文フリ新刊『夕炎の人』サンプル

こんにちは、ほしなみです。
突然ですが、11月11日(土)に開催される文学フリマ東京37に出店します!久しぶりの即売会参加です。
スペースはき-13「星槎渡河」です。この記事で冒頭を載せている新刊『夕炎の人』の他、既刊三種を用意してお待ちしています(既刊サンプルはこちら)。

『星槎渡河』発行の同人誌の他、来年発行予定の「宇月原晴明デビュー二十五周年記念本」のフライヤーを持って行きます!美麗イラストを使った素敵なフライヤーですので、宇月原作品がお好きな方、興味ある方、是非是非お立ち寄りください。
なお、この記念本には私も寄稿させていただきました。豪華で素敵な本になる予定ですので、来年を楽しみにしていて下さい!

2023年11月11日の文学フリマ東京で発売予定の、同人誌『夕炎の人』の書影。水彩画風の真っ赤な夕焼けのイラストの右上に、縦書きで書題が書かれている。『夕炎の人』・文庫版・352ページ・800円

〈あらすじ〉
領主の屋敷の庭師であるセッケムは、最近あることに悩んでいる。父親が「声の男」との結婚を強要してくるのだ。一人前の庭師になれないことは分かっていても、庭仕事をしながら今の家族と生きていきたい。そんな風に考えるセッケムにとって、父の行動は不安の種だった。
いずれ具体的な結婚相手が現われたら、自分は家を出てどこか遠くへ逃げなくてはならないのだろうか。そんな心配を抱えながら屋敷の庭で働いていたある日、ひょんなことから領主の客人である珍しい商人と知り合いになって……? 複数言語をめぐる女性達のファンタジー。

〈Trigger warning 事前警告〉
この小説には以下の表現が含まれます
家庭内暴力/強制的な薬物の投与/妊娠中の人物と胎児への暴力
女性差別/ろう者や手話、ろう文化に対する差別/身分差別/結婚の強要
(この記事に含まれる表現には下線を引いています)

以下、本文のサンプルです。冒頭の第一章1を全文掲載しています。

夕炎の人

第一章

セッケムがかしの木立に足を踏み入れると、ぱちん、ぱちん、とはさみを使う音が響いてきた。そこら中の木の根元に、剪定を終えた後の枝やら葉っぱやらが落ちていて、足の踏み場もない。足を取られぬよう気をつけながら、彼女は木立の奧へと進んでゆく。次第に鋏の音が大きくなる。ゆっくりと立ち止まると、空を覆わんばかりに広がる枝の網へ目をやった。音の大きさから、父がすぐ近くにいると思ったからだ。
「へあっぐ」
出し抜けに、声とも音ともつかぬものが聞こえた。探し人のくしゃみだと即座に理解して、セッケムは周囲を見渡す。この辺りの枝のどこかに父がいる筈だった。幹にはしごや脚立が置かれていないか、きょろきょろと周囲を確認する。
ややあって、再びぱちん、と鋏の音が響いた。一抱えほどもある立派な枝が頭上から落下して、セッケムの右前方に落ちかかる。同時に頭上の緑の中で、もぞもぞと動く人影があった。どうやら木の股に腰掛けて枝を切り落としているところのようだ。
セッケムは父が腰の物入れに鋏をしまうのを見てから、軽く枝の付け根を揺すった。彼はそれでようやく娘の存在に気付いたようだった。するすると枝を伝って幹の方へ戻ってくる。地面にほど近い木股に腰掛けると、父はセッケムににこりと笑いかけた。
〈終わったのか?〉
姿勢を安定させた後、禿頭の男は問うた。セッケムは頷くと、父から両手と顔が良く見えるよう、立っている場所を少しばかりずらす。
〈西側は終わったよ。ラシリハの庭はこれから行くつもり〉
父は穏やかに点頭すると、ふと視線を少しばかり遠くの方へ向けて、片手を挙げた。振り返れば、脚立を担ぎながら次兄がこちらへやって来るのが見える。
〈お前も終わったか?〉
脚立を適当な幹に立て掛けるのを眺めながら父がそう訊いた。次兄は人差し指同士を突き合わせてそれに答える。肯定を意味する手語だった。父はそれを見ると、セッケムの方を見て軽く笑う。
〈なら、お前はラシリハの庭をやりに行きなさい。それで今日は終わりだよ〉
〈午後は? まだ色々とやることがあるでしょう? ここのガンヂーだって……〉
だが、父は柔和な表情のままにセッケムの言葉を制した。右手で打ち払う仕草をされる。却下、の意味だった。
〈家に帰りなさい。お前は緑の者じゃないんだから、そんなに頑張らなくて良い〉
セッケムはその言葉に反論しかけたが、父の好々爺然とした表情に何と返せば良いのか分からなくて、結局手を下ろした。
