『遙かなる時空の中で7』の中で語られる「義」って何なんだろう、ということについて書きました。『戦国無双2』の「義」をブラッシュアップしたものであると同時に、『遙か7』の幸村ルートをより良く解釈する為のキーワードでもあると思います。そしてまた、『遙か7』の物語が私達プレイヤーに訴えてくる一つの思想にも、深く関わってくる言葉です。
全ルート開封済みの人間が書いています。
具体的には幸村・兼続・五月ルートのネタバレががっつり出て来ます。割と幸村ルートがトゥルー、みたいな意識で書いているので、そこにもやっとする人がいるかもしれません。ごめん。
軍は今日ぞ限る。者共少もしりぞく心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、雙なき名将勇士と云へども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者共に弱気見ゆるな。いつの為に命をば惜しむべき。唯是のみぞ思ふ事
『平家物語』(壇浦合戦)
『平家物語』のクライマックス、壇ノ浦での決戦を目前にした知盛の台詞である。
何故この言葉を引用したかと言えば、『遙か7』の真田幸村が言う「義」を突き詰めていくと、結局この言葉に行き着くのではないかと思ったからだ。「名こそ惜しけれ」「いつの為に命をば惜しむべき」。修羅の巷を生きる戦乱の時代の武士達、或いは前近代の人間社会を生きる全ての人にとって、命は大層軽いものであった。病や寿命、戦乱や飢饉に晒されては消えてゆく儚いもの。それが命というものの正体であったに違いない。それゆえ露の様な命を惜しむのではなく、「名」――名声や名誉を重んじる、そうした価値観が確かに存在していた。
さて、では「名」――名声や名誉とは何だろう。命を戦乱に蕩尽してしまっても得られる名誉なのだから、それは正に死後の名声であろう。自身の死後、生者や未来の人々から褒めそやされること。英雄と言われ、名将と言われること。不利な戦況を戦い抜き、命を燃やし尽くしていった人物として物語られ、語り草にされること。人生五十年、あるいは百年の更に先の時代に、己の「名」を伝え続けるだけの輝かしい何かを手にすること。
これは正に、私達が「未来の人々」の一人として真田幸村(真田信繁)に対して行っていることそのものでもあるだろう。講談に取り上げ、小説の材とし、大河ドラマの主人公に据え、乙女ゲームの攻略キャラクターにしている近世・近代・現代の私達である。正にこれが「死後に名を残す」ことそのものだ。
ではその「名」を語る営為の一つである『遙か7』の幸村を見て、私達プレイヤーは「名を残す事を重要視して命を惜しまなかったのだ」と解釈するだろうか?――これは否、だろう。名声や名誉の為に死んだ訳じゃない! と言いたくなるのは間違いない。
彼は何の為に生き、何の為に死んだか? 作品内の言葉で言うならば、「義」の為にということになる。では、「義」とは何か?
信之「幸村、お前の言う義とはなんだ?」
幸村「――家族を泣かせず、友をあざむかず 主君を裏切らず 一度誓ったことを違えてはならぬ この道理すら守れぬのに新たな世など築けるものか!」
『遙かなる時空の中で7』<真田兄弟>
作中で幸村は以上のように「義」について説明している。だがこの内容、プレイヤーは多少首を傾げざるを得ない点がある。まず、「家族を泣かせず」。幸村の決断に兄は内心で泣いているのではないのか? だとしたらこの「家族」とは一体誰を指しているのだろう? 楽丸のことだとしたら、死んだ弟の見ることも叶わぬ涙の方が、目の前で生きている兄の涙よりも優先されるということなのか?
