『Final Fantasy XIV』途中までの感想

Twitterから離脱しました、ほしなみです。元気です。Mastodonにいますが、そもそもインターネットの海そのものから離脱気味です。
代わりに何をしているかというと、文フリの小説を書くはずが『Final Fantasy XIV』にはまりまして、毎日楽しくプレイしています(原稿も頑張るよ……)。

という訳でこの記事では『Final Fantasy XIV』の第二部「蒼天のイシュガルド」と第三部「紅蓮のリベレーター」の感想を書いておこうと思います。THE LODESTONEのこちらこちらに書いたものと全く同じですので、読みやすい方でお読み下さい。
記事の性質上ネタバレを多分に含みます。悪しからずご了承下さい。

 

Ⅰ. 戦争とは何か?という問い

~『Final Fantasy XIV』「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」の戦争観~

 「戦争とは何か?」とは、大上段に構えた問いであると言えるだろう。そんな大きすぎる問いに答えなんて出せない。そんなことを思う人もいるかもしれない。
 だが私が今回『Final Fantasy XIV』(以下『FF14』)の「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」の二篇をプレイして感じたのは、この「戦争とは何か?」という問いが、FF14という作品の通奏低音として流れているということだった。この通奏低音のような問いについて考えずにはいられない。そう思ってこの記事を書くことにしたのだ。

 『FF14』の舞台となるエオルゼアという地域は、ある問題に直面している。北州イルサバート大陸に勃興したガレマール帝国によって、侵略の危機に晒されているという問題である。『FF14』で描かれる物語の主軸の一つに、この「侵略を試みるガレマール帝国と、それに抵抗するエオルゼア諸国の戦い」がある。「紅蓮のリベレーター」で描かれるアラミゴ解放戦争はこの問題に連なる物語であるし、舞台こそエオルゼアではないものの、ドマ解放戦争も構造はエオルゼアと同じだ。膨張主義的であるガレマール帝国の侵略に抵抗するために戦う。この点でドマとエオルゼア諸国は同じ境遇に置かれているし、だからこそ「紅蓮のリベレーター」後半において同盟関係も成り立つのである。

 その一方で、エオルゼア諸国の中には全く別種の「戦争」を内部に抱えている国もある。イシュガルドがそれである。人と竜とが戦う竜詩戦争は断続的でありながら千年も続いており、イシュガルドの人々の自国観やアイデンティティ、社会のありようまでもが、この戦争抜きにしては語れないほどの存在となっている。
 この竜詩戦争の去就を描いているのが、『FF14』の二篇目である「蒼天のイシュガルド」だ。主人公である光の戦士(ヒカセン)が初めてイシュガルドの街を訪れた時、この地は邪竜ニーズヘッグとその眷属達によって深刻な打撃を受けた直後だった。光の戦士は瓦礫の積み上がるイシュガルドの街やクルザス、ドラヴァニアの諸地域を歩き回って物語を進めてゆく中で、竜詩戦争の真実に肉薄してゆくことになる。すなわち竜詩戦争の発端は初代王トールダンが詩竜ラタトスクを陥れ、その眼を食らったことにあり、しかもそのことを隠蔽し正当化し続けた結果が現在のイシュガルドの体制であることを暴露してゆくのである。

 人間は千年の間、数えきれぬほどに世代を重ねていて、既に竜詩戦争の発端を記憶として覚えている者もいなければ、戦争以前の人と竜の関係を知る者もいない。けれど竜は違う。長命な種である竜は、人間が欲望によって自分達を裏切ったこと、蜜月の関係を一方的に踏みにじったことを生々しい記憶として今も覚えているのである。イゼルの協力でそのことを知った光の戦士やアイメリク達は、戦争を終結させることを決意する。それが戦争を始めた側である人間の当然の振る舞いだからという理由もあっただろうし、加えて長く続く戦争は、イシュガルドの社会に暗い影を落としていたからでもあった。極端な階級差や経済格差、パワー(権力や武力)を追い求めてやまない権力者による蛮神召喚といったイシュガルド内部における諸問題は、竜詩戦争を当然視する社会に特有の課題でもあったのだ。

