君子であれ、祈られる者であれ――『陳情令』の極端な感想

『陳情令』を見ました。『魔道祖師』を先に読んでいた分、原作とドラマ版との相違に目を留めながら鑑賞したような気がします。

色々と違いがあって、私個人としては『陳情令』の方が好きだなあというのが正直なところです。でも本当にその辺りは個々人の好みだし、表現規制ゆえにこういう物語になっている部分が『陳情令』には大いにあるから、その点をどのように考えるかにもよると思います。

さて、その原作とドラマ版との違いで私が一番目を剝いたというか、胸を衝かれたものに、ドラマ版50話の金光瑤の最期があります。
原作だと彼は義兄である藍曦臣に何も言わず、道連れにするかと思わせて最後には彼を突き放すのだけれど、ドラマ版では藍曦臣に対して「你陪我一塊儿死吧」(日本語字幕「一緒に死んでください」)と言う。藍曦臣もそれに肯う素振りを見せるのだけれど、最終的には金光瑤が兄を突き放す。

このシーンがとても衝撃的で(私が好きそうなシーンだなって、私を良く知っている方は感じると思います……笑)、見て以来ずっとこの二人について考えています。
以下でその辺りを整理した上で考えを書いてみたので、もし良ければお読み下さい。『陳情令』準拠であれこれ考えています。すごい長いです。

※中文は全て繁体字表記です。
(上記の台詞の儿って繁体字にするとおかしい気がして、これだけ簡体字です……)

1.血統主義と家族主義
2.一人目の兄――聶明玦
3.二人目の兄――藍曦臣
4.実弟か義弟か――家族主義の表出
5.君子と家族の檻から出て行く
6.金光瑤の欲しかったもの

 

1.血統主義と家族主義

金光瑤が犯した多くの殺人や陰謀の理由として、門地に由来する被差別の経験と、差別をして来た者に対する激しい憎悪・怨恨がある。特に「娼妓之子」(日本語字幕「妓女の子」、原作日本語訳「娼妓の子」)という言葉は彼を非常に傷付ける。彼は差別的な態度を取られて矜持を傷付けられ、「娼妓之子」という言葉によって彼と彼の母親を愚弄されながらも、必死で仙門での地位を築いていった人物だ。

彼が受けた大小の差別について考えてみると、それは仙門百家に共通する強い血統主義・血族主義の裏返しであると読める。金光善が金光瑤を徹底的に排して、同年同月同日生まれの金子軒だけを嫡子として認めたことや、金子軒の死後、同じ様に私生児でありながらも、金光瑤よりも身分の高い母親を持つ莫玄羽を金麟台に呼び寄せたことなどからも、それは見て取れる。金光瑤は母親の身分が低い為に仙門において差別を受けた訳だが、そのことは逆に、仙門の人々がそれだけ血統主義的であることを示してもいる。

蘭陵金氏以外の氏族も血統主義であることに変わりはない。虞紫鳶の江澄への態度と魏嬰への態度の違いなどが分かりやすい例だろう。『魔道祖師』や『陳情令』の世界の血統主義・血族主義は、仙門の内外で強い階級社会を形成し、それと共に宗主とその正妻が形成する家族の紐帯を、他のどの人間関係よりも強固なものであると位置付ける。宗主と正妻の間に生まれた最初の男子が次の宗主であり、無論能力が高い嫡子を求めはするだろうが、能力よりも血筋が優先されることは疑うべくもない。またそのような血筋で結ばれた親子や兄弟、或いは正当な結婚で結ばれた夫婦などの家族・血族の内側で様々なことを取り決め、氏族を経営していく。家族や血族の紐帯は、それ以外の個人的な情誼と比較して圧倒的な優位性、強権性を有している。江澄と魏嬰、江厭離と魏嬰の関係が複雑化した理由の一つに、このような血統主義に根差す家族主義によるところがある。

血統主義は階級社会を形成し、出身階級が高い者や、階級内に安住しようとする者を強く保護する。家族主義は同階級内の結婚を促進し、各階級の保護と再生産を後押しする。仙門の名家に生まれた人々(例えば江澄、藍湛、金子軒など)は、生まれながらに社会的に高い階級に位置し、正に階級社会構造にも、また家族主義の社会構造にも守られていると言えるだろう。

2.一人目の兄――聶明玦

金光瑤を見出し抜擢した聶明玦も、こうして血統主義・家族主義の構造に守られた者の一人である。彼も金光善や江澄と同じ様に、自らを守る構造の外に決して出ることのなかった人物であると言って良い。だが、彼自身はそれを最後まで自覚できなかった。彼自身は自らを強く律し、信義によって行動し、奸邪を誅殺することが自らの使命であると心得ているような人物だった。