また、「主君を裏切らず」も今ひとつピンと来ない。何故ならば信之がこの会話の直前に以下の様に言っているからだ。
信之「武田、織田、上杉、豊臣…お家存続のため、権勢を誇る大名たちに仕えてきたのを忘れたか!」
『遙かなる時空の中で7』<真田兄弟>
幸村自身、『遙か7』の作中で太閤秀吉や秀頼に対する忠義を述べるシーンは見当たらない。ならばこの「裏切らない相手」とは一体誰のことなのだろうか。
こうした疑問を差し挟む余地のある曖昧さゆえに、幸村の表明する「義」は随分と薄っぺらい香りがしてしまう。要するに「友をあざむかず」以外は、テキトーにゲーム内のエピソードを絡めた取って付けた理由ってことなんじゃないの? そんな風にも読める。
一方で<古朋輩の宴>ではこんな会話も見られる。
兼続「徳目だけでは生きていけぬ それが戦国の世の習いだ …だが、幸村が道を外す姿だけは想像できんな」
三成「そうだ、幸村は最後まで義を曲げぬだろう こいつはそういう男だ」
幸村「ふたりとも、俺のことを買いかぶりすぎだ 俺もひとりの人間だ 迷いもすれば、過ちも犯す 義の権化などではないぞ」
三成「いいや、俺は知っている 真田幸村は最期まで義を貫くと」
『遙かなる時空の中で7』<古朋輩の宴>
この三人(直江兼続・石田三成・真田幸村)が「義」について語り、「義」の名の下に友情を育むというストーリーは実は同じくコーエーのゲームである『戦国無双2』から引き継がれたナラティヴなのだが、それはともかくとして、この会話には注目すべき点がある。それは「徳目だけでは生きてゆけぬ それが戦国の世の習い」であることと、「道を外す」ことが近似のものとして語られ、またそれに対して「義」や幸村という人物が対置されて語られている点だ。
兼続の言う「徳目だけでは生きてゆけぬ」とは、戦乱の世にあって生き残るには汚い手段も取るかもしれないし、必要とあらば味方(友人、家族など大切な人々)を裏切らざるを得ない状況もあり得る、ということだろう。ここでは正に生き残ること、則ち「命を惜しむ」ことが人生に於ける最重要項目として語られている。これは必ずしも自分一人の命を想定しての発言ではないかもしれないが(家や国といった共同体の存続・延命をも包含している可能性が高い)、だとしてもやはり、その存続の為に自分自身、もしくは主君や家族の命を惜しむということに繋がる。こうした「生き汚さ」に対置されるのが「義」であり幸村なのである。
幸村ルートで彼の信念として語られるゆえに忘れがちだが、「義」とは幸村一人が掲げる精神なのではない。これは最も信頼していた友人と三人で編んだ精神、三人で作り上げた思想なのである。
これは『戦国無双2』のセルフオマージュとして『遙か7』の物語を俯瞰した場合にも同じ事が言える。『戦国無双2』のシナリオでは、幸村は「何の為に戦うのだろう」と戦乱の虚無の淵を覗く。虚無を抱えながら戦さに身を投じる中で出会ったのが、三成と兼続だった。彼ら、特に兼続の語る「義」という言葉と、二人との友情を道標に幸村は生きていく……。細かい部分はうろ覚えだが、大体以上の様なシナリオであったと記憶している。
戦乱の世特有の「生き汚さ」に対置されるものとしての「義」。それはある種の夢物語だ。世の中の状況、自らの立場を思えば、当然生存の為に大切な人々を犠牲にする瞬間とてあるだろう、という苦い実感の否定形として「義」は語られている。兼続の言葉に顕著だが、「そんな生き方は自分には無理だ」という実感をそれぞれに三人は抱えている。だがそれでありながらも兼続と三成は、幸村の人生が「義」に貫かれたものになるであろうことを予見し、また信じるのである。これは単に友情の成せる技というだけではなく、以下のような幸村の人物から、二人が感じた率直な思いでもあっただろう。
幸村「武名よりも一族との平穏を願う私は 武士として足らぬものがあるのかもしれません」
『遙かなる時空の中で7』<月下に思う>
幸村の言う「家族を泣かせず、友をあざむかず 主君を裏切らず 一度誓ったことを違えてはならぬ」とは、何も自分や自分の家族・友人・主君についてだけ言っている言葉ではないのだ。自分と思想・精神を共有した二人の友人の人生を思い描いて発せられた、三人全員に当てはまる言葉なのである。ゆえに「主君を裏切らず」とは三成と兼続のことであり、「誓ったことを違えてはならぬ」もまた三成のことだ。幸村はその上で「三成に託された主君を裏切らない」自分、「三成という友人と約束した」自分のこととして「義」を語るのだ。
では「家族」は? 信之と決別して、兄は確かに泣いているのではないのか?
