『無明長夜』あとがきに代えて――阿選と不条理文学

今日の十二花脣の大陸、当スペースに来て下さった皆様ありがとうございました。
二次創作同人誌って初めてだったのと、ティアや文フリの様なスローペース?な一時創作畑に慣れていたので、部数やら売れるペースやらが違いすぎて始終わたわたしておりました……。

差し入れもありがとうございます、美味しく頂きます!

はてさて、本を無事ヲタクの世界に送り出すことが出来ましたので、少し「補足しておきたいなあ」と思った事を書こうと思います。
あとがきを書くのは苦手なので書かないのですが(ヲタクの繰り言になるだけな気がして)、今回は二次創作という以外にも他人の褌で相撲を取った処も大いにありますので……(読んだ方は多分分かると思います)。

以降、同人誌のちょっとしたネタバレになりますので、『無明長夜』読後にお読み下さい。

(以下、引用は岩切正一郎訳『カリギュラ』2008年・早川書房、柳沢文昭訳『対訳 「異邦人」』2012年・第三書房 より)

『無明長夜』巻末を見て頂ければ一目瞭然ですが、「四、流星」の章では泰麒が阿選に対して、カミュ『異邦人』のあらすじを語ります。
キャラクターにそのまんま語らせるのはどうなんじゃい、と自分でも思ったのですが、泰麒が阿選に対して「貴方ってきっと今、こういう状態だよね」みたいな事を真剣に話そうとした場合に、あらすじを語らずに阿選に踏み込むのは、却って「不条理文学を読んでいないのに自然と熟知している人」みたいになって気持ち悪いなあと思っての処理でした。

泰麒が阿選に語った『異邦人』と共に、章の扉で引用したカミュ『カリギュラ』も私が阿選について考える時に頭を離れない作品です。
今回少し書きたいと思うのは、このカミュの不条理の三部作の内の二作、『異邦人』や『カリギュラ』と阿選がどんな風に関係しているかについてです。
(ちなみに、三部作の残りの一つは『シシュポスの神話』です)

まず『カリギュラ』について簡単に説明すると(ご存知の方は飛ばして下さい)、カリギュラ(愛称からカイユスとも呼ばれます)という若き皇帝が、最愛の妹であるドリュジラと死別してから狂気の暴君へと変貌し、それゆえに貴族達に殺されるという物語です。この作品は戯曲である事から、基本的には会話(またはact)によって物語が進行します。

『カリギュラ』については語り尽くせぬあれこれがありますが、カイユスと不条理の関係を表すのに最も象徴的なセリフに「この世界は、そのままでは、たえられない代物だ。だからおれには月が要る」というものがあります。カイユスが渇望する「月」は不可能の象徴でもあるのですが、その様な不可能への希求を突き詰め、その希求に対して正直であろうとした結果、カイユスは暴君になるのです。
「不可能! おれはそれを世界の涯てまで探しに行った。おれ自身の果てまで」

恋人であり妹でもあるドリュジラが死に、そしてその死の悲しみやドリュジラを愛した記憶や感覚も、時の推移を前には為す術無く褪色していくという事にカイユスは絶望し、怒ります。こうしたどうしようもない世界の決まり事に対して抗うという不可能――それが「月を手に入れること」なのです。
「愛する者が一日で死ぬから人は苦しむ、と、そう人は思っているが、人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない。本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ。苦悩ですら、意味を奪われている」
「もしおれが月を手に入れていたら、もし愛だけで充分だったら、すべては変わっているだろう。この渇きをどこで癒やせばいい。」

しかし同時に、カイユスは月が手に入る訳がない事も重々承知しています。貴族で謀反の首謀者であるケレアに対しては、謀反の証拠のタブレットを目の前で燃やして謀反の遂行を促し、ラスト間近で「おまえはよく分かっている、エリコンは来てない。おれには月が手に入らない。」と独白します。

阿選という人間について考えた時、私の頭にまず浮かんだのはカイユスの事でした。
片や、最愛の人物を自分の腕の中から捥ぎ取り、しかもその悲しみすら薄れさせる世界に抗う皇帝。
片や、好敵手の二番手に甘んじる運命を授け、その恥を雪ぐ機会すら奪う世界の摂理に抗う偽王。
二人に共通する点として挙げられるのは、自分自身の練り上げた論理や構造に基づく世界観から、少しも外へ出ようとしない点です。それが二人を破滅へと近付けて行く。

