらないでしょ」
 地理のお勉強じゃないんだから、と屈託無く笑う。勝負が好きなのは昔からなんだろうな、と家にある少女時代の祖母の写真を思い出す。セピア色の写真は戦前のもので、祖母は袴姿で椅子に座って居た。隣には縞柄の着物姿の曽祖母、後ろには学生服を来た祖母の弟が二人と、クラシカルな背広に身を包んだ曽祖父。祖母は愛らしい顔立ちで、戦前の写真にしては珍しく、今目の前で笑って居るのと同じ様に、屈託無く笑って居る。この笑顔が変わらない様に、勝負好きも昔からなのだろう。小さい頃はお転婆で、弟を喧嘩で負かして居たと聞くから、彼女の予想も満更嘘でもあるまい。
「じゃあ若さに免じて私を先攻にしてよ」
「良いわよ、ハンデってやつね」
「うん。じゃあ、さっき教えてもらった闇坂」
相生あいおい坂」
「蝉坂」
「ええ? 蝉坂はこの辺りではないでしょう。」
「許してよ、同じ区でしょ? あんまり知らないんだから」
「まあ大目に見ましょう。じゃ、貴船坂」
汐見しおみ坂」
「臼田坂」
夫婦めおと坂」
大尽だいじん坂」
「え、それ何処?」
「ほら、第二中学校の所の」
「あ、へえ、そんな名前なんだ」
「そうよ。はい、次」
「うーん、猿坂」
二本木にほんぎ坂」
あぶみ坂」
「車坂」
「あ、お寺の所の坂?」
「そうよ」
「良かった合ってた。で、えーっと…」
「もう出ない?」
「待って…うーん…あ、貝塚坂」
花抜はなぬき坂」
「……うーん、ゼームズ坂はこの近くではない、よね」
「そうね、この辺りではないかな」
「あー」
 負けた、と呟くと、祖母がまた得意げに笑った。
「ゼームズ坂で思い出した。お盆の時、大雨が降って品川のお墓に行けなかったでしょう。今度行かなきゃねえ」
 ああ、と相槌を打ちながら、七月の大雨を思い出す。活発な前線の影響とやらで、梅雨明け直前に物凄い大雨が降ったのだった。遠方から幾人か親戚が来て居たが、墓参りは取り止めになった。お蔭でいとこやはとこのみんなで、人生ゲームやらトランプに興じたのだけど。
「お彼岸前に一度行くって事だよね」
「そうよ」
「お母さんもお父さんも忙しいし、私が一緒に行く。夏休みだし」
「ありがとねえ」
 いつが良いかなあ、と言いながら坂を下り切る。右に曲がって、暫くは谷底に当たるバス通りを進む。嘗てはこの通りは、ずっと北上して田無に続いて居たらしい。自転車で行けば辿り着けるだろうか、と去年の自由研究で地図を買って試そうとしたが、どうにも道が変わって居るらしく、田無には辿り着けなかった。
「涼しい日だと良いけど」
 そう返しながら、まあそんな日は無いでしょう、と諦め顔で一人ごちる祖母を数歩後ろから見る。日傘の布地が光を弾いて、目が眩みそうだ。
「天気予報見て決めよう。今日みたいな日は無理だよ」
「そうねえ」
 バス通りを歩いて、コンビニの前を通過する。ソフトクリーム食べる?と甘い誘惑を提案した祖母だったが、二人とも足を止めなかった。医者から甘いものを止められて居る人の前で菓子を食べるのは気が引けた。ぶうん、と前から来たのは、今度は原付だ。細い歩道を一列になって身を寄せると、のんびりとした速度で通過する。それを左へと見送りながら、信号の無い十字路を左へ渡る。そのまま直進すると、割と大きい公園を横切る。
「あー……涼しい……」
「ずっとこの調子なら良いんだけどねえ」
 二人ではあ、と息をつきながら、公園の木陰を通過する。ビニール袋の中の冬瓜がふくらはぎに触れて、ひんやりした。
 例の汐見坂が見えて来た。また登り、と思いながらげんなりしてその作業に取り掛かる。坂の上には家がある、と言い聞かせて歩を進めた。
「夏休みの直前に、図工の授業で龍子記念館に行ったよ」
 暑さと上り坂の辛さを紛らわせるべく、長く続きそうな話題を選んで話す。案の定日本画が好きな祖母は食い付きを見せて、ああ、と呟いた。
