この愛情に名前は付けない――『天山の巫女ソニン』感想

菅野雪虫『天山の巫女ソニン』1~5巻を読みました。外伝が2巻ほどあるようですが、ひとまず本編を読み終えたということで。

読んで「!」となった小説はなるべく感想を書くことにしているのですが、今回はどう感想を書けば良いか迷います。ソニンやイウォル、ミン、クワン、イェラの成長が瑞々しい物語なのですが、心動かされたポイントは必ずしもそこだけではなく……。
ということでつらつらと考えながら感想を書きました。以下ネタバレがありますのでお気を付け下さい。

読んでいる間、ずっと「これって最後はどうなるのだろう」と気になっていたことの一つに、イウォル王子とソニンの関係がありました。二人の絆が深まるにつれ、二人は恋人同士になったり、その上で結婚したりというラストを想像していたのです。
二人は成長と共に強い絆で結ばれるようになりますから、恋愛エンドも王道で素敵だよねという気持ちもあった一方で、そんなありきたりなラストだったら残念だなあという気持ちも抱えながら読み進めていました。

作中では王子に侍女として仕えるというのは、将来の妻になることだという記述がありましたし、ソニンが最初に侍女になるという話を聞いた際、「玉の輿」という言葉が何度か登場しました。またソニンの姉であるユナは、イルギと2巻の最後で結婚式を挙げており、物語世界における女性の幸せ≓結婚、という図式もほんのりと示されています。
そういった記述と、特にそれに対して強く批判するでもない登場人物達を見ていると、恋愛と結婚のエンディングも有り得そうな気がしたのです(勿論、そうならなかった訳ですが)。

私の物語の好みの話になりますが、正直余り、ラブロマンスが好きではありません。人類の歴史の中で、恋が余りにもキャッチーな感情であり続けているせいで、他の強い愛情が、何もかも恋に回収されてしまっている気がしてならないからです。

この感覚は、恐らくCLAMP作品を読んで培ったものです。CLAMPワールドでは様々な作品の様々な人物が「好き」という気持ちについて語ったり迷ったり、決断したりします。
『聖伝』の夜叉王と阿修羅との間にある絆や愛情は、作中では(揶揄いも含め)親子愛・家族愛に近しいと語られますが、夜叉王が最終的に阿修羅に大して示す態度や約束は、一概に家族愛的とも言い切れません(一種のパラレルワールドで、同一デザインの別存在として描かれている『ツバサ』の阿修羅王と夜叉王も、やはりライバルとも恋人ともつかぬ謎めいた関係性で結ばれています)。『CLOVER』のスウと和彦や、銀月と藍の絆も、恋愛でも家族愛でも友情でもなく、名前の付けられない関係性です。『xxxHolic』の四月一日と、侑子・百目鬼・向日葵・小羽といった周囲の人々との関係性も、どれも確かに深い信頼を伴うものですが、名前を付けられません。

そうした好意の多様性(?)を知っていると、誰かを大切に思う感情をすぐさま恋愛感情として定義し、それを自明のこととして疑わない世の中の多くの物語に、疑念が拭えなくなって来る……というのが正直なところです。

『天山の巫女ソニン』を読んで一番嬉しかったのは、最後までソニンは誰にも恋をしないし、誰もソニンに恋をしなかったこと、それでいてソニンには大切な人ができたし、ソニンを大切に思う人も現れたということです。
イウォル王子は、ソニンと出会って当初の頃を「自分の役に立つものを見つけたとしか思わなかった」(『天山の巫女ソニン⑵ 海の孔雀』第十七章・2013年・講談社)と回想しています。けれどそこから二人は段々と成長し、信頼しあうようになります。5巻の後半にもなると、イウォルはソニンに「これで、手や足を失ってもいいと思える」(『天山の巫女ソニン⑸ 大地の翼』第九章・2016年・講談社)とまで言うようになります。
二つ目のこの台詞は、イウォルが文字を書かずとも意思の疎通が取れる唯一の人・ソニンと、肌に触れてさえいれば話せるのだと分かったことで発せられた言葉でしたが、私は読んだ時にかなり衝撃的で、そこまで言うのかというのが正直な感想でした。
上記は「あなたと言葉を交わせることが何よりも大切で、この手もこの足も、あなたとの対話の価値には及ばないのだ」というような意味の発言で、こうしたソニンへの激しさすら伴う愛情と信頼は、既存の多くの物語では恋として、或いは恋から始まった愛情として描かれて来ました。

イウォルのソニンへの愛情の複雑さと大きさが窺える台詞は他にもあります。例えば2巻でクワン王子の話をしている時、イウォルはこんなことも言いました。

「おまえが彼の申し出を断ったとき、わたしは彼からおまえのことを盗ったような気がした。なぜだろう? わたしが先に見つけたのに――」(『天山の巫女ソニン⑸ 大地の翼』第九章・2016年・講談社)

この言葉には、愛情と切っても切れない関係にある嫉妬と独占欲が窺えます。大切な人だからこそ自分自身が排他的になる。大切な人だから自分に対しても排他的でいてもらいたい。そうした気持ちを、イウォルは確かに抱えています。
嫉妬や独占欲を見せるのはイウォルだけではありません。ミンも「力があるからってさ、王子はあたしから何度も何度もソニンをとってく。あたしにはソニンしかいないのに……」(『天山の巫女ソニン⑵ 海の孔雀』第六章・2013年・講談社)と言いますし、クワン王子のソニンに対する複雑な愛情と執着の背後にも、またある種の独占欲を感じずにはいられません。

けれど、イウォルは(あるいはミンは、クワンは)ソニンに恋をしているからこれらの発言をした訳ではありません。少なくとも、作中ではそのような描かれた方は全くしていないのです。
では、例えばイウォルやクワンのような「王子」達は、ソニンに臣下としての忠義を求めて、上記のような発言や行動をしているのでしょうか。――それも否、だろうと私は思います。イウォルにとってソニンは何よりもまず「自分の言葉を聞き取ってくれる人」であり、またクワンにとってのソニンは「妹のリアンが特別だと思っている人」なのですから。

イウォルも、ミンも、クワンも、またイェラも……皆、ソニンのことが好きです。時にその好意・愛情は重かったり、醜かったり、激しかったりします。その感情のせいで動揺することもあれば、その感情が彼等の背中を押すこともある。
そして語り手を含めた物語の中の誰一人として、そうした愛情に名前をつけようとは試みないのです。好意や愛情に既存のレッテルを貼ることを穏やかに拒み、またそのようにして自分や他者の感情を定義づける「安易さ」に堕すことにも抵抗する――。ソニンと彼女を取り巻く人々の賢さと強さは、そんなところにもあるのではないかと思いました。

必ずしもこの物語の本筋への感動ではないかもしれないなあ、と思わないでもないのですが、少年少女が成長する中で、既存の感情の鋳型に囚われずに誰かを真剣に愛する物語であることもまた確かかなと思います。恋に絡め取られない、けれど愛に対して真摯な人々を描く、素晴らしい小説でした。

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