これには一つの答えが導き出せる。人質として家族と離ればなれに過ごした過去、拭えぬ寂寥感、弟の楽丸との永訣と後悔――幸村が家族について語る時、そこには常に「悲しみ」や「寂しさ」がある。信之の「徳川方につく」という宣言は、彼にまたもその「悲しみ」「寂しさ」を感じさせるものなのである。
真田の家族は地理的な要因から、あるいは戦国大名としての脆弱性から、様々な動乱に引き裂かれてきた。幸村の家族というものへの悲哀・寂寥の念、あるいは同時に感じている家族への強い憧れは、こうした背景から生まれている。
だから、「家族を泣かせず」とは幸村が幸村に対して最も言いたいことに違いない。自分は家族を泣かせたくないし、家族を理由に泣きたくはない。家康はかつて家族を(自分を)泣かせた人間だ、だから味方をしたくない。兄に反対するのは家族を泣かせた家康に味方するからであり、同時に兄自身が家族を泣かせるきっかけを作ろうとしているからだ。
幸村「淋しさを埋めるのではなく喜びを分かち合う… そんな家族を持ちたいとずっと願ってきました ――ありがとう 私と家族になってくれて」
『遙かなる時空の中で7』<永遠の神域>
この言葉は、幸村が「義」を貫いたからこそ得られた、奇跡的な未来で語られる言葉だ。「友をあざむかず」「主君を裏切らず」「一度誓ったことを違えてはならぬ」を果たした先で、最後の最後に「家族を泣かせず」を成就させるのが幸村ルートなのである。生前の幸村は、家族の状況と時代の限界ゆえに、「家族を泣かせず」を果たせなかったと言って良い。しかしその上でなお「義」を守る為に彼は生き切り、死んだ。その様な死を迎えたからこそ、死後に七緒と結ばれ家族になるという形で、「義」を更に完全に守り切ることが出来たのである。そんな風に言うとパラドックスの様に聞こえるかもしれないが、しかし幸村は言っていたではないか。
幸村「兄上、私の意思は今も変わりません ……義を貫くことも 二つに分かれた真田のどちらも生き残る道を望むことも、やめません」
『遙かなる時空の中で7』<真田兄弟>
義を貫くことを彼はやり遂げた。その先で、「義」と両立し得ないある種の「生存」——「生き続けること」を彼は手に入れた。自身や共同体の延命を何よりも優先する「生き汚さ」が「義」の対極にあるものだとするなら(幸村ルートのラストに見える兼続は、正にその苦みを口の中に感じながら生き長らえる存在として描かれている)、「義」を何処までも貫くことで、生前の彼には果たせなかった点すら補う形で(則ち「家族を泣かせず」を達成する形で)「義」は完成され、そしてまた対置される生存すら叶えられた……。そう見るのが『遙か7』の幸村ルートの物語の、最も美しい解釈なのではないだろうか。
幸村の、あるいは三成・兼続・幸村の言う「義」とはどのような精神・思想であったか。それは「『戦国の世であるから』という理由で人々が諦めざるを得ない綺麗ごとの追求」なのだろうと思う。人が争い、殺し合う世界では到底果たせない綺麗ごと。正しさや、愛情深さや、篤実さといったもの。それらはそもそも掲げられたその時から、「アンチ戦国時代」、「彼等の眼前に広がる世界の否定」を意味している。
七緒が三人に手渡すことになったものは、どれも象徴的だ。兼続にはじゃがいもを、幸村には花の種を、三成には(不本意ながら)龍神の鱗を手渡した。「あの世界にはないもの」であり、かつ「戦い、殺し合う世界を否定するもの」を七緒は手渡しているのである(長政にふわラテを手渡したり、宗矩にスポーツドリンクを手渡しているのと比べると分かりやすいのではないだろうか)。ついでに言うならば、どのルートでも生き残る者としての業を引き受ける兼続に「命を繋ぐもの」を、忠義ゆえに世の中を変えたいと願う三成に「神の力の具現」を、ただ理想を貫こうとする幸村に「何の役にも立たないが未来の人の目を和ませるかもしれないもの」を手渡しているのも興味深い。
