原民喜『夏の花 心願の国』感想文

『夏の花・心願の国』・原民喜(大江健三郎 編)新潮社・昭和四十八年

戦争を扱う文学、というものがある。戦中の悲惨さを扱った作品や、原爆をテーマにした作品、或いは日本軍の非道さを語ったもの等もそれに当たるだろう。私にとって、そんな戦前〜戦中という時代や第二次世界大戦を扱った文学作品は、向き合うには重すぎるものだった。中学生の時に『少年H』を読んで以来、「もうこんな気持ちになる読書は嫌だ」と感じた(断っておくと、『少年H』は戦争を描いている割には底抜けに明るい小説なのも確かである)。その理由を探ってみると、要するに戦争を通して国内外にばら撒かれた、政治的・社会的な問題を凝視するのが嫌だった、という事に尽きると思う。日本がアジアの各地で行った殺戮の数々、そしてそれと同時に発生した玉砕の風習、内地での食糧難、空襲、原爆、等々、多くの情報が、現代のひ弱な若者である私を疲弊させた。私は責められている様に感じた。現代の市民としての責務を果たしていない、と言われている様に感じた。「後世にこの悲劇を伝えなくてはならない」と書かれれば、「お前達はのうのうと豊かに生きやがって、この悲しみと苦しみを忘れさせてたまるか」と言われた気がしたし、「二度とこの様な悲惨な出来事を繰り返してはならない」と書かれれば「今の若者はそういった使命感も無くだらだらと毎日を過ごして許せない」と言われている様に感じた。他にも、戦争は間違っているだとか、原爆の悲劇を二度と起こしてはならない、といったメッセージ性も、私を辟易させた。それが間違ってると思った訳でも、疎ましく感じられた訳でもない。ただ、私が毎日を送る上で、そんな言葉が肩に乗ってしまったら、きっともう未来へ向かって能天気に、朗らかに、歩けやしないだろう、という事だ。生真面目に戦争について考え、重たい気持ちになってしまうのは、もしかすると祖父母から戦争体験を日常的に聞いていたからかもしれないし、或いは私の、そもそも内向きで社会への関心を重荷に感じる性質故なのかもしれない。

だから今年の夏、仙台の本屋をぶらぶらしていた際に、平積みの原民喜の本を目にした時は、何となく手に取るのを躊躇った。今年が戦後七十年である事は知っていたけれど、それについて激しく議論が交わされるテレビの中の世界と、私は切れてもう何年にもなっていた。表紙の向日葵の花は、嫌が応にも昭和二十年の夏を指し示していた。けれど同時に、表題には引っかかるものを感じもした。『夏の花・心願の国』という二つの作品名を繋げた表題の、特に『心願の国』に、私は惹かれた。其処には何となく浄土や楽土のイメージが香ったし、更に言うのであればリアリズムの泥臭くも無機的なものから、一歩離れた匂いがした。
手に取って、ぱらぱらと捲ってみると、瑞々しく、繊細で硝子細工の様なのに、それでいて優しく強く、泉の様に渾々と湧き出る美しい文章が見えた。この文章を植物に注いだら、きっと美しい花を咲かせるに違いない、と思われた。大した値段でも無い、思い切って買った。

その夜、寝る前の読書のつもりだったのに、案の定眠れなくなった。原民喜の文体は、蜃気楼を見ている様な気がした。悲劇の予感にゆらめき、懊悩に呻いて、小さな小さな安らぎに縋って、何とか生き長らえている筆者がいた。そしてその安らぎは、ページを開いた時から滅びが約束されていた。彼の妻は病魔に冒され、刻一刻と命をすり減らしていた。そして私はその闘病生活の一部始終を、何も出来ない儘に観察しなくてはならなかった。一ページ読んでは休息した。それで、何とか、彼の妻の死ぬところまで読んだ。

   「死」が彼よりさきに妻のなかを通過してゆくとは、昔から殆ど信じられないことだったのだ。だが、たとえ今「死」が妻に訪れて来たとしても、眼の前にある苦しみの彼方に妻はもう一つ別の美しい死を招きよせるかもしれない。それは日頃から彼女の底にうっすらと感じられるものだった。彼も今、最も美しいものの訪れを烈しく祈った。(『美しき死の岸に』)