〈ラシリハの庭だけは、申し訳ないが頼んだよ。あそこは男が入れなくなっちまったからな〉
父は両手でそう伝えると、再び枝先の方へと登ってゆく。猿ましらのように素早い動きは、彼の庭師としての円熟したりようを物語っていた。
――あんな風になれたらなあ。
鋏の音を聞きながらセッケムは俯く。足許に枝が落ちてきた。日焼けした足に蟻が一匹、まるで探検でもするかのように這っている。その動きを見つめていると、次兄に肩を叩かれた。
〈行ってこいよ。ラシリハの庭の様子、後で教えてくれ〉
兄の手がそんな風に動いた。逆光で分かりにくかったけれど、何となく複雑そうな表情をしている。こちらを案じるような、心配してくれているような顔だった。そのことに僅かばかり慰められて、セッケムは人差し指同士を突き合わせる。深く息を吸うと、木立の北の方へ歩き出した。

セッケムとその父、そして二番目の兄の三人は、二年ほど前からこの屋敷に庭師として仕えていた。広大な庭を有するこの屋敷は、ここら一帯を治める領主の住まいである。聞くところによると、シンハッがわの中流域にある他のどの領主の住まいよりも立派だという。その噂も満更嘘ではあるまい、というのがセッケムとその家族の実感だった。敷地はラグァキヤンガンヂーとでぐるりと囲まれ、更にその外側にははくの石垣が巡らされている。敷地の中にはいくつもの木立や園池、更には人工の丘や噴水まであって、初めて見た時には目を回したものだ。こんな豪勢な屋敷が近隣に幾つもあるとは思えなかった。
セッケムはそのだだっ広い庭の西側を小走りに抜けながら、先ほどの父の手の動きを反芻する。
――お前は緑の者じゃないんだから。
父がセッケムをのけ者扱いするのは、これが初めてではない。半年前にセッケムが十五歳で成人して以降、ことある毎に「お前は緑の者ではない」と言うようになった。
――緑の者。
走りながら、今一度その言葉を手で呟いてみる。十指を立て、上へ突き上げるように動かした。それが「緑」を表す手語である。「緑」は他にも、草木や薬を意味する。つまり緑の者は草木のまきびとや、薬の番人のことだ。庭師もしくは薬師となって、その技術と職能を継承する者を指す。
セッケムの父は庭師で、亡き母は薬師だった。血筋の点で言えば、セッケムは緑の者の一員であってもおかしくない。能力だって申し分なかった。正式な鋏こそ持たせてもらえないけれど、難しいシムシーの枝の矯正だってできるし、涸れかけの井戸に水を引き込むことだってできる。
――でも、私は緑じゃない。完全に緑って訳にはいかない。
灌木の茂みを掻き分けながら進んでいると、水の流れるさらさらという音が響いてきた。園池に流れ込む遣り水の一つだろう。近づいて落ち葉が溜まっていないか確認してから、セッケムは今一度北へ向かって歩を進める。小枝を踏んだところで、ぱきりと乾いた音が耳を突いた。
父のくしゃみが耳の奥によみがえる。ぱちん、と響く鋏の音も。
――私には、音が聞こえる。
この半年何度も考えてきたように、今日もまたセッケムは自分の耳が拾う音や声のことを考えた。このことについて思考を巡らせる度、必ずある古い記憶がよみがえる。
それはセッケムが三歳か四歳の頃の情景だった。薬師であるセッケムの嫂あによめが患者を診察している。患者が木札を嫂に手渡した。嫂はそれを読んだ後、患者の脈を取り、舌の色を見た。いつもならば嫂の隣に通訳が控えている筈だった。薬師が患者に問診を行うには、声語を操れる通訳が必須だからだ。けれどその日は何故か通訳がいなかった。理由は知らない。
嫂は少し考えてから筆談を試みた。だが、相手は文字が読めなかった。手渡した木札は別の人間が書いた物らしいと知って、嫂は困ったように眉を顰めた。
――あのね、胸が苦しいの。胸よ、胸。
やがて患者の方がそんな風に声を上げ始めた。勿論、嫂には聞こえない言葉だった。嫂が首を傾げて患者を眺める。患者が同じ言葉を繰り返す。次第に患者の方が苛立って、声を大きくしていく。けれど嫂には、患者が口を開閉させていること、何かを訴えていることしか分からない。
今でも良く覚えている。セッケムはその状況にたまりかねて、自分から手を動かしたのだった。
――ねえ、胸が苦しいんだって。
その言葉に、嫂は驚いたようにセッケムを見た。大人の世界に踏み入るようで緊張したが、続けてセッケムはこうも言った。
――私が通訳しようか?