 「蒼天のイシュガルド」における戦争とは、徹頭徹尾「するべきではなかった戦争」である。竜と人間はせっかく良好な関係を築けていたのに、トールダンが不安と欲望に駆られてそれを打ち壊した。そのことで竜も人も、千年もの長きに渡って多くの犠牲者を出した。人間に至っては、どうして自分達が戦争を始めたのか、この戦争の意味や理由は何なのか、それすらも分からなくなってしまっていた。それら全てが過ちだった、だから過ちを正し、罪を償い、戦いの矛を収めなくてはならない。それが「蒼天のイシュガルド」全編を貫く戦争観である。戦争とは殺し合いであり、命をもてあそぶ残酷な行為であり、痛みと悲しみと怨みの再生産でしかないという考え方である。

 そのような戦争の申し子こそがエスティニアンである。だからこそ物語の終盤で、彼はニーズヘッグと深く同調し、同胞の死を悲しみ敵を恨み続けるという点においては、竜も人間で少しの違いもないのだ理解することになった。

「念願の復讐を果たしたわけだが、俺の心は晴れちゃいない。ただあるのは、すべての死を悼む心だけ……」
(『FINAL FANTASY XIV: HEAVENSWARD The Unending Journey』スクウェア・エニックス2022年 PATCH3.3「最期の咆哮」)

 彼のこの台詞は、竜詩戦争を象徴的に表す言葉でもある。「敵を倒せば恨みを晴らせて幸せになれる」という考えは間違いだ。イシュガルドの人々は初代王やそれに続く教皇、そしてそれに追随する多くの貴族によって、その間違った考えを長年信じ込まされてきた。だがいくら復讐を果たしても戦争は終わらない。敵と味方というのは最初から存在する自明の陣営ではなく、戦争を始めた段階で「設定された」、謂わば作られた虚構の陣営でしかない。本当に自明なのは生死の別の方なのだ。だから彼は竜と人間、敵と味方という視点から物事を眺めることをやめる。彼にとって世界はこの時から、生者か死者かで区切られることになったのである。

 

 戦争とは過ちなのだ、戦争は単なる殺し合いであって怨恨しか生まないのだ。権力者は戦争を美しい言葉で飾り立てて正当化するかもしれないが、それは戦争継続によって利益を得る者の生み出す欺瞞なのだ。「蒼天のイシュガルド」の物語はプレイヤーに繰り返しそのことを語ってくる。プレイヤーもそれに納得するだろう。戦争なんてしてはいけない。こんな血で血を洗う争いは、もう終わりにしよう、と。
 けれど物語は「紅蓮のリベレーター」に至り、戦争の新たな側面を提示する。それは「解放戦争」という側面である。竜詩戦争のような、かつては対等な存在として協力関係にあった二者間の戦争ではない。片方がもう片方を一方的に侵略し、蹂躙し、支配する地域における戦いを描くのである。

 アラミゴの人々にとっての戦争は、イシュガルドの人々にとってのそれとは大きく異なる。彼らは(少なくともガレマール帝国との間においては)望んで戦争を起こした訳ではない。侵略され、占領され、自治権や信教の自由、今まで有していた当然の権利や尊厳、帰属する共同体といったものを、ただ突然に奪われた。それを取り戻そうとして仕方なく、他に方法がなくて戦争をしている。勝利への道筋すら覚束ない戦いだが、戦うことをやめてしまえば自由や尊厳を手放すことになってしまう。そういうギリギリの戦いである。
 いくら戦争が殺し合いであり、怨恨の再生産でしかないとはいっても、彼らの状況を前にして「殺し合いは無益だ」とか「相手と和解しよう」などとは言えない。彼らは圧倒的に踏みにじられた側で、取り戻すために戦っている。戦争をするとは、即ち取り戻すための試みを続けるということなのである。そのような戦いを「過ち」と断ずることはできないだろう。

 一方で、アラミゴ解放戦争とその後を描く中で、「紅蓮のリベレーター」は戦争の限界にも度々言及している。余りにも多くの人が死んでしまい、解放戦争を継続させられなくなった軍隊がある。帝国の属国として二十年近くを経過する内に、帝国人としての自己を内面化して大人になった世代がいる。アラミゴ内での需要が低迷し更に輸出も行えなくなった結果、衰退してしまった産業がある。こうした社会や個人の様々な問題に対して、戦争も戦争の勝利も、全くの無力であり続ける。戦争も勝利も万能ではない。何なら、あれだけ多くの命を犠牲にしても、ほんのちっぽけなものしか贖えない、そういうものですらあるのだとリセや光の戦士は目の当たりにする。

