遙か7プレイしました

大団円ルート以外は全て見ました。案の定幸村ルートに死にそうになっています……。
何から書いたら良いものか迷っているのですが、とりあえず幸村ルートの感想を書きました。

何から書いていくのが良いのか分からないが、ひとまず幸村の人生とは一体どの様なものであったのかを辿ってみたい。
遙か7の幸村について一言でまとめるなら、「人生における『幸せ』を、命を手放した先に設定してしまった人」という事になるのではないかと思う。
彼は作中で五月に対して、七緒の決意を次の様に語っている。
「姫の心が感じる幸せが大事だ 姫の思うままに生きたらいい 俺たちが決意を捻じ曲げてしまったら あの方は一生後悔するだろう 悲しい顔はさせたくない あの方の幸せが、思い定めた道を貫いた先にしかないのなら――俺はお守りするだけだ」<日の本一の兵>

これは幸村が七緒の生き方に共感したからこそ出た言葉であり、正にこの言葉の通り七緒も彼自身も生きる事になる。彼もまた「幸せが、思い定めた道の先にしかない」人間なのだ。

幸村が「幸せ」という言葉を用いている場面はもう一つある。
「…私はきっと、幸せに慣れていないのです 願いが叶うことなど 今までになかったから だからこそ、叶わぬ理想を追うことに己を追い詰めていたのかもしない」<永遠の神域>

幸村は決して自己や自己の人生に対しての肯定感が低い人間ではないが、同時に何処か超然とした眼差しで人生を見据え、「自分は幸せではない」と認識している。<月下に思う>のイベントの寂しげな様子などからもそれが窺える。

彼の「幸せではない」人生を、束の間彩るものは何であったか。それは一つには家族の存在であり、もう一つは友人の存在だったと言って良いだろう。
「ずっと故郷を離れていた分、これから先は家族と共に静かに暮らしていければと、願ってしまうのです」<月下に思う>
「人質に出されず、ずっと上田に留まることができなら…とひがまなかったわけじゃない だが、三成や兼続殿と友になれたのだ 今にして思えば、幸せだった」<古い朋輩の宴>

彼にとって、家族と友人は人生に欠くことの出来ない幸せの証だった。そしてその友人である三成から、言われるのだ。「俺に万が一のことがあればおふたりをお前に託したい」<一方その頃幸村は>と。

友人が自らの人生に欠くことの出来ない存在であるが為に、幸村は三成と約束を交わした。そしてそれ以降の彼の人生は、三成との誓いに背かない事へと費やされてゆく。何故なら、その誓いを果たす事の先にしか「幸せ」が無いからだ。友人を裏切る先には、幸せの色彩が失われた人生しか存在しない。もう一方の「幸せの証」たる家族は、正にこの友情――「義」に生きようとする弟と、時代を生き抜く事に腐心する兄との間で引き裂かれ、バラバラになってしまった。ならば尚更、彼はもう友人との誓いを守る事の先にある「幸せ」へと向かって行くしかない。

七緒と彼が親しくなる必然があったのだとしたら、それは家族への愛情や愛惜、そして他者の為に己を擲つという信念があるからではないか。前者は<今だけは涙を>のイベントで、信忠の怨霊封印に心を痛めた七緒を慰める幸村から、後者は先程引用した<日の本一の兵>の発言から窺う事が出来る。

幸村は自らの信じる「義」を「家族を泣かせず 友をあざむかず 主君を裏切らず 一度誓ったことを違えてはならぬ」<真田兄弟>事であると述べる。具体的な中身は違えど、この様な徹底した利他的な信念の共鳴が、幸村と七緒を「運命の相手」たらしめているのだろうと思う。
幸村は友情の為に生きて死に、七緒は日の本の人々を救う為に人としては死んだ。「幸せが、思い定めた道の先にしかない」という点において、似たもの同士のカップルなのである。

友情なんて信じて何になるのだ、生きてこその物種だ、と彼の人生に向かって言う事は容易い。事実、兄の信之は弟に向かって真っ向からそれを主張する。幸村はそれを言葉によって――論理によって説得する事が出来ない。ただ、兄の決断を尊重して袂を分かつしかない。
けれど幸村にとって、友情は「信じて何になるのだ」という様なものではなかった。もっと切実なものだった。「信じることで役立つ」「信じることで人生が良くなる」のではなく、「信じなければ、幸せを永遠に失う」ものなのである。友情があれば人生がより良くなるのではなく、友情がなければ人生の意義も殆ど失われてしまう、そういう性質のものなのだ。