断られるだろうと半ば確信していた。けれど嫂は少し考えた後、セッケムに言った。
――この人に、食欲があるかどうか訊いてくれない?
普段なら大人の通訳を介して問う筈のことだった。けれどその時から、嫂はセッケムに通訳をさせるようになった。幼いセッケムは嫂の仕事場に入り浸り、患者達から声語を学び、通訳をすることでそれを会得した。嫂の通訳は声語を話せるけれど、聞くことはできない。だからセッケムは重宝された。セッケムは家の中でただ一人、聞こえる者だった。
足許で、ぱきりと音がした。セッケムは我に返ると、地面へ視線を向ける。右脚が再び小枝を踏んでいた。それを拾い、小さく折って、腰に提げた袋へと放り込む。
――だから私は、緑の者じゃない。
緑の者とは、耳の聞こえない者のことだ。セッケムは生まれた時から、緑ではなかった。
落ち葉や小枝を拾いながらみちを抜け、やがて見えてきた小門の前で立ち止まる。門番が物々しい表情でこちらを見た。首に掛けていたサッレウ石を差し出すと、衛士は小さく頷く。
この屋敷の人々は、北の庭のことをラシリハの庭と呼ぶ。ラシリハの庭へは女しか入れないと決まっている。それというのも、屋敷の北側に住むのは領主一族の女性達であり、そこへ入れる成人の男性は領主とその跡取りだけだからだ。
――以前はもう少し決まりが緩かったらしいだけど。
庭師は屋内には立ち入らないから、以前は男でも目こぼしされていたらしい。けれどセッケム達の前に仕えていた庭師が不祥事を起こして以来、女しか入れない決まりに変わったのだという。不祥事というのが何なのかセッケムは知らない。この屋敷の仕事を引き受けてきた父も、恐らく知らないのではないかと思う。ある人は庭師と領主の跡取りの妻が密通していたのだと言ったし、またある人は庭師が侍女を強姦したのだと言った。事件の詳細は、下々の者には伝わってこなかった。
明らかなのは、事件を起こした庭師がかくしゅされ、その一族も領地を追われたということだけである。その後「領主お抱えの庭師」になったのがセッケムの父だった。そんなきな臭い仕事を引き受けなくても、と長兄や嫂は難色を示した。けれど父は二人の言葉を無視してこの仕事に就いた。
――私の持参金を稼ぎたかったから、かな。
父が屋敷勤めを始めた二年前には分からなかったが、今となってはそんな風に思える。半年前にセッケムが成人して以来、父はセッケムをなるべく早く嫁に出すと言って聞かなくなった。しかも相手は声の男でなくては駄目だと心に決めているらしい。
――私は庭師になりたかったし、それが無理でも庭仕事を続けたいのだけど。
庭をするのなら緑の家にいる必要がある。声の者は庭をしたり薬を作ったりしないものだ。見ず知らずの相手と結婚するだけでも嫌なのに、そのせいで庭もできなくなるというのはぞっとしない話だった。
セッケムは門番に一礼した後、褪せた赤色の門扉の窪みにサッレウ石を填め込む。軋む音と共に門が開いた。いつも通り、しきいの前で拝礼してから門をくぐった。そうしないと屋敷の他の使用人達に、後から礼儀知らずだとそしられる。屋敷に仕えるようになったこの一年で、セッケムはそうしたことを嫌でも学んでいた。
石畳の路をしばらく行くと、正面に涼しげな竹林が見えてきた。路は竹林の中へと続いていたが、セッケムはそちらへは進まずに右へ折れる。路らしい路はないけれど、ここを進めば回り道をすることなく建物の近くへ出られるのだ。
屋敷の建物はどこも窓が大きく取られている。人が一度に何人も通り抜けられるような、大きな窓だ。そして多くの場合、そんな窓の外側には露台が設けられている。貴人が庭を楽しむための場所である。露台の近くには背の低い草花を植え、敷石を配して歩けるような形に整えられている。露台から少し離れた場所には灌木を、そして更に遠く離れた場所へ背の高い樹木を植えるのが一般的な造園手法だ。このラシリハの庭もそのような造りになっている。
音を立てぬよう注意しながら、セッケムは灌木の茂みをゆっくりと進んだ。領主をはじめ主家の人々が窓辺にいる時に、庭師が外をうろつくのは非礼に当たる。灌木の植わっている場所よりも建物に接近しようとするなら、周囲の窓辺に主家の者がいないことを確かめねばならない。セッケムが茂みを進むのに慎重を期すのはそういう理由からだった。
――ここの部屋はすだれとばりも下りてる。人がいるのかな?