 特にフォルドラに代表される、帝国人として生きようとしたアラミゴ人の処遇は象徴的な問題だ。彼らは帝国の中核を担うガレアン人からは軽んじられ、同胞である筈のアラミゴ人からは売国奴として恨まれる存在である。帝国支配下のアラミゴでは一応は軍人として生きることができていたが、アラミゴが解放されてしまえば彼らは裏切り者でしかない。彼らは帰属する先がない。誰もが彼らの帰属先となることを拒む。

 宗主国の国民として育てられた植民地の人々の、言語や宗教、アイデンティティの問題は、社会が画一的な対策を取れる類いの事柄ではない。社会の軋みを人生そのものが受け止めてしまった時、その傷や痛みは不可逆のものになる。ドマ篇のヨツユやアラミゴ篇のフォルドラはそれを体現する存在であり、彼女達のような存在を前にしたとき、戦争や戦争の勝利は、何をしてあげられることもできない。
 アラミゴ解放軍の旗印となっていたリセがフォルドラにしてあげられることがあるとしたら、それはフォルドラを絶対に殺さないということだった。

「帝国人として育てられたフォルドラたちを追い込んだのが、時代と環境のせいだって言うのなら、アタシにもアラミゴ人として、その環境を作った責任がある……」
(『FINAL FANTASY XIV: STORMBLOOD The Unending Journey』スクウェア・エニックス2022年 PATCH4.1「英雄の帰還」)

 彼女はそう述べた後、アラミゴ内での隣人の対立をなくしたいと語る。争いに決着をつけるためだけにどれだけの命が費やされるか、その先で得られる勝利がいかに脆いものであるかを知っているからこその言葉である。

 解放軍を勝利へ導くことは確かに大変なことだけれど、その勝利は万能ではない。むしろその力はとても小さく弱く、不完全で、限定的だ。アラミゴに存在する多くの問題を勝利は解決できない。それでもリセと光の戦士は、戦争を主体的に選んだ。何故なら戦争に勝たなければ自由と尊厳がないからである。自由と尊厳は「あって当然のもの」であって、それがあるからといって多くのことが成し遂げられる訳でも、多くのことが解決する訳でもない。けれど自由と尊厳がなければ人間らしく生きることすらできない。

 戦争とは過ちである、と「蒼天のイシュガルド」のストーリーは語った。「紅蓮のリベレーター」の物語はそれを大筋で認めつつも、唯一の例外を示してみせる。自由と尊厳のための戦争。それだけが辛うじて過ちではない戦争なのだ。だがそれは決して輝かしいだけのものではない。多くの命を犠牲にした、陰惨で物悲しい、その上不完全な戦争である。勝利の力は限定的で弱い。戦争によって成し遂げられることはかくも小さい。それでも自由と尊厳の回復のためならば……。

 

 「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」で描かれる戦争、現実の二十世紀の歴史を踏まえているように思う。帝国主義に起因する多くの侵略戦争、二度の世界大戦、そして多くの解放戦争があった。戦争は悪だ、単なる大量殺戮でしかない、という考え方は世界大戦の反省から生まれた。そのような戦争=悪に唯一の例外があるとしたら、それは抵抗の戦争、すなわち人々の自由と尊厳を守るための戦争なのだという考えも、やはり二十世紀のポストコロニアリズムから生まれたと言える。
「紅蓮のリベレーター」の物語はそうした二十世紀の歴史を鑑みながらも、加えてこの自由と尊厳のための戦争についても慎重な態度を崩さない。戦争は万能薬ではない。殆どのことは戦争では解決しないし、むしろ悪化することすらあり得る。その留保を絶対に外さないのだ。

 「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」の二篇をプレイして、私は『FF14』の戦争の描き方に誠実さを感じた。現代的かつ人道的な戦争観だと感じたのだ。

 『FF14』の物語には「戦争とは何か?」という問いが通奏低音のように流れていると最初に書いた。イシュガルドの人々も、アラミゴやドマの人々も、その問いに対する答えを模索し始めるところで物語の幕は閉じている。けれどこの二つの作品を通して、問いには一つの答えが提出されているようにも思う。
 戦争は悪だ。紛れもない殺し合いだ。けれどもし意義のある戦争というものがあるとしたら、それは自由と尊厳のための戦いだ。それは全くもって万能ではないし、勝利したからといって得られるものも、叶えられることも、決して多くはないけれど。

