何者でありたいのか――コンテンツを消費すること

私がずっと思っているけれど、上手く言えずにいることについて書いてみようと思う。
大きく言ってしまえば、サブカルやヲタク文化といったものに対して私がずっと感じている、徒労感みたいなものについて。私が酷く疲れる原因について。

まず、私のTumblrのこちらは、私がずっと(具体的に年数を言うなら、10年近く)ヲタクと自称するサブカルチャー好きの人々に感じているもやもやを吐き出したものだ。
表象――キャラクターに「萌え」ること、「萌え」を持つ者同士で共感しあったり、創作をしたり、創作物を更に共有すること……それらに半ば参加していながら、同時に半ばもやもやしている自分の内実について書こうと思う。

BL短歌誌『共有結晶 Vol.4』座談会を読んでいたら、こんな箇所があった。

柳川 BL二次創作でもナマモノはヤバいって認識があるじゃないですか。何であれ、モデルになった生身の人間がそこにいるとしたら相当慎重にならざるを得ない。
穂崎 それを言ったら短歌自体がナマモノジャンルになりがちなのでは……。
柳川 だから取扱注意だし作中主体と作者は「混ぜるな危険」なんだよ。
(中略)
似子 自分の体験を作品にすると、自分をコンテンツにしていく感じがあって嫌だなあと。

BL短歌誌『共有結晶 Vol.4』P.152~P.153

これを読んでいて、最初ぼんやりとティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』を思い出していたのだけれど、ふと「ナマモノの二次創作は慎重にならざるを得ない」「自分をコンテンツにしていくことには、何らかの危険性や問題が潜んでいる」ものなんだな、と妙に得心した。

中学一年生の時、『週刊少年ジャンプ』に連載している、或る作品に夢中になった。当時の私は少年漫画というものを知ったばかりで、その洗練されたエンタメ的作風に引き込まれたと言って良いと思う。しかし学期が変わる毎に友人達の間では作品の流行は変化し、その作品も、また次の流行作も飽きられていった。そういった流行の変化は、中学生であるだけ一際速かったかもしれない。流行が変化し複雑化すればする程、「流行」やそうなりかけている作品に対する友人達のリサーチ力は上昇したし、リサーチ範囲も広くなっていった。が、流行というものに身を任せる事自体に、彼女達はいつまでも鈍感だった。少なくとも私にはそう感じられた。
消費活動なんだ、と私は高校生になった辺りから次第に思うようになった。トレンディドラマを見たり、ファッション誌を読むのと何ら変わらない気がした。ヲタクって何なんだろうと思った。ヲタクを自称する彼女たちは、流行作を楽しく消費する事がヲタク活動だと思っている。それが楽しい事なのは私も否定しないが、その楽しさは私にとって何処か空しかったし、空しさに耐え続ける事は出来そうになかった。
キャラ萌えについても同様の違和感があった。登場人物という表象への愛着の念が深ければ深い程、「萌え」の対象として(敢えて言うけれど)「まなざす」事に違和感と嫌悪感がある。『海辺のカフカ』に「さくらさんの裸を想像していいですか?」というセリフがあるけれど、私も登場人物に「萌えていいですか?」と訊きたい気持ちになる。貴方を消費という快楽の道具にして良いですか? と。

表象は生身の人間じゃない。表象文化論に疎い私も、流石にそんな事は分かっている。けれど、愛着が深い――それだけその表象が「人間」として説得力を持っている――相手を消費するのが、私は何だか、嫌だ。

そんな中で上述の『共有結晶 Vol.4』を読んで、何かがかちっと嵌まる音がした。私にとって、登場人物はキャラクター(記号)ではなくてナマモノだし、コンテンツではなく一個人としての人間なんだ。そんな風に思った。
今までも、キャラクターを人間として扱いたい、とTwitterでも言っていたし、友人にもそんな話をしていた(ごく親しい友人達はその信念?を尊重してくれるのでとても有り難い)。けれど、それが理路整然とした言葉で逆側から(「萌え」を肯定する人達から)示されたのは初めてだった。
私はCLAMP作品の二次創作は全部「二次創作である」がゆえに地雷だし、『十二国記シリーズ』の二次創作を久し振りに再開したら、CPというものが当たり前に存在する世界線にちょっと悪酔いしかけたりもした。作品を愛しているのに、愛しているから、消費する人って、こんなにいたんだ……というのが、最近のヲタク的辛いポイントです……。
(一応言っておくと、私は私と違うスタンスで作品を楽しむ人を糾弾するつもりは一切ないし、そんな権利もありはしないと知っている。ただ、ちょっとこう……温度差が……。)

『共有結晶 Vol.4』を読んで良かったのは、まずこの座談会のメンバーが、創作者としてもヲタク(と皆さん自称している訳ではないけれど、推しがいる、BLに親しむ、そういう人々を「ヲタク」と言っても良いかな? と思ったので使います。問題があったら教えて下さい)としても非常に強固な信念があり、それに従って生きよう、活動しようとしていると感じられたことだ。
そしてその上で、そういう人も消費を楽しむんだ、と知る事が出来た。そういう人も、「萌え」を楽しめるんだ……。

私は心の何処かでずっと、消費に流れるヲタクは「好きなもの・好きな事」に対する信念がないのだと思っていた。あるいは「作るもの・作る事」への信念が。けれどこの座談会のメンバーは違って、それらがあるのだけれど、でも同時に「萌え」も楽しめている。
だからどうという事ではないのだけれど、その両立は為し得るもので、ただ私は私自身の性格なのか何なのか、何かそういう「個人的な理由」によって両立出来ないんだなあ、と理解出来た。それが凄く嬉しかった。この世のヲタクをうっすら呪い続けなくて良くなった気がする。温度差にう゛っ!となりつつ、温度差のせいにだけすれば良いのだ。

私のこのもやもやを読むと、「いや、萌えても良いんだよ、それを自分に許してあげて良いんだよ」「表象と人間を混同しなくて良いんだよ」と言いたくなる人がいるかもしれないのだけれど、かなり余計なお世話です、という気持ちが強い。
私が消費の片棒を担ぎたくないのは、この作品やキャラの消費以外にも様々な事柄に対して発される根の深い(そして多分にパーソナルな)事柄なのだ。私はこういう狷介な私が好きなので、私の人格改造を求めないで欲しい。
表象と人間を混同しているのではない。表象を人間として扱う約束事の世界から、私が出たくない、私はその世界の中で生きていたい、と自ら選択しているという事なのだ。外にまた別の世界がある事を私は知っている。時にはその世界の境界をまたいだり、出入りしたりする事もある。でも一番好きな、宝石箱の中に収めておきたいような、毎日崇めていたいような、そういう作品と登場人物に対しては、私は消費をしたくないよ。

(2020年2月21日)

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