「去年、生誕百年で上野で作品展してたわねえ」
「そうだったの」
「あれ、知らずに居たの」
 祖母は意外そうにそう言うと同時に、坂の上から熱風が吹き付ける。嫌んなる、と二人同時に零す。一拍の後、お互いの顔を見てけらけらと笑った。
「龍子のお屋敷は見たの」
「うん。凄く凝ってた」
「そうよねえ。当たり前だけど、私が若かった頃はまだご存命でね。今みたいに見られるなんて思っても居なかったわ」
「窓の硝子が波模様みたいな擂りを入れてあるんだけどね、空襲の時にそれのお蔭で爆風が逃げて割れずに済んだんだって説明してくれたよ」
「あらそうなの。お庭の池が空襲の時の穴だって言うのは何かで聞いたけど、それは知らなかった」
「綺麗なだけじゃなかったんだねえ」
 そりゃそうよ、と祖母が言ったところで坂の中腹まで来た。祖母は彼女のやや後ろを歩いて居た。正午近くの太陽は、足下に影一つ作りやしない。
「おばあちゃん、お墓参りだけど」
 そう言って息を継ぐ。後半分、そう思っての事だった。熱い風が吹いて、彼女は顔を顰めた。だが風が吹き終わっても、後ろから返事は来ない。妙に思って振り向くと、祖母がよろめくのが見える。
「おばあちゃん」
 怪訝に思って近寄ると、日傘がゆらゆらと揺れた。傘が揺れて折れ曲がる様にすら見える。そんな絵を、誰か描いてなかったっけ。場違いな事を考える。祖母の目は焦点が合って居ないのが見て取れた。目は、傘よりももっと頼りなげに揺れた。ゆらゆら、ぐらぐら。
「おばあちゃん」
 危ない状態なんだ、漸くそう思い至ってスーパーの袋を放り出して駆け寄る。返事は無い。その儘、前へのめり込む様に倒れた。傘はぽーん、と宙を飛び、たわんたわん、と跳ねて坂の中腹で止まった。坂の上から、彼女の背に向かってまた熱風が吹き付けた。祖母の肩の辺りを支えながら、跳ねる傘と熱風だけをくっきりと記憶した。

 結局、祖母はその後返事をしてくれる事は無かった。お彼岸前の墓参りは、祖母の葬儀だった。黒いワンピースを着た彼女には、寺の石畳からの照り返しが耐え難い程に暑かった。坂の上の熱風が祖母を攫って行った様に思えて、暑さを呪った。あのゆらゆらと揺れ、たわんたわんと跳ねた汕頭刺繍の傘を棺に一緒に入れようとしたけれど、金属は入れられないとの事で断られた。何もかも、呆気無かった。それで四十九日が終わっても、彼女は傘を仕舞えずに居た。毎年祖母がそうやった様に、油を注して手入れをした。籐の把手は、彼女が持つには畏れ多い様な年月に満ちて居たから、只、管理する以上の事はしなかった。
 だから彼女が数年後にあの傘を差したのは、本当に偶然と言わねばなるまい。高校に入った年だった。夏休みの或る日、いつもなら大森駅まで自転車で行くところを、昨晩の夕立で駅前に自転車を置いて来てしまって居た。仕方無く歩きで行こうと考えたところで、ふと祖母の日傘を思い出したのだ。五月の新入生のオリエンテーションで、富士山麓に一泊二日の合宿をした。その時同級生が持って居た日傘が、何だか大人びて素敵だった。祖母が生きた最後の夏と同じか、それ以上の日差し。毎年油を注すだけの傘。使っても良いかもしれない、と何となく思った。まず、今日一日使ってみよう。そう考えて玄関先の物入れの奥から、少々埃っぽくなったそれを出した。布巾で拭えば、刺繍の辺りは汚れて居ないのが分かり安心した。ぱっと広げて家を出る。むわ、と熱気が押し寄せた。うう、と呻きながら汐見坂を下る。
「汐見坂の後はまた登り。その後駅へ下るのが闇坂」