そう思って茂みの中からそっと耳を傾ける。しばらくすると、人の声が切れ切れに聞こえるようになった。
「――で、若奥方ロイハッのお加減は?」
「全然駄目。若殿様レイハッも新しい人をもらうしかないんじゃない?」
その内容から、これは侍女達の会話だろうとセッケムは当たりを付ける。砕けた物言いをしているから、きっと主人はこの部屋にいないのだろう。つまり、セッケムがここを横切っても問題ない。
――大丈夫そう。
作業を始めても構わないと判断して、セッケムは手袋を着けた。ゼヒュウの木の合間を通って窓の近くまで出ると、露台のたもとに群れるラシリハの花を丁寧に検分する。咲き終えたはな殻がらがあったら摘み取らなくてはならないからだ。
大体どの窓辺にも、露台のたもとに一種、それより少し離れたところに二種ほどのラシリハが咲いている。女の住まう屋敷の北側は、だからラシリハの庭と呼ばれていた。
――ラシリハは血の道の薬でもあるって聞いた。
それをセッケムに教えてくれたのは嫂だった。家族の中で今のところ唯一の薬師で、家の一角を使い診療所のようなものを開いている。
――ラシリハには、溜め込んだ血を外へ出す効果があるんだよ。
目の奧に嫂の手語がよみがえる。彼女が言葉を紡ぐ度、袖口から薬の香りがするのだ。だからセッケムが嫂の言葉を思い出そうとすると、それは必ず薬の香りを伴ってくる。
――血?
――そう。月の徴しるしが来ない場合とか、来ても痛みが酷い場合に処方するの。どちらも、血を上手く排出できないせいで起こる症状だから。ラシリハの種はそういう時の助けになる。
嫂は、セッケムの母の形見の書物を見ながらそう教えてくれた。博識で思慮深い嫂は、母の一番弟子だったという。セッケムが二歳の頃に嫁いできた人で、殆ど彼女の母親代わりと言って良かった。
セッケムがもくもくと花殻を摘んでいると、窓の方からじゃらりと物音が聞こえた。顔を上げてそちらへ目をやると、珠簾を掲げた侍女と目が合った。セッケムと同じくらいの年齢の少女だった。
「どうしたの?」
中から別の侍女の声が聞こえる。簾を掲げた侍女は振り返って答えた。
「ううん、外から物音が聞こえた気がして」
そう言うと、帳の隙間からもう一人の侍女が顔を出した。こちらを見て、ああ、と声を上げる。嘲るような表情が白い面に浮かんでいた。
「ほら、リンケオンケの子だよ。庭をやってるもん」
その言葉に、セッケムは思わず下を向く。聞こえてるよ。そう言おうかとも思った。だが聞こえているからどうだというのだろう。だから何? そう言われたら何と答えれば良い? セッケムはすぐに言葉を発することができなかった。
やがて二人の侍女は部屋の中へと引っ込んでしまう。セッケムの頭はしばらく痺れたようになっていた。が、やがて溜息をついて花殻摘みを再開する。
「リンケオンケって、身振り手振りで会話するよね。何か……こんな風に」
先にセッケムを見た方の侍女がそんなことを言っているのが聞こえた。セッケムは左手に持っていた花殻を手早く袋に放り込む。あはは、と陽気な笑い声が響いてくる。
「言葉じゃないのに良く伝わるよね」
「言葉だよ」
セッケムは思わず声に出してそう言った。だが分厚い帳に遮られて、その声は中まで届いていないようだった。
「伝わってないんじゃない?」
そんな言葉が聞こえた。あはは、とまた明るい笑い声が上がる。セッケムは今一度溜息をつくと、すぐにその窓辺を後にした。

その後、セッケムはしばらく花殻摘みに没頭した。四つの窓辺でラシリハを確認し、花殻を次々に摘んでゆく。頭を動かすまいとすると、てきぱきと手を動かすことが必要だったのだ。五つ目の窓辺の作業を終えた辺りで、息が切れてきた。腰がじんわりと痛い。次の窓辺へ移ると、薔薇ニンビの木蔭に座って少し休む。淡い黄色の花が咲き乱れているところへ、蜜蜂がもぞもぞともぐり込んでゆくのが見えた。
――言葉だよ。
さっきの侍女達の会話が思い起こされた。手語は言葉だよ。セッケムは繰り返しそのことを思う。身振り手振りでも物真似でもない。声語とは成り立ちの違う、けれど同じように精緻な一つの言葉。
頭の中で様々な言葉が浮かんでは消える。手が動き、声が響いた。そのどれもがセッケムの率直な感情の発露だったが、そうであるだけに他人に言い放つのは躊躇われるものばかりだった。