彼は幸せではなかった。自分でそれを良く理解しており、だからこそ友情に永遠を見たし、恋する相手に永遠を見た。彼とて、本当に「義」なるものを貫いた果てに「生存」があると思ってはいなかっただろう。思っていたとしたら、七緒の思いを尊重して離別を受け入れるなどという事は出来なかった筈だ。彼は自らの不幸せな人生を微かに彩った花々を守る為に、途方もないものを擲った。何故ならその先にしか確かな「幸せ」が無いからだし、その先に行かなくては不確かな「幸せ」の花々すら、灰燼に帰してしまうからだ。そうやって生きる事で、永遠を見据えたその先に、しかと幸せを見た。私が感動するのは、恐らく彼のその透徹した眼差しにだ。彼自身の人生や運命をある意味で「既に予定された事」「完了された事」として見据える、悲しい眼差しになのだ。

話は変わるが、小林秀雄「無常という事」に以下のような記述がある。幸村についてあれやこれやと考えていた際、ふと「歴史」を下敷きに一人の人間の人生を物語るとはどの様な事なのだろう、と思ってこの文章を思い出した。

確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事はわからない。わからぬ許りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落に過ぎないかも知れない。僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形でしか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。

上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』より「無常という事」2013年新潮社)
(初出『文學界』昭和十七年六月号)

上記に見える「思い出す」という事。動物として変化し続ける生きた人間ではなく、生き終えた死者の、硬質で美しい人生を内から知る事。「飴の様に延びた」連続的な時間ではなく、人生という、主体としての一回きりの時間を生き、終えていった人を、後世の人間が理解する事。

単なる連想であり思いつきに過ぎないけれど、遙か7の幸村が自分自身への人生に向ける眼差しは、この「思い出す」という事に限りなく近い、と私は思う。小林の述べる「思い出す」とは「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」を想起する事である。幸村は一度たりとも、自らの不幸を嘆いたり、人生に絶望したりする事はなかった。それが不幸せなものであると重々承知していながら。それは既に完了された一つの過去――硬質で最早変化するだけの柔らかさを失っている時間――を振り返る視点だ。人生にああなって欲しい、こうなって欲しいと求めたり足掻いたりするのとは真逆の視点だ。人生を生きながら、複眼によって人生を未来から見据える。それによって不幸を相対化すると共に、不幸な道行きを是とする。それは人生の只中という視座から、未来――死という終着点という視座への移行の道程である。彼は不幸を知りながら、ちっとも不幸に溺れていない。それは不幸の終点を知っているからであり、人生の終点を知っているからなのではないか。
変化し続ける動物としての自分ではなく、硬質な死者として自分を見る。自分の人生を、自分の死後の時代を生きる人間が「思い出す」様にして見る――それが出来るから、迷う事なく友情の為に生きて、死んでゆける。神の花婿になれる。永遠を手にする事が出来る。

小林秀雄の言う「常なるもの」とは要するに、永遠なるもの、永遠に値するようなものの事だ。その人が人生を生きる上で、単なる動物である事から救われるようなもの、無常や不変に埋没する事を免れる、「ただ生きる」事の上位に位置する何物かの事である。
幸村はそれを「義」だと言った。それを貫いて死に、永遠に到達した。神に納れられて、そこで幸せを得た。それはただ歴史的事実を眺める視点――「飴の様に延びた時間」という唯物論的な発想からは生まれ得ないものだ。彼は歴史を生きたのではなく人生を生きたし、人生の果てに幸いを見出した。

私が『戦国無双2』に夢中だった頃、三成・幸村・兼続の言う「義」とは、空っぽの器なのだなと思った事があった。それを仕方がない事だとも思っていた。だってこれはフィクションだし、エンタメだし、ゲームだから。それでも良かった。それでも彼らの友情が私にとっては魅力的だったし、友情を信じる人生というナラティヴが好きだった。
けれど『遙かなる時空の中で7』をプレイしたら、「義」はもう空っぽの器ではなかった。そこには人生に対する眼差しが盛られていた。生きる為の指針が盛られていた。いかに生きるか、何が善い生き方なのか……そうした考えの末にある、酷く透明な、ほんのり悲しいものが盛られていた。それ故にだろうか、物語は常に歴史のレールを大きくは踏み外さなかった。歴史をなるべく歴史の儘に留め、それを解釈する事で物語を汲み上げようとしていた。

別に、三人の友情のナラティヴを「事実」だとか「史実」だとか言っている訳ではない。これは何重の意味でもフィクションだ。けれど歴史を下敷きにしたフィクションが、歴史を、死者を尊重しようとした事、物語とは異なるにせよ、確かに存在した彼等の人生を善く「思い出そう」としたのだという事を、この友情のナラティヴは示しているだろう。私はそれを歓迎する。私はずっとそれが読みたかった。歴史を捻じ曲げる安易な恋物語の何倍も、私はそれが読みたかった。

他にも書きたい事は色々とある。生き残る者としての人生を引き受けた兼続の事、物語の外側から、ネオロマンスとは何なのかという事……。でもまずは、この物語の中から空を見上げて、ああ綺麗だな、と言いたい。私はこの物語がとても気に入ったし、特別だと思っている。ただ生きたのではなく、「善く」生きた人を、このシナリオは描いている。それを真っ正面から描いた事に、今はただ、深く感謝していたい気分なのだ。

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