 それがこの二篇が示した、「戦争とは何か?」という問いに対する答えである。私はこのシンプルながら強固な答えに、とても心動かされた。歴史に対する人類の反省がぎゅっと詰まっている、重みと手応えのある答えだと思った。
 実を言うと、「紅蓮のリベレーター」には手放しで褒められない面もある。それは次の記事に詳しく書く予定で、気になる方はそちらを読んで頂きたいのだが、けれどそれはそれとして、こういう形で解放戦争というものを描ききったことについてはやはり評価したいという気持ちが強い。日本のエンタテイメント作品が「戦争」を真っ向から描くことは少ない。FF14は戦争を美化すること遠景化することもなく、真っ向から取り上げてその輪郭と限界を描いた。そのことは大いに評価されて欲しいし、されるべきだと思った。

 

 

Ⅱ. 現実世界を物語世界に転写する難しさ

~『Final Fantasy XIV』「紅蓮のリベレーター」ドマ篇の問題点~

 Ⅰの方で「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」に関する肯定的な感想を書いた。だが末尾でも述べたように「紅蓮のリベレーター」については手放しで賞賛できない点が一つある。どうしてもその一点が気になったので、それについても記事を残しておこうと思う。

 『Final Fantasy XIV』(以下『FF14』)の中心的な舞台となるエオルゼアは、現実世界の様々な文化圏をモデルとしつつも、現実世界の地域や文化との一対一対応を避けた世界作りがなされている。例えばウルダハは砂漠の中の都市で、その建築様式もどことなく中近東風の趣があるが、だからといってウルダハに住む人々やその社会の様相が中近東的であるかというと、そうではない。

 同様のことが他の都市国家にも言える。グリダニアは『指輪物語』のエルフの暮らしをモデルとした面があるだろうし、リムサ・ロミンサは大航海時代のヨーロッパやカリブ海の海賊を参考にしたと言えるだろうが、プレイ中にそれを強く感じさせるポイントは多くない。どちらも参照先の物語や歴史とは異なる側面を多分に含んでいるからだ。エレゼン族はエルフに似た外見だが不死でもないし、他種族より思慮深い存在でもない。リムサ・ロミンサにはエンリケ航海王子のようなパトロンはおらず、飽くまで海賊達による自治によって成り立つ都市国家である。イシュガルドは明確に中世ヨーロッパ風の国だが、雲海というヨーロッパからは大きく逸脱した要素も備えている。
 それに加えて、エオルゼアには様々な人種の人々が暮らしているという設定だ。国や地域ごとに傾向はあるものの、どの国でも複数の人種が共存している様子が直感的に分かるようになっているし、人名の多様さからは種族ごとに固有の言語が保たれていることも窺える。

 要するに、エオルゼア諸国は一つだけのモデルに頼りきりにならないよう、かなり工夫されて設定が作られているのだと言って良いだろう。グリダニアを初めて訪れたプレイヤーは『指輪物語』のエルフを想起するかもしれないが、そっくりそのままではない。イシュガルドの街を見たプレイヤーは中世ヨーロッパ風だと直感しながらも、街の造りが地球上のどことも圧倒的に異なることを経験する。その上、画面を行き来する人々の姿は多種多様である。エオルゼアは現実世界の歴史に名を連ねる多くの国や地域と違い、圧倒的に多文化共生圏的な世界であると表現することで、更にモデルの存在を朧化することに成功している。

 一方で、ひんがしの国やドマ・ヤンサ(・ナグサ)はそれとは異なり、明確に現実の東アジアの諸地域をモデルとしている。ひんがしの国〜紅玉海は日本、ドマは日本〜中国、ヤンサはモンゴルをモデルとしている。ナグサはそれと分かる形で登場していないものの、服装から推察するに中国〜ベトナムをモデルとしているようだ。参照先の文化や世界観を架空世界に転写させる際の手法が、エオルゼアとは大きく違っている。
 オサード小大陸の諸地域は、現実の文化圏を一対一対応で架空世界に当て込む形で作られている。そのこと自体はリスクこそあれ良くある手法なので何とも思わないが、今回は特に、製作者の多くがの所属する国・地域・文化圏である「日本」的要素だけが、やたらと肥大してしまっているのが目についた。

 ドマを「中国的な文化圏」ではなく「日本〜中国的な文化圏」として描いた結果、そもそも日本的に描かれていたクガネや紅玉海と合わせると、全体として日本的な要素がやたらと増えてしまっていて、中国的な要素が限定的にしか描かれない結果となっていることが上げられる。現実世界の中国をモデルとする文化圏を設定しておきながら、それを日本文化混じりに描くというのは、日本と他の東アジアの諸地域との歴史に対して不誠実な表現であると私は感じた。