「……はあ」
しばらく休憩して腰を休めた後、ゆっくりと立ち上がって伸びをした。この窓辺でもラシリハを確認なくては。セッケムはそう思って茂みを抜けようとする。と、不意に建物の中から甲高い声が響いてきた。
「まあ! ではやっとわたくしの婚礼衣装が届くのですね!」
セッケムは慌てて黄薔薇の蔭に身体を引っ込める。見れば大きな窓の右半分に帳と簾が下がり、中で人影が動いているのが分かった。よそごとを考えていたとはいえ、気付かなかった自分の迂闊さにひやりとさせられる。
声の主は、どうやら領主の長女であるらしかった。取り巻きの侍女達が彼女に合わせて柔らかな声で相槌を打っているのが聞こえる。
「ええ、殿サッレイハッが家か令れいのヒビルキウに、ヒワンチェクまで商人を迎えに行くよう命じていましたからね。今頃こちらへ向かっている筈ですよ」
領主の娘にそう応答したのは、幾分か年配で落ち着いた声の持ち主だった。奥方様サッロイハッ、と侍女が呼びかけたのが聞こえる。そのお蔭で、今の話し手が領主の妻であることがセッケムにも理解できた。
「絹の刺繍……想像するだけで胸が躍るようですわ、お母様」
「ええ、本当にね。私も絹の刺繍なんて殆ど見たことがありませんもの」
侍女達も口々に甘ったるい声で賛意を示した。
「絹の刺繍の婚礼衣装を贖える家など、近隣ではこちらの他にはございませんでしょう。どなたよりも立派な婚礼になると存じます」
「そんな豪華な花嫁姿を拝見できるなんて、夢のようですわ」
屋内で交わされる会話の内容に、思わずセッケムも、絹の刺繍、と呟いた。聞くだけでくらくらするくらい煌びやかな言葉である。
セッケムは絹を良く知らない。主家の人々が時折身に纏う、つやつやとした布地のことだとは理解しているが、それがどのように作られるのか、着心地はどんな風なのか、彼女には知識の持ち合わせがない。分かっているのは、このラシリハの庭の住人達が、毎日飽きることなく絹について語り続けているということだった。
絹、この南の陸地では産しない不思議な繊維。南の人々は、絹を得ようと思ったら北の陸地からもたらされる物を買うしかない。そして北からの輸入品は、ここいらシンハッ河の中流まではなかなか運ばれてこない。河の下流にあるピチヨンのような大きな都市で買い占められてしまうからだ。そのくせ、絹は南の領主階級における贈答品の定番なのである。南の領主達は客人を招く時も、宴席を設ける時も、冠婚葬祭を催す時も、何かにつけては絹を贈り合う。必要な数は膨大なのに、入手するのは難しい。そのせいで屋敷の女達は、毎日飽きることなく絹のことを話題にする。
「絹の刺繍……絹の刺繍ですって!」
その声にセッケムは我に返る。今一度中の様子を窺うと、奥方が娘をたしなめるような声を上げた。
「少し落ち着きなさい、みっともない。今日明日には、その絹商人がやって来るのですから……」
「ええ、ええ、お母様。家令のヒビルキウを迎えに行かせたのでしょう? 単なる商人への応対にしては随分と丁重ですけれど、わたくしの婚礼衣装ですものね」
家令のヒビルキウは、セッケムも何度か言葉を交わしたことがある。ここに勤めることが決まった際に挨拶をした相手も彼だった。四十絡みの物静かな男で、この屋敷の使用人達の統率を一手に引き受けている。彼を出迎えに行かせるような客というのは、確かに珍しかった。
「丁重な出迎えの理由は、お前の花嫁衣装だけではありませんよ」
奥方は苦笑と共にそう言った。どういうことですの、と侍女が先を促す。少し間があってから、奥方の静かな声が響いた。
「殿が丁重に出迎えたい相手というのは、絹商人の夫の方なのですよ。何でもその男は北では高名な呪術師で、鉱脈を見つけるのが得意だとか」
鉱脈。その言葉にセッケムは思わず、首に提げていたサッレウ石を握った。帳の向こうの侍女達も、まあ、と声を上げる。やがて、その内の一人がおずおずと口を開いた。
「奥方様、ということはつまり、サッレウ石の鉱脈をお探しに……?」
奥方はその言葉に、ええ、と肯う。侍女の幾人かが安堵したような溜息をついた。
「まあ、きっと今度こそ鉱脈が見つかりますわね」
「お嬢様のご結婚に勝るとも劣らぬ良い報せではございませんか」
