遙か7をプレイしています

遙か7をプレイしています。これを書いている時点では、兼続・大和・阿国ルートを開封済み。
ちょっと余りにこのゲーム、色々な事を語らねばならない(義務感)。名作なのだけど、単に名作ってだけじゃなくて、中学生の頃から好きなコーエーという会社の出している歴史ゲーム、そしてネオロマンスというものに対して改めて色々考えさせられる作品だなと感じています。

具体的に言うと、『戦国無双2』をヲタクの一里塚と思っている人間にとって、遙か7はこの上なく嬉しい要素に溢れ、同時に地獄のような悲しみ渦巻くゲームになっているのです。死んだよ僕は……。

以下ネタバレありつつ語っています(あんまりルートの感想って感じではないです)。

まず、私がそもそも今回Twitterの2つのアカウントでどうしてこんなにも遙か7について「情緒がぐちゃぐちゃになる」などと喚いているのか。その理由は殆ど「『戦国無双2』がフラッシュバックする」に収斂されるのではないかと思います。八葉に、所謂「義トリオ」の内2人が入っているし、三成は最重要脇役だし、しかも兼続はCv.竹本です(このCvのズレだけでも情緒乱れません?)。
こういうぱっと見で分かる条件に加えて、遙かシリーズで戦国時代ってことは、要するに歴史改変の誘惑を喉元に突きつけられ、それをするとかしないとかでプレイヤーの精神がごりごりと削れていく事が明らかじゃないですか。もうこれ、三成が死ぬとか幸村が死ぬとかっていう深淵を見詰めなきゃいけないって事ですよね。つら……。

そんな状態だったので、開封順序を考えていた時も理性を失っており、無双2が脳裏にちらつきすぎてダメです!直江から開封!!!っていう感じでぐちゃぐちゃの情緒に正直な選択をしました()
結果的には三成と兼続の熱い友情と辛い別れと、史料に見える三成の最期とも違う最高に悲しくて胸糞悪い死に様(褒めてる)も拝む事が出来ました。最高に辛いです。ありがとうございます。

こっぱずかしい自分のヲタクヒストリー語りになりますが、中学2年生の頃に『戦国無双2』にはまって、特に義トリオの関係性ヲタクみたいな事をしていました。私は現在自分を歴ヲタではない(そう自称しようとは思わない)と思っていますが、かつて私は歴ヲタだったし、そういうヲタクロードを選択した理由はやはり無双2を遊んだことにあるのですよね。
義トリオの関係性ヲタクって書いたのですが、推しを一人選べと言われればやはり三成でした。なので、兼続ルートをもってしても三成が生存し得ないという遙か7の展開にめっちゃ辛い気持ちになっているし、コーエーとルビーパーティーが遙か7では安易な歴史改変を許さない態度でシナリオを書いているのかなと感じられて、嬉しいと共に激しくしんどいです……。

何を書くべきか考えがまとまらないのだけれど、結局私はコーエーとルビーパーティーが提示する、この「戦乱の時代に育った三人が、友情を結びながらも時勢に飲み込まれ、何かしらの形で引き裂かれてゆく。そしてだからこそ友情と、友情のシンボルである義を標榜し続ける」というナラティヴが好きなのだと思います。
私は日本史中世史、近世史に暗い人間ですが、戦国時代の一次史料からは、「関ヶ原の戦いの前後に石田三成と東北の上杉軍(直江兼続)が連携して動いた」という証拠は見付かっていないようですし、また「石田三成、直江兼続、真田幸村の三人は個人的な親交があった」という一次史料も存在しません。これらは江戸期の逸話集などの複数の二次資料から、戦国無双2の制作チームが作り出した新たなナラティヴであって、それ以上でもそれ以下でもありません。言うなれば歴史の上に築かれたフィクションなのです。

けれど同時に、歴史というものは常にどうしようもなく「フィクションを孕んだナラティヴ」であり、それを完全に脱することは出来ないでしょう。歴史とは「語られる」ものであり、語り手がいる以上、そこにはどうしても解釈が発生し、共感や反発といった感情が籠められ、語られる人の性別や年齢や、地位、場や時代によるバイアスがかかります。常に歴史はその様な中で語られ、書き留められて、未来へとパスされ続けます。
こうしたナラティヴに潜むフィクションやバイアスを取り除き、なるべく歴史的な事実に近付く、もしくはより公正なナラティヴを紡ぎ直すのが歴史学の務めでしょうが、実証的な学問の世界から離れて歴史を語る場合には、物語の受け手が気に入るのであれば、これらのナラティヴに身を委ねて良いのだ……と私は思います。私はコーエー内の創作集団が作り出したこのナラティヴがずっと好きでしたし、今回もその良さにまた魅了されています。