 祖母に最後に教わった坂の名前達が何となく特別に感じられて、あの後何度も祖母の言葉を繰り返した。右近坂って返せば勝てたのだ、と気付いたのは中学生になってからだった。バス通りをずっと辿り、右に入った辺りの阪だった。祖母に勝てたからどうなる訳でもない、そう思って傘の把手を左手の中で遊ばせる。ゆらゆら。汕頭刺繍は強い日差しに透けて、彼女の腕の辺りに不思議な影を作る。遠い昔の優雅な香りに守られて、日差しを撥ね除ける。そんな幻想を感じる。実際のところ、大して暑さに変わりは無い。見て居る人が涼しく感じるだけ、持って居る彼女の何かが満足するだけの傘だ。けれど、やはり何かを満足をさせる為に、夏が来る度祖母もこの傘を差して居た。何故だろう。彼女を傘へと駆り立てるものと、祖母を駆り立てるものとは違う。傘を差して最初の日、それだけを知って彼女は帰宅した。陽が落ちても、東京は揺るぎもせぬ熱帯夜だった。
 夏の間中、何度も傘を差して歩いた。祖母がこの傘を使い続けた理由を知りたかった。或いは、彼女自身が祖母を追いかける理由そのものを。夏は長かった。自転車で駅まで行くのをやめて、暑い中傘の為に坂道をなぞり上げる様に歩いた。傘の骨に布地を縫い止める糸が緩めば交換し、染みや汚れがあれば柔らかいブラシで洗った。昔は真っ白であっただろうそれに何が隠れて居るのか知ろうと、必死になった。そうやって、長い夏休みは過ぎていった。
 八月三十一日は、まだまだ暑い日だった。最後に残った宿題を終わらせ、母親に頼まれた買い物の為に、夕方外へ出た。夏の日はまだまだ長く、西日のきつさに何となく、日傘を手に取った。差して坂を下って行く。駅前まで行って買い物を終えたら後はもう遊ぼう、等と思いながらどんどんと坂を越える。汐見坂を下りバス通りを過ぎて、名も無い上り坂に差し掛かった時に、びゅ、と強い風が吹いた。う、と思わず零し、傘がおちょこにならない様に向きを変える。その瞬間に、誰かが彼女を追い越す気配がした。先程まで誰も通って居なかった坂道だ。 不思議に思って坂の上を見上げたけれど、勿論誰も歩いてなんて居やしない。後ろを振り返っても同様だ。強風はすぐに止んで、気の所為かな、と思ってまた歩き出した。
 おかしいと感じたのは坂の頂が見えて来た辺りからだった。誰かが彼女のすぐ近く、殆ど手を伸ばせば触れる程の距離を、何度も通り過ぎて居る気配があるのだ。衣摺れ、体温、吐息、そういったものがひたひたと感じられる。それは決して彼女の危機感を煽る様な恐ろしさを持っては居ない。しかし矢張り不可思議かつ奇妙な現象に変わりはない。彼女は困って、頂の直前で足を止めた。
「坂の上と下とは、別々の世界だ」
 ひょお、と今度は坂の下から優しい風が吹く。彼女は最初、風が口を利いたのだと思った。夏の夕暮れ時にそぐわない、涼やかで穏やかな風だ。それは古い箪笥を開けた時の様な、昔を色褪せずに閉じ込めた、軽やかな香りをして居た。彼女の手の中にある傘からも、時折そんな香りがするのを、彼女は良く知って居た。そんな匂いのする風が、優しく語り掛けて来たのだろうと。
「別の地平線に住まう人の所へ行くんだ」
 優しい声。古く優しい軽やかな風。それを背後に感じて只佇んで居ると、また彼女の近くを幻影が通った。髪の毛が人の通った気配にさらさらと揺れた。今度こそ、その人影はぼんやりとではあるが彼女の目にも見る事が可能だった。セピア色の男の背中。少し前屈みになりながら、ゆっくりと坂を登ってゆく。
「別の、地平線」
 こだまする様に繰り返される優しげな声に、また彼女の横を通り過ぎる人影に、何となく言われた儘の言葉を投げ掛けた。すると人影は後ろ姿の輪郭をより明瞭にして、坂の頂上へ到着する。そうして、男の影はゆっくりと何処かを向いて微笑んだ。尋ね人を見つけた人の笑みだ。それだけが彼女の目に視認可能な全てだった。急いで後を追うも、頂上に着く頃には風も影も途切れて居た。