「そうなると良いけれどね」
奥方は短くそれだけを言った。その言葉の背後に、期待と不安とが入り交じっているのをセッケムは聞き取る。
サッレウとは、五年ほど前までこの領地で産した緑色の石の名である。大河シンハッと支流のウッケンマウ川とが合流するこの辺りでは、太古の昔からこの不思議な石が採れた。
――サッレウ石には不思議な力がある。
サッレウ石がラシリハの門の鍵となっているのも、その力が理由だった。一塊のサッレウ石を二つに割ると、二つは引き寄せ合い、元に戻ろうとする性質がある。ちょうど磁石が鉄を引きつけるような塩梅だ。だが磁石がのべつまくなしに鉄を引きつけるのとは違い、サッレウは自らの半身だけを引き寄せる。同じ鉱脈に眠っているサッレウであっても、別の塊を形成している石には反応しないのだ。
北の陸地の人々はサッレウのこの力をことほか珍重する。一度割れても元に戻ろうとする力に縁起の良さを感じるからだと聞いた。北の貴族の持ち物には、何でもこの辺りで採れたサッレウがふんだんに使われているらしい。サッレウは昔から、南の陸地の代表的な交易品だった。南の者はサッレウと棉と茶葉を売り、北から絹と鉄を買う。それが南北の典型的な交易の姿だった。
――でも五年くらい前から、この辺りではサッレウが採れなくなった。
それまでも緩やかに目減りしていたサッレウ石の採掘量だったが、五年前のある日から突如として完全に失われた。掘り尽くしてしまった、と鉱夫達は言った。どうして突然採れなくなったのか、セッケムは知らない。もっとあると思っていた鉱脈が思った以上に小さかったのかもしれないし、落盤か何かで掘り進められなくなってしまったのかもしれない。
サッレウが採れなくなったことで困ったのは、鉱夫や職人だけではなかった。主要な交易品を失った領主一族もまた、税収の激減に慌てるようになった。サッレウが採れなくなった次の年、領主は鉱夫達に、シンハッ河の上流で別の鉱脈を発見するよう厳命した。大昔は大河の上流でサッレウを採っていたと言い伝えにあったからだ。だが大勢の鉱夫がいくら命令通りに試掘をしたところで、結果は芳しくなかった。
これからやって来る北の呪術師は、鉱脈を見つける名人だという。ならば領主が彼に探させるものなど決まっている。サッレウの新たな鉱脈だ。
「それにしても絹商人の夫が呪術師というのは、変わった夫婦ですこと」
領主の娘――名をシュラヒリヤと言ったと思う――がそんなことを言った。それにはセッケムも内心で頷く。布地を扱う商人が女性なのも珍しかったが、その夫が呪術師というのはもっと珍しい。正直に言えば、ちぐはぐな印象が拭えない。
「北では普通なのではありませんこと? 南とはしきたりが違うと聞きますから……」
侍女がそんな風に言葉を返した。セッケムはその言葉にも頷く。北と南は様々なことがあべこべだ。絹は南で採れず、棉は北では採れない。南の人々は月を崇めるが、北の人々はさいせいを崇める。北には時期によって気候が変わる「季節」とかいうものがあるらしいが、南にはそれがない。他にも南北で、言語や暮らしに様々な違いがある。
屋内の会話に耳を傾けていると、不意に、ぶうん、と何やら大きな虫の羽音が聞こえた。顔を上げれば、薔薇の花の中にやたらと大きな蜂が止まっている。セッケムは思わず後ずさった。
――あれ、刺してくるやつだ。
蜜蜂を狩る種類の蜂で、敵と見做せば人のことも刺してくる危険な種である。声語で何という名前なのか知らないが、手語では「羽のある虎」と呼ばれている。蜜蜂を捕食しにこの辺りへやって来たのだろう。実際、先ほどまでは薔薇の茂みに蜜蜂がたむろしていた。
――逃げなきゃ。
人を刺す蜂に遭ったらすぐに距離を取ること。幼い頃に父から教わったことを実行しようとして、セッケムは立ち上がりかけていた足をふと止める。
――立ち上がったら、奥方様達にばれちゃう。
灌木の蔭に身を潜めている分には平気だが、姿を窓辺にさらしてしまえば、屋内の人々に咎められることは間違いない。
蜂はしばらくの間、黄薔薇の茂みの周辺をうろついていたが、次第にセッケムのいる方へと行動半径を広げてくる。ぶん、ぶん、と大きな羽音が耳を刺した。
――どうしよう。