 ドマという国の中に転写された、中国的なものと日本的なものは、エオルゼアの中に見出される朧化されたモデルとは異なり、明らかにそれと分かる形をしている。例えば「紅蓮のリベレーター」で実装されたジョブである忍者も侍も、日本的なものであって中国的なものではない。ドマの人々の人名はどれも日本語風の言葉選びと様式をしていて、中国的な姓名を名乗る人は見当たらない。
世界を形成する諸要素が「日本的なもの」なのか「中国的なもの」なのか容易に区別することが可能だし、加えてこの二者の比率は半々ではない。ひんがしの国を日本として描き、ドマは単に中国として描くというのならば問題はないのだけれど、実際はそうなっていないのである。ひんがしの国は(ネオジャポニズム風なところはあれ)シンプルに日本的な国であり、ドマは日本混じりの中国なのである。日本的なものを有する地域だけが、現実世界に比して無条件に広い。その不均衡に問題がある。

 何がどのように問題なのか。日本はかつて中国に侵略戦争をしかけたことのある国であり、朝鮮半島や台湾や中国東北部を植民地としていた国である。中国的な文化に、物語上特段の理由もなく日本的な文化を混ぜる、相互的に混じり合わせるのではなく一方的に日本的なものを混ぜ込む表現というのは、植民地における同化政策的なものを思い起こさせるし、戦前の日本において侵略戦争の思想的背景ともなったアジア主義を連想させもする。

 それが仮に製作陣の意図していない読み解きなのだとしても、すなわち無意識、不徹底、もしくは不勉強によるものだとしても(恐らくそうなのだろうが)、軽く流して良い問題ではないと私は感じた。中国のことを勉強せずに中国を描けると確信してしまうこと自体が、中国文化を軽視する態度に他ならないからだ。

 「紅蓮のリベレーター」は解放戦争を描く物語だ。現実世界の歴史で言うところの帝国主義に近しい振る舞いで他国を侵略するガレマール帝国と、それに抵抗するアラミゴやドマの人々を描いている。
 この物語のテーマから言っても、現実の歴史における帝国主義について、誰が誰をどのように侵略し、搾取したかについて、製作陣はもう少ししっかりと意識する必要があったと思う。現代の日本社会に暮らす人々は帝国主義侵略の当事者ではないし、私達が直接侵略や植民地支配の責任を負っている訳ではないが、それでもかつて日本という国とそこに帰属する人々の多くが、侵略戦争を是認し、押し進め、それによって利益を享受した歴史は存在する。「私達の社会は、かつて他の社会を侵略した側である」という認識から出発するのは辛いことだが、しかしその認識を曖昧なままにして民族解放戦争を描くというのは片手落ちであるように感じられる。

 かつて日本が侵略した先の国や地域を、日本語で、あるいは日本語話者が中心となって描く時、そこに無意識の帝国主義が潜んでいないかどうかは注意すべき問題だろう。今日に至るまで、日本では「世界は欧米と日本でできている」風の言説がまかり通る傾向にある。中国や韓国に代表される東アジアの諸地域は、日本の外延ではない。日本とは別の言語、別の歴史、別の文化を有する、別の地域なのだ。人々が個人の単位で関わり合い、混じり合う部分も多分にあったし、これからもあり続けるだろうが、それは東アジアの諸地域が日本の延長であることを意味しない。

 人々が侵略者に抗う様をいくら感動的に、説得力のある形で描けていたとしても、そこに現実の中国と日本が、かつての侵略戦争を想起させる形で投影されてしまっていたら、その説得力はたちどころに霧散してしまう。「紅蓮のリベレーター」の物語について肯定したい気持ちも大変強いのだが、その一方で私にとっては、「侵略戦争とそれへの抵抗を描いているのに、制作者達は自らの中にある侵略する側マインドに気付いていない」というグロテスクな印象を覚えるゲームでもあった。少なくとも、そういう側面があった。

 「蒼天のイシュガルド」と「紅蓮のリベレーター」は、「戦争」という人類が繰り返してきた悲しい営みの謎を、全く別々の視点から追いかける物語になっていると思う。「紅蓮のリベレーター」は結果的に、「戦争とは何なのか?」という問いに一つの答えを出した作品でもあるだろう。私はそういう意味で、この物語をとても高く評価したいと感じている。「紅蓮のリベレーター凄いじゃん!」と本当は手放しで褒めたいのである。
 素晴らしい物語だと思うからこそ、心揺さぶられて感動したからこそ、とにかくドマ周辺の描き方に根深い問題を感じて、残念に思った。

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