そして「もう一度このナラティヴに出会えた」ということは、コーエーがこのナラティヴを忘れていなかった、そしてこのナラティヴに何かしらの自信を持っているのだという証でもあると思うのです。
私はエンターテイメントの世界にあって、消費されるためだけに生産される、あらゆるキャラクターやナラティヴを好みません(その結果非常に面倒くさいヲタクになってしまっているんですけれども)。今回、コーエーとルビーパーティーが提示した物語は、遙かシリーズとは異なるゲーム作品でも一度用いられたものでした。何度使っても消費し尽くされない強度のあるナラティヴであり、またそのことを制作サイドが信じているのだという事、それがとても嬉しいのです。エンタメやサブカルチャーの世界、物語と表象が濫費され蕩尽される世界にあって、特にキャラクターではなくナラティヴが生き延びているという事が本当に嬉しい。

遙かシリーズは、考えてみれば歴史上の敗者や弱者について思いを巡らせる作品群であり続けて来たのではないかと思います。1と2では鬼という架空の被差別民を描き、3では平家の落日や、義経を初めとした「いずれ滅んでゆく人々」の人生を描き、4は主人公が帰属する共同体が異国の軍勢に負けかけているというところから物語が始まります(あ、すみません私の中で5と6は遙かシリーズじゃないので……6は未プレイですが)。7でも、歴史的には敗者となることが決定している「西軍」の人々にかなりの紙幅を割いています。
これは戦国無双2でも同じで、様々なキャラクターを描いてはいるのだけれど、明智光秀、浅井長政、石田三成など、歴史の上では敗者になってしまった人物の人生と物語を描く事に力を入れているのは疑いない……と私は感じています(これは異論があるかもしれませんが)。
判官贔屓という言葉がありますが、こうした敗者を哀惜して彼等に肩入れする語りというのは、戦乱の時代を後世の人が物語る際の一つの典型なのでしょう。司馬遷にせよ、信濃前司行長とされる『平家物語』の作者にせよ、滅んでゆく者を哀惜せずにはいられませんでした。そしてまた、その哀惜の涙を含んだ語り方を彼等は恐らく自覚しており、またそれが「良い」語りであるという確信を持っていました。
遙か7の語りもそうした語りなのではないかな、と私は感じています。歴史エンタメを編む際に、それぞれの人物をどのようなキャラクターとして造形し、どのような語り口で物語を紡ぐか。これについて、制作陣は敗者に肩入れする語りを自覚的に選び、またそれが「良い」語りだという確信を持っているのだとプレイしていて感じます。石田三成、真田幸村、明智光慶、平島公方家の出自と思われる平島義近など、歴史の敗者への哀惜を感じる点は枚挙に暇がありません。

また、今回遙か7をプレイしていて思うのは、歴史改変的なストーリーの少なさです。私はてっきり、兼続ルートや幸村ルートなら西軍が勝つルートになるのかなあと思っていたのですね。ところがどうやらそうはならないみたいなので(幸村ルートは未開封なのですが、幸村の人生を歪めることをコーエーとルビーパーティーはしないだろうなという確信があるので……)、敗者を哀惜するが、いたずらに生かして歴史を冒瀆したりはしない、という態度を貫いているんだなあと改めて頭が下がります(追記:五月ルート見ましたが、あれも歴史改変がかなり抑制されているなあという印象でした。遙か3の義経ルートとか弁慶ルートと比べると分かりやすいのではないかと思います)。
キャラクターという表象を、実際に過去に存在した歴史的な人物に重ね合わせて編み出す際に、その死さえも尊重できる態度というのは、やはり創作者の態度として立派というか、欲望の手綱捌きが見事というか、こういう言い方も何ですが讃えられるべき事なのではないかなあ。私はそんな風に思います。

このような物語と人間とを、確信をもって描出してくれたコーエーとルビーパーティーの方々、本当にありがとう。私が中学生の頃に好きになったものは無駄じゃなかった、私が好きになったものは、私にとって今でも、これからも、大事なものであり続けて良いんだと思えました。本当に、遙か7を遊べて嬉しいです。

 

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