阿選についてあれこれと

ふせったーのここに書いた事とやや被りますが、阿選のことをあれこれ考えていて。特に、阿選の内側で起こったことについて。

琅燦は、阿選が謀反を起こした理由について「嫉妬」を挙げる。逆に泰麒は明確に「嫉妬は論外だ」とする。阿選自身は驍宗に嫉妬している自覚はないものの、嫉妬ではないと言い切れる気もしていない。

『白銀の墟 玄の月』第三巻P.65 「全ては阿選の勝手な思い込みで、驍宗は阿選と競う気など毛頭なかったのかも。 身の置き所がないほどの羞恥を感じた。屈辱感、自己に対する嫌悪と怒り。 ――驍宗に対する憎悪が生まれた瞬間だった。」

同P.235 「かつて――阿選がどう足掻いても驍宗に成り代わることはできない、と琅燦に断言されたあの運命の日、阿選が感じたのは絶対に嫉妬などではなかった。 ――強いて言うなら暗黒だ。 ずっと紛い物と呼ばれるのだ、という絶望と、それを決して乗り越えることはできないのだという虚無感。」

私の見立てだけれども、琅燦という人は非常に頭の回転が速く、また頭脳明晰、切れ味の鋭い人物として描かれている。理知的なものが考えの主部を担っており、情感の理解という点では今一つ興味を示さなかったり、またそれらしい結論を急ぐようなところがある……という人物に思う。
阿選についても、「嫉妬」という結論をさっさと出して、それ以上阿選の内面に関心を払わない。阿選の心の襞に特に興味を向けないのだ。

逆に、泰麒は阿選が「何故」王位の簒奪を目論んだのか、その心情的な理由にかなり関心を示す。というより、それを何より知りたがっている節がある。泰麒が麒麟だからというのもあるだろうし、単純に彼の人生において、阿選の背信へのクエスチョンマークが大きな壁となっていた、というのもあるだろう。しかしそれ以上に、泰麒はそもそもの事の始まりを知りたがっている――その事によって阿選との間に何かしらの橋を架けられないか、と考えていると読める。
これは「落照の獄」で克明に描かれている事だけれど、罪のある者に対し、罪を犯した理由……心情的な理由を知りたいという態度でもって臨むというのは、則ち「赦し」を前提とした行為なのだろうと思う。
阿選は、恐らくその事を直感している。それゆえに泰麒に対して直接的な回答を避ける。

阿選は、一人の他者としての驍宗を憎んでいるのではないだろう。いや、憎んでいるのかもしれないが、だとしてもそれは彼の感情の変遷のかなり枝葉末節、原因と結果で言えば結果の方で現れたものであって、彼に根差すそもそもの処のものではない。
阿選は驍宗と同姓、歳も近く、雰囲気も近しかった。様々な人から似ている、と言われて来た。好敵手であると自他共に認めていた。ゆえに阿選は驍宗に自分自身を投影したのだろう。「自分と同じように」有能な存在。阿選の目に映っていた驍宗は自身の似姿だった。だからこそ、どちらかがもう一方の影になる、という感覚が生まれる。

本体と影、という見立てが膨らむだけ膨らむと、他者としての驍宗(驍宗自身)と、阿選が自己投影した「像」としての驍宗が乖離するようになる。驍宗が野に下ったからだ。
阿選が感じたのは、激烈な羞恥や屈辱、自己に対する嫌悪と怒り。
驍宗という他者を、自らの枠組みでしか見られなかった己の矮小さ。その枠組みを破っていった驍宗から、逆説的に立ち現れる「枠」という己の限界。
阿選がこの時から憎み始めた対象は、驍宗ではない。自分自身だ。そしてまた、投影した相手――「像」としての驍宗、自らの「影」である。驍宗という存在は、この時から只々、阿選自身の暗部を映す鏡になっていった。