さて、ここで漸く話は「名」に戻る。
『平家物語』の知盛は「名こそ惜しけれ」「いつの為に命をば惜しむべき」と全軍に号令した。
「名」とは名声・名誉のことだと冒頭で述べたが、名声はともかく、名誉とは単に「良い評判」のみを意味しない。
業績を上げた(社会に尽くした)などの点で、世間の人からりっぱな人だと高い評価を受けて誇りに思うこと(様子)。
『新明解国語辞典 第七版』2014年・三省堂
名誉とは、高い評価を受けて「誇りに思うこと」の意味を含んでいる。「この賞を頂けること、名誉に思います」「名誉を傷付けられた」などと言う時の「名誉」という言葉には、他者から自分自身に向けられた名声を肯定し、引き受ける態度が窺える。
『遙か7』の幸村は自ら掲げた理想の通りに生きようとした人物であり、また実際に理想の通りに生き抜くことの出来た希有な人物でもある。「義」を掲げた三人は、目の前に広がる血みどろの世に「間違っている」と憤り、人間として行うべき正しさや、普遍的な善を追い求めた。幸村は自分一人では世を変えられないのならば、せめても自分自身の人生を正しく――「正義」に基づいたものにしたいと決意して生きたし、兼続は自分一人では世の中全てを変えられなくとも、変えられる範囲から良くしていこうと努めた。三成は自分一人では世の中を変えられないからこそ、醜悪なこの世界を善美へと変えてゆけるかもしれない人物の為に人生を捧げた。
彼らの掲げる「義」は、自分自身が生きた時代や世の中への、懐疑と失望から生まれた理想だ。目の前に広がる世界への憤り――義憤から生まれた精神だ。そこにはどうしても、「家族を泣かせず、友をあざむかず、主君を裏切らず、一度誓ったことを違えなくて済む未来になって欲しい」という祈りが含まれている。眼前に広がる世界へ失望しながらそれでも生きようとするのなら、その生には未来への願いや祈りが絶対に内在しているのだ。
戦乱の世を憂え、それを否定する様な理想を掲げて生きること。その理想を通じて未来の世界、未来の人々に祈ること。それは、自分達の理想を多くの人に理解してもらいたいと思って生きたということであり、未来の人々が理想を理解してくれる可能性に人生を託して死んだという事なのではないのか。
「名こそ惜しけれ」「いつの為に命をば惜しむべき」。その「名」を語り継いでくれるのは常に生き長らえる者であり、後の時代の人である。
「昔々、源平の合戦があってね……」と語る時、既に源平の合戦は終わっている。その時に語られる「名」の為になら命を捨てよ。『平家物語』の知盛はそう言っているのである。
結局、「名」を惜しむというのは、自らの名誉を語り、名前を語ってくれる「未来の誰か」を信じるということだ。この血みどろの時代が、この争いの時代が終わった後を生きる人に、自らの名誉と名前を託すということだ。
自らの名前を後の世の人に語り継いで貰えるということ、自らの「名」が死後名声を得るということは、自分の行いや生き様が後世の人に肯定された証だ。
ならば『遙か7』の幸村は、あの物語において確かに「名こそ惜しけれ」と思ったのである。名誉や名声を欲しがったということではない。戦乱の後の時代を生きる人に、自分の名前を覚えていてくれと願ったのだ。己の生き方と死に様を、未来から肯定して欲しいと祈ったのだ。何故なら、自分が称揚される未来が来るということは則ち戦乱の時代の「後」があるということ、自分が貫く夢物語の様な理想、綺麗ごとでしかない「義」を称揚する様な、「生き汚さ」を標榜しないで済む様な時代が確かに来るということだからだ。
――それは七緒の生きた時代のことか? そうかもしれない。七緒は動乱の時代から令和の世にやって来て、そこで十余年を過ごした。家族を泣かせないのが当たり前の世界を、彼女は確かに知っていた。