 九月になって学校が始まると、傘の事もあの坂の上での不思議な出来事も、彼女の頭の中心を占める事は無くなった。高校の初めての文化祭の準備に追われ、それどころでは無かったからだ。十一月三日の文化の日に合わせた祭の準備に、彼女はてんてこ舞いだった。その所為で、毎年油を注し汚れを清めて仕舞う筈の傘を、出しっ放しにして居た。その事に気付いたのは文化祭の後片付けの次の日、振替休日になった十一月五日の事だった。朝起きてふと玄関先を見れば、季節外れの日傘が傘立てに出しっ放しにされて居た。あ、と言って手に取ると、数年ぶりに使った際と同じく少し埃っぽい。朝食を急いで食べ終えると、ごめんね、と誰に謝るでもなく呟いて手入れをする。外を見れば、やや肌寒い秋晴れの日だった。
 油は注したけれど、すぐに仕舞うのは何だか気が引けた。あの不思議な出来事以来、一度も使わずに放置して居たからだ。差しこそしないけれど、何となく傘を手に持って家を出る。散歩をして、帰ったら傘を仕舞おうと思った。
 迷ったけれど、結局いつも行き来する坂道を通る。汐見坂を下り、名も無き坂を上り、また闇坂を下るコースだ。駅前まで行って少し本屋に立ち寄っても良いかも、と考えながら歩いて居ると、バス通りから一本入り、上り坂が始まった辺りで後ろから肩を叩かれた。
「その傘、私の傘と同じものではないかしら」
 振り向くと、自分より少し歳上と思しき少女が居る。固く編んだ三つ編み。暗めの臙脂の袴に、深い青の二尺袖の着物。そして、彼女のものと全く同じ汕頭刺繍の、真っ白な傘。籐の把手はまだ明るい色をして居て、布地もぱりっとした透明感のある白だ。顔をまじまじと見れば、明るくて勝気な瞳や少しだけ悪戯っぽい口許は、写真で見た嘗ての祖母に酷似して居た。
「え……」
 思わず絶句して少女を見つめて居ると、行きましょ、と軽やかに微笑まれる。その儘少女は空いた自身の左手を彼女の右手と繋ぎ合わせて、楽しげにまた坂を上り始めた。彼女と同じ位の背丈なのに、彼女の数倍速い足さばきに、引っ張られる様にして付いて行った。
 貴方、おばあちゃんなの? その言葉を口に出来ず、彼女は黙々と少女に従った。彼女のやや先を歩く少女は、そんな彼女の様子を露も気にして居ない様子だ。只るんるんと足取り軽く、坂を上って行く。
「貴方のお蔭なのよ。私、ずっと待って居たんだから」
 坂の中腹、以前誰かが彼女の横を何度も通ったあの辺りまで来たところで、少女は不意に口を開いた。
「貴方があの人を連れて来てくれたから、また会えたのよ」
 何の事を言って居るのか良く分からず少女の目を覗き込むと、にこり、と笑む。戸惑って目を逸らすと、私待って居たの、とまた言われた。
「何度も、夢の中で会った人なのよ。でも起きてる時に会ったのは、坂の上で一回きり。あの時から、私はあの人の事をずっと待って居たの。だって一人では闇坂を、怖くて下れないんですもの」
 闇坂。それは丁度、この名も無い坂を上った先にある坂だ。
「あの人はこちらの名前の無い坂から来て、闇坂を下って行ったの。私も一緒に下って行きたいわ」
「あの人って、だあれ?」
 繋いだ手を引く。頂上近くで足を止め、思わずそう訊く。少女はにこにこと笑って、優しい人よ、と答えた。優しい人。優しい声。坂の下から吹き上げた軽やかで涼しい風。あれは、今丁度二人の間を吹き抜ける秋の風だ。
「あの男の人? 優しい声の人?」
 矢継ぎ早に問えば、そうよ、と穏やかな答え。傘をぎゅっと握る。目の前の少女が祖母ならば――祖母の嘗ての姿であるのならば、あの男の人は誰なのだろう。夢の中で会った人。起きて居る時はこの坂の上で会ったきりの人。
「私の事を、優しい声でお嬢さんって呼んでくれたのよ。でも少し、悲しそうな表情をしても居たけれど。それだけで良かったの。それだけで、ずっと待てたのよ」