しゃがみこんだ姿勢のまま後ずさりながら、必死に知恵を絞る。屈んだ姿勢のままで遠くまで行ければ良かったが、この庭はそんな都合の良い造りにはなっていない。庭の東側に移ろうとするならば、窓辺側に一度出てから小路を通るか、茂みを掻き分けて木立へ行き、その中を進む必要がある。無論、窓辺に出れば屋内から無礼を叱責されるし、茂みを掻き分け木立へ向かえば腕や顔に枝が刺さる。途中で動物や虫の巣を踏んでしまう可能性も高い。どちらも嫌な目に遭うのが分かるだけに、決断するのがむずかしかった。
セッケムが迷っている間にも、蜂はぶうん、ぶうん、と大きく旋回を始めた。その移動範囲の大きさにセッケムは驚く。これでは蜂が窓の方にまで飛んでいきかねない。そう考えたところで、脳裏に妙案が閃いた。
「も、申し上げます!」
迷っている暇はなかった。勇気を振り絞ると、上擦った声で叫ぶ。同時に灌木の茂みから飛び出した。珠簾の奧から、あら、と何人かが声を上げる。一人の侍女が窓辺に近寄ってこちらを見た。怪訝な表情だった。
セッケムは露台まで駆け上がると、白堊の台上に膝を折る。細かい挨拶や礼儀作法は彼女には分からなかったから、拝礼した後は簡潔に用件だけを伝えることにした。
「そっちの薔薇の茂みに、大きな蜂がいます。人を刺す種類だから、簾を全部下ろして」
目上の人に対しては、もっと違う言葉で話さなくてはならない。そのことは知っていたけれど、どう言えば良いのか分からなかった。セッケムに声語の言葉遣いや作法を教えてくれた人はいない。全て見よう見まねで覚えたことだった。その上焦っていたから、その真似ですら覚束ない。
案の定、窓辺へやって来た侍女はセッケムの口調に不快そうな表情を見せる。だがその後ろで領主の娘が、まあ! と叫んだ。
「蜂ですって? 早くとばりを下ろしてちょうだい」
侍女にもその言葉は届いている筈だったが、彼女は動かずに、ただむっつりとした表情でセッケムの方を睨みつけている。よほどセッケムの物言いが腹に据えかねたらしい。
「早くした方が良いです。刺されたら危ない」
焦れたセッケムはそう言葉を重ねた。室内では、興奮した様子のシュラヒリヤを奥方が宥めている。娘の手を取りながら、彼女は窓辺に佇む侍女に命じた。
「ヒェシク、簾と帳を下げなさい。その子の無礼を咎めて蜂に刺されたら馬鹿みたいだわ」
その言葉に、侍女は渋々といった様子で窓の隅へ移動する。上品な所作で掛け金を外した。途端、珠簾が滝のように下りてきた。玉同士が触れ合って、しゃらしゃらと涼しい音が上がる。美しい薄緑の玉が揺れているところへ、更に水色の薄布が下がった。セッケムの目には室内の様子が見えなくなる。
それきり、中からこちらへは何の反応もない。セッケムはしばらくしてから、ゆっくりと立ち上がって露台から下りた。ラシリハの中に立って、薔薇の茂みをじっと観察してみる。羽のある虎の姿は既になかった。あの、耳を刺すような羽音もしない。
――危なかった。
叱責も蜂刺されも回避できたことに、ほっと息をつく。やれやれと思いながら立ち去りかけたところで、この窓辺のラシリハを確認していないことに思い至った。何となく気が重かったけれど、仕方がない。額の汗を拭うと、露台のたもとに咲くラシリハを一つずつ目視してゆく。露台の白が目に沁みた。雑草がぽつぽつ生えていたので、花殻と共にそちらも取り除いてゆく。
腰の袋にそれらを何度か投げ入れたあたりで、屋内から再び声が聞こえてきた。
「――……いくら何でも口の利き方が酷うございました」
先ほど応対した侍女の声だった。自分のことを噂されている予感があって、セッケムは花殻を摘む手を止めた。
「『簾を全部下ろして』なんて……。主家の者に対して、まるで命令するような物言いではございませんこと? 曲がりなりにも領主様のお屋敷にお仕えしている者が、あのような……」
ヒェシクという侍女が憤然とした調子で言い募っている。他の侍女がそれに対して、そうですわ、とか、ええ、と言って同調するのが聞こえた。
「庭師風情に優雅な物腰を期待する訳ではありませんけれど、それにしても目に余りましたわ。どのような親に育てられたのかと思ってしまうくらい」
「そういう言い方をするものではありませんよ」