聶明玦の行動・思考の基準はシンプルだ。『陳情令』第41話において金光瑤と言い争うシーンで「我刀下亡魂無數,可我絶不会為了一己私欲而殺人,更絶不為了往上爬而殺人!」(日本語字幕「我が刀で葬られた刀は数知れず、だが決して私欲のために殺めたことはない、のし上がるためなどもっての外だ」)と彼は叫ぶ。私欲の為に行動する者、なかんずく私欲の為に人を殺める者、傷付ける者を彼は赦せない。自分は私欲の為でなく、大義や正義の為に殺して来た――とそう信じているのが聶明玦という男だ。

彼の上記の発言に、金光瑤は「我明白您的意思,您是不是想說,您所殺者全部都是罪有應得?」(日本語字幕「よく分かりました、つまり義兄上が手を下した者は、殺されて当然なのですね?」)と問い詰める。暗に聶明玦の傲慢を指摘する言い回しだ。

上記の続きでは金光瑤も数の論理で言い返し、これはこれで金光瑤自身の執着と狂気が炙り出される結果になるのだが、それはさておき、聶明玦は自身の信念に従う剛直な人物であるが、ややもするとその信念が独善的なのではないか、ということがこのシーンで示されている。

孟瑤は、『陳情令』では聶氏の総領を、原作『魔道祖師』では金氏の修士を殺すところを聶明玦に見られてしまう。二人の不和はそこから始まる。前者ではほぼ弁解の機会は与えられず、後者の場合も、孟瑤は殺人の理由を歯切れの悪い言い訳めいた言葉でしか説明出来ない。しかし、例えばドラマ版であれば「総領が薛洋を逃がそうとしたのだ」と言えば良いだろうにそれを言わず、原作では更にどうとでも嘘をつけるところを(例えば「この者は金氏を裏切ろうとしたのだ」とか「この者は自分を殺そうとしたのだ」とか)真っ正直に説明している、という印象を受ける。

そうした彼の弁解や告白に対して、聶明玦は「最初に会った時、助けてもらうために、侮辱を受ける弱い自分を装ったのか?」(『陳情令』)と疑問を提示する(ここ、中文を聞き取る力が私になかった)。孟瑤の弁解が真実である可能性を一切信じない態度だ。

私が思うに、孟瑤と聶明玦、どちらが先に相手を信じなくなったのかと言えば、それは聶明玦からなのではないか。それが上記の、抜擢のきっかけさえも疑うようになった聶明玦の言葉なのではないか。二人の間の信頼を最初に破壊したのは、実は聶明玦の方だった。少なくとも孟瑤はそう捉えたのではないか。総領を殺した理由は、日頃からの総領から孟瑤への態度や嫌がらせが理由だろうが、加えて功を奪ったり、潰したりということがなされていた可能性も十分にあるだろう。そうしたことを話す機会も与えずに、聶明玦は孟瑤に、不浄世を去れと言った。彼が聶明玦を命がけで庇ったとしても、その態度である。

金光瑤は人を殺すことに躊躇いがない。人を陥れることに関する閾値が低い、と言っても良いだろう。それが無ければ出世もままならなかった、仙門で生き抜く事も出来なかった、あるいは更に遡って、母親と二人で社会の底辺をサバイヴするにはその様な強さが必要であった、と見る事が出来るだろう。一方で聶明玦の金光瑤への不信感の根はそこにある。仮に『魔道祖師』において孟瑤が語った金氏修士殺しの理由が真実だとしても、聶明玦にとっては「そんな事で人を殺すのか」という感情を抱かせるものにしかならない。「辛いなら殺して良いのか?邪魔なら殺して良いのか?いや、殺してはならない」と彼は考えているのだ。その倫理観は何もそんなに無理筋なものではないだろう。確かに孟瑤は殺さなくて良い人物を殺しているし、殺しに見合うだけの理由なくして殺している。彼が無実無罪だとは到底言えない。だが聶明玦はその事に固執する余り、金光瑤が自分の為にしてくれた事、嘘をついていない可能性がある事などから目を逸らす。そこには最終的に発せられる「娼妓之子」という意識も絡んでいるかもしれない。

聶明玦は金光瑤の言う通り、「你說你行得正站得直,天不怕地不怕,男子漢大丈夫,不需要玩弄什麼陰謀陽略」(日本語字幕「自分は正々堂々として恐れるものはなく、偉丈夫に謀略は不要だと豪語する」)というような人間だが、それは正に「出身高貴,修為也高」だからそうあれるだけなのだ。金光瑤はそのことを真剣に義兄に語るが、彼は聞く耳を持たない(皮肉な事だが、『陳情令』の聶明玦が聞く耳を持たない理由の一つは、確実に金光瑤の奏でた乱魄抄だろう)。彼は最期まで、血統主義や家族主義に基づく恵まれた背景を認識することが出来ない。自身と金光瑤、彼我の出自の差や出身階級の差を理解できず、ただ相手の不義を詰って死んでゆくのだ。