「もう少しすれば夜が明けるよ」 かたわらに横臥して、そんなさりげないことを話しかけると、妻は静かに頷く。そうしていると、まだ妻に救いが訪れてくるようで、もう長い長いあいだ、二人はそんな救いを待ちつづけていたような気もした。そして、これは彼等の穏やかな日常生活の一ときに還ってゆくようでさえあった。だが、ふと吃驚したように妻は胸のあたりの苦しみを訴えだした。その声は今迄の声とひどく異っていた。それは魔にうなされたように、哀切な声になってゆく。愕然として、彼も今その声にうなされているようだった。病苦が今この家全体を襲いゆさぶっているのだ。(『美しき死の岸に』)

筆者は、常に妻の病の苦しみを自らとを一体化させる。妻の病魔に彼自身が苛まれるのだ。それは看病する上での苦しみとも違うし、また思いやりとも違う。彼と妻とが、二人で一つの命として生きていたという事の証なのだろうと思う。なのに、妻は死んで彼は生きる。同じ一つの命と、一つの生命と思っていたものが二つに分かたれ、永遠に交感の無い二つの世界に分断される。彼にとって妻との死別は永遠に癒えない傷だっただろう。実際、原民喜の作品には、度々妻の思い出が顔を覗かせる。原爆の悲劇の前には妻の死という悲劇があり、その二つは車輪の様に対になって、彼を苦しめ、また執筆の原動力にもなって作品を綴らせた。彼女を思う彼の心は彼の一部ではなく、彼の全てだったと言って良い様に思う。

彼にとって、一つの生涯は既に終ったといってよかった。妻の臨終を見た彼には自分の臨終も同時に見とどけたようなものだった。たとえこれからさき、長生きしたとしても、地上の時間がいくばくのことがあろう。生きて来たということは、悔恨にすぎなかったのか、生きて行くということも悔恨の繰返しなのだろうか。彼は妻の骨を空間に描いてみた。彼の死後の骨とても恐らくはあの骨と似かよっているだろう。そうして、あの暗がりのなかに、いずれは彼の骨も収まるに違いない。そう思うと、微かに、安らかな気持になれるのだった。だが、たとえ彼の骨が同じ墓地に埋められるとしても、人間の形では、もはや妻とめぐりあうことはないであろう。(『死の中の風景』)

私は読み進めた。妻の死という悲劇から、原爆という悲劇へ。そしてまた、自殺を手繰り寄せるという悲劇へ。だがその全てに、妻の姿があった。「妻と死別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったような気がします。」と原民喜は『心願の国』末尾の佐々木基一への手紙で述べているが、その言葉を言葉通りに取るのなら、彼の死は妻の死と限りなく等号で結ばれていて、原爆によって寧ろ残りの生が引き伸ばされたに過ぎないのではないか、という感が拭えない。彼があらゆる意味で半死の状態でありつつも、尚原爆の悪夢と格闘して記した作品は、彼が生を手放す事を運命に赦されなかったのだと、克明に告げている。

   僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。(『鎮魂歌』)

原民喜の代表作『夏の花』三部作は、兎に角一文一文が痛みに満ちていた。其処には深い悲しみも怒りも無かった。一瞬一瞬を刻々と生きる事、或いは生きられずに死ぬ事、そのどちらかしか存在しない世界が描かれていた。むごいとか悲惨だとか、そういうウェットなものは、あの日の広島には無かったのだろう。ただ暑く熱く、痛く、からからの、「水ヲ下サイ」と言う他に無い、地獄にしては現実に過ぎる、逃れられない何かが描かれて居た。その現実に過ぎる現実が、彼等の命を燃やし、或いは身体を腐し、滅ぼしていったのだ。筆者は飽くまで出来事は淡々と、そして悲劇に見舞われた人々は切々と、愛情深く描く。そのコントラストがまざまざと痛い。皆、心身に大火傷を負っていた。誰もが、誰かに助けて欲しかっただろう。