そして、驍宗が登極する。
ここで起きたことは、主客の転倒だった。阿選の世界では、ギリギリの所とはいえ、まだ阿選が主であり驍宗が影――客だった。しかしここへ来て主客は反転した。阿選が影になり、驍宗が主になる。自らの暗部を投影していた相手から、暗部をそっくり跳ね戻された。
阿選からしたら、もう堪えられないだろう。影を殺す、鏡を割る、そして主としての自分を取り戻そうと試みるのは当然だ。
普通だったら、ここで驍宗を殺して終わる。けれど驍宗は王であり、二人は同姓だった。これが更に阿選を屈折させる。

琅燦に、同姓の王が連続して登極する事はあり得ないと告げられた時、阿選の心は真っ黒になった。絶望と虚無感。永遠に主体としての自身を取り戻せないと知ってしまった。
自らを回復させる道は閉ざされた。ならば、彼に出来ることは一つしかなく、また彼の望みも一つだろう。
自己を破壊すること。そしてまた、自身をこのようにせしめた外界をも、徹底的に破壊すること。
そしてあの簒奪があり、荒廃がある。

阿選の心は分裂している。麾下に思いを馳せ、不憫に思う彼。泰麒に残酷に振る舞い、佞臣を利用し、また利用される彼。
阿選は根源的には、驍宗が憎いのではない。自らを憎み、呪い、絶望しているのだ。だからこそ、破壊しようとする。憎むべき、呪うべき我が身を。ゆえに自らを貶める。烏衡を使い、案作に耳を貸し、帰泉を死に追いやり、恵棟を弄ぶ。どこか能動的に、その様な醜悪な行いをする人間になっていこうとする。
しかし同時に、彼が歩んで来た道の先に彼自身がいる。過去の残り香は彼を最後まで留めようともする。それが麾下の人々への心情に滲む。

阿選が無意識に最も望んでいるのは、この分裂――引き裂かれること――の痛みそのものなのではないかと思う。だから自らを貶め、汚し、破壊する。驍宗とその治世は投影先――鏡にすぎない。投影先を破壊することを通して自らを破壊しているのだ。
阿選自身が引き裂かれ、良心を殺し、その痛みを感じている間は、最も見たくないものを見ずに済むし、最も感じたくないものを感じずに済む。それは虚無感であり、絶望であり、その淵源となった己の矮小さ、己の限界そのものなのだろう。

自らと対峙し、矮小さを呑み込み、己を赦すことが阿選には出来ない。赦す気もないが、それ以上にやり方が分からないのだ。だから赦しの気配を持つ泰麒を忌む。己の矮小さと別次元にいる李斎に拘る。
彼は赦しが怖い。赦すこと、赦されることは、己の暗部を認めるという事、引き受けるという事だからだ。

阿選は自らが捉える世界――戴国と刺し違えようとした。戴を破壊する事を通して自身を破壊していた。彼は――彼の閉塞した世界観の中では――自死することができない。影だからだ。主を殺す事でしか、死ぬこともできない存在になっていたからだ。

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今回私は、『白銀の墟 玄の月』の第三・第四巻を読んで、阿選は月渓と斡由に似ていると感じた。
斡由に似ているのは自明のことだろう。王を弑さず、王を生かすことで仙である自分が全権を永遠に手にしようとする作戦。自分の方が王よりも優れている筈だという自意識。自らが行ってきた善行は、善の為の善ではなく、ある種の名誉欲に裏打ちされているという陥穽。

月渓と似ているのは、玉座を簒奪した、せざるを得なかったという状況もだが、何より内面だろう。簒奪の相手である王を登極以前から良く知っている、知っているからこそ憎む、憎しみを抱く事そのものに何かの苦しさを抱えている、という複雑さ。そしてまた、自らを赦せないという点。
自らを高めようという道を歩む者だからこそ陥る心理に、私は非常に悲しいものを感じる。阿選が踏みとどまれるとしたら、それはいつ、どこだったのだろう。それをどうしても考える。

阿選自身も考えているではないか。李斎に「もっと早くに会ってみたかった」と。

(2019年11月10日)

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