これに対し、『異邦人』の主人公ムルソーは同じ不条理への抵抗を見せる人物でも、少々色合いが異なります。
彼は基本的に世界に対して肯定的で、彼が抵抗を覚えるのは寧ろ人間社会のきまりごと、そして人間社会が代表する顔の無い主体性――「メカニズム」と呼ばれるものに対してです。死刑執行を決めたのは「誰」なのか、死刑を本当に執行するのは「誰」なのか――そうした主体を巧妙に曖昧にし、個人が責任を負う事、行為者として顔を持つ事を拒む社会の仕組みを、ムルソーは欺瞞と感じて反発しました。そしてまた同様に、彼には「母親の葬式に出たら泣く」「葬式の次の日はガールフレンドとデートはしない」「殺人を犯してしまったら、殺しても仕方が無いと思われるような理由を述べる」といった人間社会の「守った方が無難な」決まり事が分からないのです。

ムルソーとカリギュラは、世界と人間に対して、正反対だけれど非常に似通った事を考えます。
「カリギュラ! おまえも、おまえにも罪がある。そうだろう、人より多いか、少ないか! それだけの違いだ。だが、裁判官のいないこの世で、だれがあえておれを裁く? 誰もかれもが罪人の世界で。」
「かれは分かっているのか、いったい自分で分かっているのか? 特権はだれにでも与えられている。特権を与えられた者しかいない。他の連中もいつか死刑を宣告される。彼が殺人で告発され、母親の葬儀で涙を見せなかったがゆえに処刑されようが、それがいったいなんだと言うのだ? サラマノの犬はその妻と同等の価値がある。あの機械人形みたいな小女だって、マソンが一緒になったパリ生まれの女や、ぼくと結婚したいと言ったマリー同様、有罪だ。レーモンがセレストみたいなよくできた人間と並んでぼくの友人だからと言って、それがどうした?きょうマリーが新たなムルソーに唇を与えるとしても、それがどうした?」

私はカリギュラという人が臣下に謀殺されたのに対し、ムルソーが死刑囚でありながら死刑執行を描かれず、「初めて世界の優しい無関心に我が身を開いた」「幸福であった」と感じるところで終わる、という対比について多くの事を思います。
ムルソーにとって人間社会という不気味な世界は「自分がその一員である」と感じられない世界であったのだけれど、逆にもっと大きな世界……この世全てといったものの中では、自分は居場所のある存在だと感じられていたのだろうと思います。
これに対し、カリギュラはドリュジラを奪った世界それ自体が憎い。人間に死を与える世界自体が憎いとしたら、ムルソーの様な世界への肯定はあり得ない。

私は阿選に、せめて「世界に居場所がある自分だった」と感じて貰いたかったし、その可能性を潰す泰麒であって欲しくなかった。だからこそ泰麒に「世界の優しい無関心に心を開け」と言わせたのだし、最後に驍宗に「お前の情が私を生かした」と語らせました。
阿選を狩獺にしたくない……という気持ちが私の中では凄く強い。それは阿選という人にとってもやめてあげて欲しいという気持ちがあるからだし、同時にそういう殺人の先に戴の未来を思い描けないからというのもあります。

まとまらないのですが、こうした事柄を泰麒と驍宗に語って貰おうとした時、引用しない形で語らせる事が不可能だなと思ったので泰麒にあんな感じで話して貰う事になったのでした。
そして、阿選だけが突出して罪深いのではなく、阿選に対して他の様々な人にも罪がある、若しくは麒麟だけが罪の無い存在なのではなく、泰麒にも罪がある、という事を書きたかった。それを書く事で、世界の中にあって「等し並」に差し出されたものを受け取るしかない全ての存在として、麒麟と人間とを対置せずに書きたかったのです。

『異邦人』についてはこのWordPressに読書感想文の種みたいな記事を投下していますが、『カリギュラ』に関しては抱えている感情がデカすぎて上手く書けない……。いつか感想文的なものを書きます。

何かこれ全然読み物としてまとまってないし面白くないのですけど、書きたい事は多少書けたのでこれにて〆。ありがとうございました。

(2020年2月9日)

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