七緒「そんなことないと思います うまくは言えませんけど 幸村さんみたいな願いを持つ武士がいてもいいというか…… そういう家族思いなところが 幸村さんらしくて 素敵だと思います」
『遙かなる時空の中で7』<月下に思う>
戦乱を知らぬ未来からの瞳で幸村を見る七緒と、平穏な時代を夢見る過去からの瞳で七緒を見る幸村。二人が神域で出会う時、時空の円環は閉じ、二人は永遠になる。
たとえ「綺麗ごと」と言われ続けようとも、どんな時代でも普遍性を保てる程の絶対的な「正しさ」。幸村が求めた「義」は、きっとそういうものだったに違いない。悲しみや苦しみが果てしなく連鎖する時代の否定形。それは確かに「綺麗ごと」だ。しかし同時に不朽の価値を持つ、人類の永遠の理想だ。そんな理想を守ろうとして彼は生き、そして死んでいった。
私達プレイヤーの生きる現代社会に於いて、命は人間一人の持ち物の中で特別な地位を得ている。命には代えられない、命あっての物種だ、そういう思想のもとに私達の生きる社会は設計され、運営されている。
それは間違いではない。命の価値が露の如くに軽く扱われる時、そこには必ず戦争や動乱がある。一人の人間が自らの人生を全うすることは、何にも優先されるべき大切な事柄である。
けれど私達の命は尊重される一方で、永久に尊くあり続けられるものではない。死と共に尊さは褪色し、時の波に洗われ、忘れ去られ、閑却されてゆく。そんなどうしようもなく小さな存在だ。
私達の命は何よりも尊い。けれど、私達の命は時の流れの中にあって何よりも小さい。
『遙か7』の物語は、尊くも小さな人の命に、至上の価値を与えてはいない。遙かに続く時の流れの中には、命よりも価値あるものが確かに存在するのだと、この物語は私達に言って来る。命より価値あるものとは何か? ――永遠だ。永遠とは何か? ――美しい理想の先にだけあるものだ。
ただ生き、ただ死ぬ。それは懸命な生だが、小さな生だ。人並み外れた生き方をし、人並み外れた死に方をする。それは大きな生かもしれない。けれどそれもやはり、いつかは時の砂に埋もれてゆく。
そうした命同士の背比べの話ではない。人生同士を引き比べて、相対的な大小や軽重を推し量るといった話ではないのだ。それら全てを超えるもの、時の流れそのものを超克し得るもののことを言っているのだ。その内には普遍がなくてはならない。どの時代にあっても、朽ちることなく意義のあるもの。夢であっても構わない。誰もが真実と思い、善であると考え、美しいと感じるもの。燦然と輝く理想が具わっている生、理想をなぞる様にして燃焼し尽くされた命。そこに永遠がある。何にも増して尊ぶべき一個の命より、更に価値のあるものだ。
人一人の命よりも尊いものがある。その名前を、永遠と言う。『遙か7』の幸村ルートを貫く思想があるとするならば、それは以上の様なものだろう。
永遠の時空へ到達した一人の男を、その物語は描いた。男はただ生きて死ぬのではなく、理想を掲げて生き、理想を守って死んだ。彼は名声を求めなかった。けれど、後の時代の人々はその名を顕彰せずにはいられない。何故か。そこに理想があったからだ。ただ生きるのではなく、善く生きたから。余りにも正しく、誠実に、美しく生きたから。
「雙なき名将勇士と云へども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。」
私達がその名を語る時、彼の人生に於いて尽き果てた運命は、また息を吹き返す。そこに永遠がある。私達は、何度も何度も、その生と死を確認する。何度も何度も、語らずにはおれない。そこにある永遠が、私達をそうさせる。
――それがコーエーとルビーパーティーの用意した、真田幸村の物語なのだ。