3.二人目の兄――藍曦臣

さて、ここで金光瑤のもう一人の兄——藍曦臣について考えてみたい。彼もまた、見方によっては自身の所属する階級や血族の範疇から一歩も出ない人物だ。蘭陵金氏の中で金光瑤が足場を築けずに苦心した時も、心情的、個人的な味方になりこそすれ、彼が直面していた階級闘争に対しては手を拱いていた印象が強い。聶明玦の怒りに対しても、積極的に誤解を解こうとするでもなく、金光瑤の殺人の背景をしっかりと聞き取るでもなく、ただ漫然と弟可愛さに味方をしているようにも読める。

だが、聶明玦と藍曦臣とを比べた時、金光瑤にとってどちらが大切な他者なのかは言うまでもなく明らかだ。聶明玦と藍曦臣は、金光瑤にとって何が違うのか。単に、前者は彼の善性を信じなくなったがために殺され、後者は彼の暗部を知らなかったがために好かれた、という違いでしかないのだろうか。

『陳情令』における藍曦臣と孟瑤の初対面は、第4話の「拜禮」の場面である。清河聶氏の副使として藍啓仁に謁見した孟瑤はあからさまな陰口を叩かれるが、それに気付いた藍曦臣が彼を労って面目を施すというシーンだ。
ここで示される藍曦臣の態度というのは、仙門に入った孟瑤にとっては殆ど初めてのものであっただろう。聶明玦は義憤から彼を取り立て、能力に見合うだけの立場を用意してはくれたが、彼の自尊心や感情を守ろうとするような庇護者ではなかった。金光瑤に社会的な強さを与えてくれた兄が赤鋒尊であるとしたら、澤蕪君は金光瑤個人の心や感情を守ってくれる兄であった。

第50話において、幼い頃の孟瑤に孟詩が「君子正衣冠」(日本語字幕「君子は身なりを正す」)と諭す回想シーンが挿入されるが、もしかすると孟瑤が母親の言葉から想像した「君子」とは、藍曦臣のような人間であったかもしれない。
「拜禮」の直前に読み上げられた藍氏の家訓に、「不可輕視貧弱,不可欺凌弱者」(日本語字幕「貧しきを軽視せぬこと、弱きを虐げぬこと」/ちょっと聞き取りが怪しいです)というものがある。三千五百もの家訓のつまらぬ一条に過ぎないかもしれないが、孟瑤と藍曦臣の初対面のシーンに読まれると思うと何やら感慨深い言葉だ。このような家訓を守り、体現する存在の藍曦臣は、確かに他者から見れば――特に孟瑤のような者から見れば端正で温雅な君子そのものだろう。詳細は描かれていないが、雲深不知処を追われた藍曦臣を孟瑤が助けるのも、藍曦臣が彼の心情的な味方をしてくれたからだろう。母に言われ続けた理想である君子そのもののような人に守ってもらった恩義から、彼は藍曦臣を助けたのではないだろうか。

だが一方で、意地悪な見方をするならば、藍曦臣が君子なのは彼が自律的に君子であろうとしているからではなく、藍氏の環境が彼に要求した様々なルール(家訓)が彼を君子にしているだけであるとも読める。謂わば他律的に、もしくは他の選択肢がないために君子になっている可能性がある訳だ。
先程、私は『陳情令』の作品世界について、仙門やそれを戴く社会全体に血統主義・家族主義の枠組みがあると書いた。藍氏では、この家族主義を強化するものとして更に家訓という枠組みが存在する。藍氏に生まれた者、特に宗主の血統に生まれた者は皆、家訓の体現者として――則ち君子として――生きなくてはならない。宗主の息子であるだけで宗主を継げるとか、藍氏に生まれただけで藍氏の「身内」として生きられるのではなく、血統に加えて家訓の体現者であることが要求されるという訳だ。

藍曦臣と藍忘機は殊にこの枠組みの範囲で生きることを厳しく要求されたに違いない。というのも、第43話で藍曦臣から語られる彼等の父親(『魔道祖師』では青蘅君と号する)の君子らしからぬ振る舞いが――そしてそれに伴う閉関が――藍啓仁をより峻厳な人物にしてしまったからだ。二人の育ての親である藍啓仁は、家訓を遵守せよと彼等に強く求めただろうことは想像に難くない。特に宗主を継ぐ藍曦臣は、その教育を内面化する以外の余地が残されていなかったのではないかと考えられる。

