ハイファンタジーと言葉と文字と

漢字が存在する異世界って矛盾しているよねって話。ちょっと表音文字と表意文字の違い的なところまで書けなかった。全体的に私も混乱しながら書いてるせいで分かりにくいです。あと『彩雲国物語』をdisってます……。

Twitterで言ってた事なんですが、先日アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』を読んでいたら、「エルフランドからポキープシへ」の中に、こんな事が書いてあった。

トールキンが〝第二の宇宙〟と呼ぶものの創造、それは新世界を作り出すことです。かつていかなる声も発せられたことのない世界、語る行為が創造の行為である世界。そこに響きわたる唯一の声は創造者の声です。そして、その一語一語すべてに意味があるのです。

このエッセイ全体の内容は措くとして(結局今回私が言いたい事に関わる気もするけど)、これはファンタジーを書く文体について語られている中で出て来た言葉だ。全く新しい世界を創造する際、その創造を保証し、支えるのは作者(創造者)の言葉しか無いという事だが、この「言葉」とは作者が書き連ねる言葉(トールキンやル=グウィン自身なら英語)であると同時に、新世界の中の言葉(メルロンとかエステルとかケストとかエス・アイムラとか)でもあるだろう。謂わばハイファンタジーの作者は、異世界の言葉を現実の言葉に直して記す、翻訳家という態度が必要になってくる。もしかしたら翻訳家そのものなのかもしれない、作家というものは……なんて思わなくもないけど、ともかくファンタジー世界の言語を英語なり中国語なり日本語なりに直す作業を、ファンタジー作家はしている訳だ。

さて私が今回話題にしたいのは、トールキンが書いたのは英語による非常にヨーロピアンな異世界であり、ル=グウィンもそれを意識的に乗り越えようとしているものの、やはり何処かヨーロピアン或いはアメリカンな世界を英語で書いている、という点なのだ。アースシーはヨーロピアンでもアメリカンでもない、とは私は思わない。有色人種と白人の対立、主食はパン、酪農が行われている、屋内でも靴を履く、椅子に座る、葡萄酒を飲む、といった要素はやはり何処かヨーロッパや、それを受け継いだ土地としての北米を思わせる。無論これらを排除するのが良いとは私は思わない。
こうした作者の母語や帰属する文化圏が滲み出るところを見て、私は(東)アジアンファンタジーを本格的に書くなら……と考える事が度々ある。そしていつも、ある一つの事柄によってその想像は非常に困難になる。それは漢字の問題だ。異世界で漢字が使われていると考える事が、根本的に異世界を破綻させるという問題だ。

ファンタジー作家は翻訳家だ。私達が聞き取りえぬ言葉を話している異世界の人々の言葉を、現実の言葉に訳している。さてそうなると、異世界の人々は私たちの預かり知らぬ言語体系を有し、文字を有している筈で、例えばEcthelionとかGedとかいう名前も、そういうところから生まれて来る。Dragonflyは本当はDragonflyとは言わずに全く聞き取れない音をしている筈だし、その全く聞き取れない音の、全く知りえない言語体系についてマジで考えたのがトールキンだからトールキンのファンタジーは凄い訳だ(理由は他にもあるけど)。
だとしたら、漢字は一体どの様に扱われれば良いのだろう。「今日は晴れている」と主人公が言ったとする。これは本当なら未知の言語体系、未知の発音によるから「ほにゃほにゃぷー」みたいな感じかもしれない。それを翻訳して「今日は晴れている」となる訳だ。この漢字の使い方には問題は無い。何故なら「ほにゃほにゃぷー」は翻訳可能な言葉だからだ。
しかし異世界の人々が実際に漢字を使っていると考えた瞬間に、もうそれは異世界として存在できなくなる。漢字というものは東アジア――とりわけ中国の歴史や文化とどうしても切り離しては存在できない。異世界の人物達の名前は漢字である――例えば『彩雲国物語』の紅秀麗みたいに。ねえ、彩雲国ではその昔甲骨文字が存在したの?金石文が存在したの?篆書が存在したの?始皇帝みたいな人が文字統一をするまではどんな漢字があったの?そして漢字をどう発音しているの?中国語とも韓国語とも日本語ともベトナム語とも違う漢字の発音とはどんなもの?主人公の書く文章の文法体系は?漢字だけという事は、それって(古典)中国語の延長じゃない?ねえ、どうしてそんなに現実世界に似た世界なの?どうして現実世界とそもそも同じ文字を使い得るの?
(ごめん『彩雲国物語』好きな人……)

最後に提示した、そもそもどうして現実世界と全く同じ文字を異世界の人間が使い得るか、という事について、(東)アジアンファンタジーは答えられない。そして(東)アジアンファンタジーは、漢字を用いない事には(東)アジアンファンタジーにはならないのだ(これは興味深い事だと思う)。『彩雲国物語』の登場人物の名前を全部カタカナにしてみたらどうだろう。或いは『十二国記』のキャラクターを。『十二国記』の第一作目『月の影 影の海』で当初陽子がどの様な世界に流れ着いたか、陽子自身も読者も把握に苦心したのは、一つには「ケイキ」とか「ジョウユウ」とかのカタカナの効果だ。陽子は言語の音声こそ日本語に変換されるものの、文字で言葉の輪郭を認識したがる。私達読者も、日本語でものを読んでいる限りそうだ。いくら舞台設定が東アジア的であっても(例えば家では靴を脱いで床に座ったり、袖口のゆったりとした長い衣を纏い帯を着けていたり、男性が髪を結っていたり、米の酒を飲んでいたりしても)、そこに漢字文化らしき気配を感じなかったら、私達はそこに東アジアを感じない様に私は思う。だが同時に、漢字は異世界には存在し得ない文字体系なのだ。

トールキンの中つ国にヨーロッパの貴族的美しさの気配を感じ、ル=グウィンのアースシーにヨーロッパの素朴さとネイティヴアメリカンの叡智の気配を感じるのは、彼等の思い描く異世界の中に、現実の世界の真実が溶け込んでいるからだ。ル=グウィンが上述のエッセイの中で、ファンタジーの世界に鋳型(アーキタイプ)は無い、と言っていたのはある意味では間違いだ。現実世界に於いて人間が通った道のり――歴史や文化といったものが、ファンタジーの味方をしている事は疑えない。だから、私の様な東アジアの人間はトールキンの作品を読んで、漢字でこういう事がしてみたい、と思うのだ。しかしそれは無理だ。漢字は余りに現実世界の人間の通った道のりに、ぴったりと寄り添っているから。

小野不由美は、これに関して非常に意識的な作家だと私は思う。彼女が『周礼』に記された周代の統治システム(とされるもの)をモデルに異世界を作った事は既に指摘されている通りだ。現実世界とほぼ一方通行ながら通行可能であり、文明の伝わる余地のある世界。そして妙に人為的な世界。それは小野不由美が、漢字というものを使い得る異世界、に整合性を持たせる為に考えた仕掛けだと私は思う(少なくともそういう側面があると思う)。
さてこれを超える様な、漢字を使い得る異世界を発明できるのだろうか、私達東アジアの人々は。

なーんて書いたんですけど、要はファンタジー世界の人たちが表意文字を使っている時点で、もうその世界は正しく描き得ない可能性が高いって話なのかもしれない。そこに私達が最も訳し得る、描き得る漢字をぶちこむと、それは現実によるファンタジーに対する侵略行為になるんだよねーみたいな。いいかげん分かりにくいんで、条件分けしてまたつぶやこう……。

(2017年6月25日)

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