 少女は長い袖を風に遊ばせながら、傘を傾けてやはりにこにこと笑う。この坂道を、祖母は死ぬまでに何度往復したのだろう。男と出会ったこの坂道を。こんな少女の頃から死ぬ時まで、ずっと白い傘を持って。
「……あの人とまた会えたって、どういう事?」
 坂の頂上はもうすぐだ。其処で何かが終わってしまう気がして、彼女はやはり足を止めた儘そう訊いた。少女は笑った儘、後ろを向いて、と言う。言葉に従えば、二人の少し後方に背広を着た男の幻影が見て取れた。以前彼女の横を通った時よりもずっと明瞭な影だ。柔和で居て、少し物憂げな眉宇と口許。優しさと悲しさが混じり合った面差し。秋風と共に、坂の下の世界からやって来る異邦人。
「傘を差して頂戴」
 少女がそう言って彼女を促す。言われる儘に手の中の傘を上へ向けて、ぱん、と広げた。秋の日差しにもしっかりと汕頭刺繍は透けて、やはり不思議な形の影を作った。
「そちらの傘をこちらに頂戴。今度こそ二人で、闇坂を下って行くの。その為には貴方の傘が必要なのよ」
 そう言って少女は傘を差しだす。その肩に、背広を着た男の手がそっと置かれた。その姿を上目遣いに見れば、古い写真の向こうにある様な過去の――或いは違う地平線に住まう瞳が、愛おしげに少女を見詰めて居た。
「……どうぞ」
 そう言うしか無かったし、それを彼女も望んで居た。あの瞳を見たら、断るなんて無理だった。柔らかいクリーム色の傘と、ぱりっとした真っ白の傘。全く同じ意匠で、流れた時間だけが異なるそれが交換される。繋いだ手が解けて、お互いの傘をゆっくりと、丁寧に渡しあう。
「ありがとう」
 礼を述べたのは、意外にもセピア色の男の影だった。彼は少女の肩に置いた手と反対の手を、そっと傘の把手に触れる。傘の色がクリームから白になったのと同じ様に、男の影もまた、セピアからくっきりとした色彩を取り戻し始めた。地平線が繋がる。丁度、彼女と少女とが手を繋いだ様に、坂道の上と下の世界が混じり合う。指先は白くなり、頬はうっすらとした紅色に、額には茶色の髪の影が射し、背広は濃い緑へと。
「行きましょう」
 少女は朗らかにそう言うと、空いた手で男の手を包んだ。今度は彼女とではなく男の大きな手と自分の手を繋ぐ。世界は一瞬だけ混じり合い、少女を向こう側へ取り込み、そしてまた隔たった。日の翳る、暗い坂の下の世界。祖母が彼女の祖母ではなく、青い二尺袖をはためかせ、男と手を繋いで歩く世界。それが彼女の掌から零れた落ちた祖母の或る横顔であるならば、彼女はそれで満足だった。それが知りたかった。それを知りたくて、ずっと祖母を追いかけて居たのだから。
 少女は闇坂をもう下る、という時になって、こちらを振り返りにこりと微笑む。
「ごきげんよう」
 闇坂を、二人は柔らかく、まるで芝生を歩く様に下って行った。坂の下の世界へ向かう二人を、彼女は真っ白な傘を差して見送った。
「ええ、ごきげんよう」
 後姿へ向かってそう返した。秋の風が吹いた。誰も振り返らない。彼女は踵を返して、家路へ就いた。坂の上と下。十一月の坂の上から、黄泉平坂の下へ。
「おばあちゃん、お幸せに」
 傘を閉じた。また夏になったらこれを使おう。ぱりっと真っ白な、まるで新品のそれ。そして祖母と同じ歳になるまで大切に使おう。毎年夏が終われば油を差し、糸を補強して汚れを落として。坂の下の世界へ、いつか彼女が行く日まで。

 

 

(この小説は嘗て萩原朔太郎の住んだ、現在の東京都大田区の大森~馬込周辺の地域をモデルにして居ますが、小説という形式の都合上、実際の地名や地形とは必ずしも一致しない点がある事をお断り致します。)

(2017年3月28日)

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