この人達の為に、あの世は美しくなくてはならないと感じた。あの世はとびきり美しく安らかで、優しく、心地良いものでなくては、この悲劇を身に浴びた人生に釣り合わない気がした。戦争について、或いは原爆について、様々な思想を様々な立場から語る事、様々に議論する自由がある事は、こんなにも手遅れな現実から出発したのだと知って、愕然とした。私達は全き広島や長崎を永遠に失ってしまったし、被爆者の人々は、そして原民喜という一人の人間は、己の全き人生を永遠に剥奪されてしまったのだ。

   このあたり家の下敷になった儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆の発生地となっているということを聞いたのはもう大分以前のことであったが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅かすようであった。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷いでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随ってはっきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何という初々しい声であろう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さえ泣いているのであろうか。何ともいいしれぬ感情が私の腸を抉るのであった。(『廃墟から』)

そして原民喜は、戦後も原爆の悪夢に心身を蝕まれながら書き続けた。『鎮魂歌』の中では「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」と述べる程、その使命感と嘆きとは重いものだった。それは神経を摩滅させ、狂乱の淵を覗き込み、騒擾と辛苦の道を丁寧に辿り直すという作業でもあっただろう。そうまでして、彼は書こうとした。その動機が何なのか、私には分からない。書かねばならない、と感じたとして、この様に魂を削る書き方を選ぶのは、一体何故か。それは多くの人々の魂が、残酷な兵器に、或いは運命に捥ぎ取られたからか。生き残った己に何かしらの意味と使命を感じたからか。妻の死は即ち己の死と思っていた彼に、何か執念の息吹が宿ったからか。分からない。全て本当かもしれないし、全て間違いかもしれない。だが、彼が書いたのは本当だったし、また彼が書き尽くした果てに自ら命を絶った事もまた、本当の事である。

死の間近、ふと作品に漂う重苦しさは拭われる。それは本当の意味での死の予感だったのかもしれない。『永遠のみどり』では、青葉とU嬢とに心慰められる事が描かれ、そしてまた絶筆の『心願の国』には、妻の死と原爆とに苦しめられる筆者の姿は不思議と無い。広島が復興しつつある姿を見て、彼はすべき事を果たしたと感じたのだろうか。『心願の国』で妻について触れる文章は、全てが優しく、清らかで、苦しみの跡は少しも無い。彼女の死すら愛おしむ気配がある。苦しみ抜いた先に、彼は死の向こう側の春を感じていた。

   あの頃、お前は病床で訪れてくる「春」の予感にうちふるえていたのにちがいない。死の近づいて来たお前には、すべてが透視され、天の灝気はすぐ身近にあったのではないか。あの頃お前が病床で夢みていたものは何なのだろうか。(『心願の国』)

   雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇ってゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃焼がパッと光を放ち、既に生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となっているのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがいない。一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実していたなら……。)(『心願の国』)

作品を読み終えた後、大江健三郎の解説から、原民喜は詩人でもあった事を知った。彼の清らかでありながら優しい文体、暖かくも涼しげな文章は、詩に端を発していたのだ。詩歌を紡ぐ為の鋭く直裁な言葉遣いで、丁寧に編まれた小説は、涼しさと熱さ、泉のながれと炎のゆらめきとを同時に感じる。その類稀な文体が書いた原爆は、社会問題でも、政治的な事柄でも、況してや現代の私達に責務を遂行せよと圧迫してくるメッセージでも無かった。ただただ、悲しく辛く、永遠に報われる事の無い叫びが、七十年前の八月に横たわっているだけであり、その思い出を裏切らない為に、命を賭して筆を振るった一人の人間が居ただけだった。

だが、その事実以上に尊いものは無く、その作品以上に原爆を、或いは最愛の人の死を描くものも無い。全ては内的で、パーソナルで、人生の中で受け止めなくてはならない問題だった。死別も、戦争も、原爆も、復興も、或いは自らの死も。

だから、私は原民喜の作品を読んで、感想を書かねばなるまいと感じた。彼の作品は、彼の体験は、彼の人生は、語られなければ滅びてしまう様に思った。彼を知る事、彼の作品を読む事もまた、私の人生の中の一部である。その様にしか戦争の、原爆の、死別の悲惨さは伝わり得ないし、また今までもそうやって伝わって来たのである。私もまたこうして下手なりに文章を書いて、その気持ちを伝えようと思う。

(2016年)

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