今年の春先にTwitterで騒いでいましたが、綾辻行人の『館シリーズ』を読みました。ヲタク世界に足を踏み入れたきっかけは講談社ノベルスだった(はやみねかおる『虹北恭助シリーズ』から入って、文庫版のCLAMPの挿絵を手掛かりに田中芳樹を読むようになり、そこから小野不由美へと広がり……ってな小学五年生であった)ので、何だかこう、ホームグラウンドよただいま戻りました感に浸りながら楽しく読んでいたのです……が。
『人形館の殺人』辺りから「ん????」となり、『暗黒館の殺人』で無事目を焼かれましたとさ。あー……。
江戸川乱歩『孤島の鬼』が以前から好きだったので、『暗黒館の殺人』は二重三重にヲタク的なぱっしょんが爆発する読書になってしまいました。
以下ネタバレ交えつつ好き勝手に感想を書いてみました。(リアルタイムに書いていたんだけれど、納得いかずに書いたり消したりしていたもので)
『孤島の鬼』を初めて読んだのは高校生の時で、実は昔のブログに非常に拙い、かついい加減な感想が残っているのだけど(見ないでね)、当時から「蓑浦は酷い」という感想を抱いていた。諸戸の気持ちに明確に気付いていながら、彼の気持ちへの回答を保留し続け、利用し、最終的には彼の目の前で別の人と結ばれて行き、しかも友人関係は続けるという蓑浦の態度に(更に書き加えるなら、諸戸の臨終を含めたあらゆる一部始終を小説にしてしまう彼の発想に)、「あのさあ」と何度思ったか知れない。私は諸戸道雄に幸せになって欲しかったという気持ちが強くて、そういう意味で蓑浦金之助はその読者の願望(そして諸戸の願望)を裏切る主人公だったと言って良いと思う。
以上のような感想を持っている私が『暗黒館の殺人』を読み進めながら考えていたのは、「中也は蓑浦と違って、きっと玄児を大切にしてくれるだろう」という事だった。双方を読了済みの方なら何となく分かってくれると思う。蓑浦に婚約者がいたように(そして一目惚れした人がいたように)中也にも許嫁がいる訳だけけれど、何となく中也の玄児への態度を見ていると、それによって玄児を「友人」の枠に押し込め、良いように扱うような、そういう態度を取る人間ではなさそう……というのが読書中の感触だった。だから、きっと今度こそ、諸戸――玄児は幸せに、何かしらの形で幸せになれると何処かで思っていたし、願っていたし、信じていた。
もちろん、そんな甘い夢は破られた。だが同時に、諸戸の死に寸毫も傷ついていない(通り一遍の友人への哀傷しか持たない)蓑浦であっただろうと想像出来るのに対して、中也が玄児の死によって、そして暗黒館やダリアの宴によって人生をこの上なく歪められてしまった――敢えて言うなら「光よりも闇を愛する」人間に変容してしまった事は、玄児にある種の勝利を与えているように思う。ただ死んで蓑浦の眼前から去るだけだった諸戸道雄に比べると、浦登玄児は愛する人の人生を自分の側に――闇の側に傾かせる事に成功したし、それは彼の命と血脈を賭して行われた事だったのだ。それを思うと、悲しいけれど何かしらの納得というか、カタルシスみたいなものも感じられるのである。
しかし一方で、やっぱり「どうして二人で生きて幸せになれなかったのかなあ」という気持ちがよぎるのも事実だ。色々と解釈上気になる点はあって、ふせったーなどにも書いたのだけれど、矢張り一番は「玄児の方から中也の手を握って暗黒館まで来たし、玄児が中也を(半ば強引に)『仲間』にしたのに、やはり玄児の方から中也の手を離すのか」というのがこう……不可解かつ胸に刺さる点なのではないかと思う。これは読者にとってもそうだけれど、何より中也にとって、生涯にわたって大きな謎、そして傷として存在し続けたのではないか。この傷が「自分の為に(せいで)母親は死んだ(死んでくれた)のか」という甘美でありながら恐ろしいもう一つの傷と二重写しになって、中村青司を一生苦しめたのではないかと想像する。