『琅琊榜』を見て、中国のエンタメ事情を考えた

中国ドラマの『琅琊榜』をAmazonプライムで見ました。いや~長かった…。途中で挫折して放置していたのだけど、一念発起して完走しました。

中国(語)ドラマの定番全部盛りみたいなところがあって、後宮の陰謀劇あり、お世継ぎ問題あり、朝廷の派閥争いあり、「私は養子だったのか!?」あり、復讐劇あり、ワイヤーアクションあり、不思議な薬と病あり、ラブロマンスあり、その他諸々全部揃っていた……ね!という感じです。

親世代・子世代に跨る重厚な人間劇のウェイトが高く、復讐譚としても非常に面白かったのですが、もやもやする部分もあり、しっかり言語化しておきたいなあという気持ちにもなったので書きました。

以下『琅琊榜』のネタバレがあります。

私が中国のドラマや小説をリサーチする度、疑問に感じていたことが一つある。それは何かというと、「どうしてこんなにも仮想歴史ものが多いの?」ということだ。
『琅琊榜』も六朝時代の梁がモデルとはいえ、皇帝も周辺国も、余り詳しく出ては来ないけれど地理的な情報も架空のものである。他にも、話題になった『陳情令』(原作は『魔道祖師』)なども、実際の中国の歴史的な地名を使っているけれど、完全に架空の歴史を扱っている。
(他にも、ちょっと検索するだけで架空・仮想の歴史ものは本当に大量に見つかるので、気になる方は調べてみて欲しい)

日本の時代小説なんかは、「舞台となる時代は歴史的なものを設定し、登場人物のみを架空のものにする」訳だけれど、それとは違って、地理的な情報や国名・王朝名、政治的・社会的なエピソードなど、全てが架空なのが中国エンタメの特徴だろう。

例えば『琅琊榜』であれば、王朝名は梁、皇族の氏は蕭で、これだけだと南朝の梁を想起させるが、物語内の当代の皇帝は蕭選で架空の人物だし、ファミリー全体も架空の人物で固められている。
地名の中に雲南が出て来たり、周辺地域の国名に「北燕」「大渝」が登場する辺りは、梁が中国の長江流域を支配圏とする王朝であることを連想させるけれど、この周辺国名も全て「ああ、あの辺りがモデルなのかな」と思わせる効果を持つ架空の国名・王朝名である(「北燕」は五胡十六国時代に実在した国名だが、梁と同時期に存在していない筈)。
(便宜上「国」という言葉を使っていますが、もちろん近代国家や国民国家を指すものではありません。念の為)

こうした、中国史上実在した王朝をモデルにしていると匂わせながら、あくまで架空を貫く作品がどうして多いのか?というのが疑問だったのだ。
mastodonでそんな事をトゥートしたところ、相互フォローの方から以下の記事を教えていただいた。

あれもこれも放送禁止! 中国のテレビ制作ガイドライン
20218/8閲覧)

この記事をみるに、中国の「テレビドラマのコンテンツ管理規定」には歴史的なエピソードを物語としてアレンジする際の障害になりそうなものがかなり多い。
特に、以下は歴史を物語として語り直す事を大きく拒むものだろう。

・歴史上の重要人物を中傷すること、または実在する人物のイメージや評判を傷つけること。もしくは社会にマイナスの影響を与えること。
・歴史的人物または歴史的出来事についての既成概念を「書き換え」ようと試みること。もしくは、物議を醸している歴史的人物または歴史的出来事について「修正」しようと試みること。
・古典文学を書き換えたり、原作の持つ倫理観を歪曲すること。
・歴史書や歴史的事実を否定すること。もしくは意図的に歴史を歪曲すること。

古典文学の書き換えや、歴史的出来事についての既成概念の書き換えへの挑戦など、例えば日本やヨーロッパ、アメリカの歴史ドラマであれば常套手段であるように思う。大河ドラマで何度も同じ時代やテーマで放送可能なのも、正に「歴史的な事象の解釈」「特定の歴史的人物の描き方」が何通りも存在し得るからこそである。その過程で、例えば名君と言われる帝王を貶める描写も出現する可能性があるし、「歴史的事実」とやらを歪める可能性もあるだろう。
(簡単に歴史的事実と言うけれど、事実かどうかは誰も分からない事柄も多い。現代に残った文献にそういう記載があるだけだよね、というつっこみもある)。

これだけ歴史的なエピソードや人物を描くことに制限があると、確かに「歴史ドラマの雰囲気」を提供する際に架空の世界や人物を設定するのも頷ける話である。というかむしろ、良く思いついたな……という気持ちにすらなる。