そこで奥方がやんわりと侍女を止めた。珠簾がまたしゃらりと鳴る。奥方が窓辺に近寄ってきたらしい。帳の隙間からふくよかな顎の線が覗いて、セッケムは慌てて平伏する。だが露台の影になって、窓からはこちらの姿は見えないようだった。
「あの子は可哀想な子よ、リンケオンケの親の許に生まれるなんて……。口のきけない親兄弟を庇って、ああして懸命に働いているに違いないわ。悪く言ってはなりませんよ」
「まあ奥方様はお優しい……」
また別の侍女が感動したような声を上げた。その響きに強い媚びが感じられて、セッケムは胸の辺りに気持ち悪さを覚える。
「奥方様のおっしゃる通り、ああいう親の許に生まれれば立ち居振る舞いが粗雑になるのは仕方のないことと存じます。しつけようにも親が言葉を話せないのですもの……」
帳のあわいで、ふくよかな顎がゆっくりと上下した。
「そんな家では、どうしたって教育が疎かになるでしょう。その割にあの子は良くやっているわ」
セッケムは急いで露台から離れ、別のラシリハの株のところへ移る。けれど一度耳が拾ってしまった声や言葉は、少し距離を置いたくらいでは消えてくれたりしなかった。
「お母様は、下々の者にまでそうやってお心を配ってらして……ご立派だわ……」
今度は娘が湿っぽい口調でそんなことを言った。侍女達がそれに同調する。本当にご立派ですこと、という声が繰り返し響いた。
「あらあら、今日は珍しく殊勝なことを言うのね。お前も婚家に行ったら分かるわ。夫やその一族から一挙手一投足を見張られるのだもの。嫌でも良い言葉、良い行いをせねばと心がけるようになりますよ」
ほほ、と柔らかい笑い声が聞こえた。これ以上聞いているのが嫌で、セッケムは大急ぎで残りの花殻摘みを終え、窓辺を離れる。途中、耐えきれなくなって土に唾を吐いた。それを履物でぐっと押し潰すと、そのまま駆け出す。花殻摘みもやめて、ただ闇雲に庭から庭へと分け入った。
――嫌い。
誰の声も聞こえないところへ行きたかった。北の主殿から遠く離れ、灌木の茂みをいくつも抜け、木立を突っ切り、敷石が剥がれかけた寂しい小路を走った。
――父さんは、ああいう言葉を知らない。
セッケムが耳から拾う多くの言葉を、父は知らない。リンケオンケという言葉の持つ侮蔑の響きも知らなければ、セッケムが「聞こえない親の許に生まれて可哀想に」と言われていることも知らない。
――父さんは、私があの人達の仲間なんだと思ってる。
耳が聞こえるというだけで、どうして仲間の筈があるだろう。自分を蔑んだり哀れんだりするばかりの人々を仲間だと感じたことなんて、一度もない。セッケムに仲間がいるとするなら、それは家族だった。父や兄達、嫂、姪や甥、庭や薬のために働く多くの弟子達。庭や薬について手で語らう人々が、セッケムにとっての仲間だ。そう思って生きていきたいのだ。
――でも、私はその輪から外される……。
声の男と結婚させる、と父は言った。仲間同士で生きていけと言いたいのだろう。そして父にとって、自分と娘は仲間同士ではない。
当ても定めず、ただ走った。見知った風景がどんどんと背後へ通り過ぎてゆく。こんな風にどこまでも駆けて、現実から逃げることができたら良いのに。
――声の男と結婚したくないなら、逃げなさい。
嫂の言葉が目の奥に浮かび上がる。父のやり方に反対し続けてくれる長兄と嫂だったが、生憎と娘の結婚についての決定権は親にある。二人が反対したところで、父の決定は覆せない。だからだろう、嫂は悔しげな表情で言ったのだ。結婚したくないなら逃げなさい、と。
――逃げるって、どこへ?
両耳は風の音だけを拾っていた。小さな滝を左に見て、木立の中へ入る。履物の下から柔らかな土の感触が伝わってきた。どこへ行くの? ここではないどこかへ?
何度問うても答えはない。ただ、逃げなくてはならないのだろうという漠然とした確信だけがあった。そこまでしないといけないのかという思いと、そうでもしないと後悔するという思いとが戦う。ああ嫌だ。私、どこへ逃げれば良いの?
セッケムの息が上がってくると、風の音は次第に緩やかになっていった。足の下は相変わらず柔らかかった。濃い木々と草の匂いが、無性に悲しかった。

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