Mastodonで私にこの記事を教えて下さった方も言っていたことだが、中国ドラマの俳優さんは非常に演技の水準が高いし(日本の俳優さんも見習ってくれ~)、中国経済が好調であることも関係して、資金面も非常に潤沢であることが窺える。
それだけに、このエンタメ作品全体を縛る規制にはがっかりさせられる。これによって自由に作品を作れないというだけでなく、一見歴史を守ろうとしているこの規制が、結局は「歴史や古典に基づいた作品」と「仮想世界を描く作品」の双方を貶めているように思えてならないからだ。
新しい解釈を許容しない歴史や古典というのは、次第にその命脈を削がれる運命にある事は明らかだし(カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』の中で「古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である」と言っている/須賀敦子訳)、歴史を語りたい際の逃げ道として仮想世界が用いられた結果、仮想世界を舞台とした物語の質が絶対的に低下しているからだ。

逃げ道としての仮想世界は、中国のフィクションにはありふれている。『琅琊榜』は勿論のこと、先程挙げた『魔道祖師』もそうだし、例えば日本でもヒットしている『羅小黒戦記』やそのスピンオフ作品である『藍渓鎮』もそうだ。実在の固有名詞を避けつつ、それらを想起させるような地名・人名・設定を配置する。その様な手法で視聴者や読者に「本物と限りなく近いものを用意しましたよ」というようなメッセージを発していると言える。

結局、それは作品全体を覆う世界観が「代替」であることを強烈に主張する結果になる。『琅琊榜』の梁は六朝の梁を匂わせることによって、いかにも不格好な架空世界の架空王朝になっている。六朝時代をモデルにしているのに印刷物が存在し、床に座るけれど靴を脱いでいるのかいないのかが分からない建築物に住んでいる。『羅小黒戦記』の舞台は現代中国に近似した世界だが、「現実の現代中国と殆ど同じ」世界を作ることで、却って「この国で産業革命が起きたきっかけは何なの?」という疑問を(私に)抱かせる。スピンオフの『藍渓鎮』では同じ世界の昔の時代が描かれるが、簡体字が用いられ、文章の筆記法が左からなのか右からなのかが混在しており、作品の舞台となる言語圏・地域が、歴史的にどのような文化を有していたのかについて粗雑な描写が目立つ。
「それらしさ」さえあれば良い、という発想に基づいて作られた仮想世界は、結果として仮想世界として多くの問題を抱えるし、それは視聴者や読者に容易に伝わる。

仮想世界を描く際の杜撰さの責任は、作者や製作チームに帰すべきだろうとずっと思ってきた。しかし今回、中国の放送規制について学んで、仮想世界を描くことは規制に引っ掛からない為の対策なのだと知って、鈍く胸が痛む。
私達日本社会の人間が中国のエンタメ作品、もしくは他のエンターテイメントに規制を設けている地域の作品を見る時、それを「面白い」と思って消費する時、それはただ面白いという評価で良いのだろうか……と考える。
『琅琊榜』は面白かった。面白かったけれど、その面白さは、もしかしたら別の形で表出されるべき面白さだったのではないのか?あの胸を打つ言葉の数々、復讐や名誉回復や、過去への悔恨や愛惜の言葉の数々は、もしかしたら別の物語の中で語られる筈だったものではないのか?

権力がエンターテイメントや芸術に規制をかけたところで、名作は必ず生まれる――そのことは、それこそ中国史も日本史も、またその他多くの歴史も証明するところだろう。
だが権力による規制を掻い潜って世に放たれた言葉は、その場所、その形ではなくて、もっと相応しい場所、もっと相応しい形があった筈のものではないのか?という疑問が頭を離れない。

『陳情令』のヒットにあたり、中国における同性愛表現の規制が話題になった時期がある。詳しくないが、原作『魔道祖師』の作者である墨香銅臭が逮捕されたという情報もあった。
例えば歴史を語り直すこと、同性愛を語ることが、極めて政治的で社会的なことなのだ――ということを理解している点からも、中国共産党は(それこそ日本の政府などよりも)言論や表現が持つパワーを熟知していると言えるのだろう。そうした権力に対して市民が対抗するのは、大変だろうことは想像に難くない(香港のことなどを思い出しながら)。
歴史の代わりに仮想世界を用いたり、恋愛感情の代わりに強い友情(あるいは所謂「巨大感情」)を用いたりすることは、規制が現に存在する社会で作品を作るに当たっては、現実的に必要な手段なのは確かだろう。しかしそれによって作られた作品の歪さや瑕疵にどう対するべきなのか、私は答えをまだ持てていない。作者が責めを負うものではないだろうと思うが、規制と戦いながら作られた中国の作品に瑕疵がないと言うのもおかしいと感じる。

そんな割り切れない思いが、中国のエンタメに触れれば触れるだけ、膨張していく。
確かに面白い。確かに心を動かされた。でも……。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です