藍曦臣は最初から最後まで金光瑤にとって唯一の味方であり、また憧れの人物であっただろう。それは藍曦臣が正に孟詩の語った君子そのものであったからだろうが、一方でその君子像は、必ずしも藍曦臣が望んで得たものではなかった可能性がある。藍曦臣は君子になったというよりも、周囲の人々によって君子にさせられた可能性があるのだ。

藍曦臣が金光瑤の暗部に不思議な程気付かなかった理由や、聶明玦が語る金光瑤像を今ひとつ信じない理由を考えてみると、藍曦臣のこの人格の他律性に逢着する。彼は周囲に(特に叔父に)求められた君子の像を忠実に演じることしかして来なかった。家訓と家族主義的な思想を内面化することで、いわば君子のペルソナを通してしか物事を理解しないし、出来ない。それは他者同士の生々しい感情のぶつかり合いを、自らの意志や価値観によって解決したり、是非や正邪の判断がつけにくい物事を、自らの考えに基づいて糺したりすることは出来ない人間なのではないだろうか。
信義に厚い兄の聶明玦を敬うのは君子のすることであり、弟の金光瑤を(あるいは様々な人に悪し様に言われる弱者としての彼を)慈しむことは君子のすることだ。だから、彼はそれをする。しかし両者の間に対立がある時、その対立を根本的に解消させる力は彼にはない。どちらかを是とし、どちらかを非とするだけの堅固な意見を彼は持たずに来たし、寧ろ持たないことを求められて来たのだ。

だが藍曦臣の他律的な人格を、金光瑤は全く肯定的に捉えた。家訓の許容するごく狭い範囲に押し込められざるを得なかった藍曦臣の人格は、階級や血筋に安住しない高潔なものとして理解され、他者や外界に求められるままに形成された受け身の優しさは、仙門で唯一孟瑤を慮って投げ掛けられた声になった。
藍曦臣の君子的な振る舞いは、金光瑤という人間一人を社会的な苦しみから救うには余りに弱く、不完全な、手緩い慈愛であったが、それ以外にどんな愛情も慈しみも受けられなかった金光瑤にとって、それはたった一つの貴重なものであり、恵みを垂れる藍曦臣も同じく唯一無二の人として了解されたのだ。高い階級に生まれたがゆえに孟瑤の舐めた辛酸を理解せず、恵まれた立場から安直な正義を振りかざすきらいのあった聶明玦と比べた時、その差は歴然と感じられたことだろう。

三尊の三人は、お互いがお互いをそれぞれ少しずつ誤解しているように思われる。藍曦臣は金光瑤の暗部を見るだけの目を持っていなかったために、金光瑤を信じた。聶明玦は金光瑤の暗部を垣間見てしまったがために、彼の善性を全く信じなくなった。
聶明玦は彼なりに金光瑤の真実を見抜いたが、藍曦臣はそれを誤解や勘違いだと思い、聶明玦は藍曦臣の人間理解の根本的な不備を、金光瑤に上手く騙されていると受け取った。
金光瑤もまた、兄二人の内心には深く立ち入ろうとしない。金光瑤は他者が自分に何をしてくる存在か――自分を助けてくれるのか、妨害するのか――という評価軸による弁別が強すぎて、聶明玦の怒りが何に根ざしているのか、藍曦臣だけが何故自分に優しいのかに思いを巡らせた素振りはない。
この義兄弟が大きな不幸に見舞われるのは、何も末弟の立場と人間性だけが理由ではないだろう。三人が三人とも、お互いを深く理解しようとしなかった。自らのバイアスやフィルターを通して相手を見て判断を下し続ける営為によって、三人の関係は壊れていったのだ。この無理解の連鎖は、主人公である魏無羨と藍忘機の対話と理解の営為と比べた時、一層くっきりと浮かび上がるのではないだろうか。

4.実弟か義弟か――家族主義の表出

さて、三尊の関係が徹底的な同床異夢であったにせよ、聶明玦の死後、藍曦臣と金光瑤の関係は長らく良好だった。金光瑤は一番の庇護者である藍曦臣に自らの暗部を見せはしなかったし、藍曦臣は隠されたものを暴こうとする人間ではなかった。

しかし魏無羨が蘇り、藍曦臣の実弟である藍忘機が彼に味方するに至って、二人の間に緊張関係が生じる。魏無羨を夷陵老祖として再粛清しようとする金光瑤と、飽くまで実弟の意をはねのけまいとする藍曦臣の間で、意見の相違が生まれるからだ。
第43話で金光瑤が通行玉令を藍曦臣に返すシーンは、それを直接的かつ象徴的に描いている。

藍曦臣は表だっては金光瑤に反対しないものの、裏では実弟の藍忘機を助けて魏無羨を匿う。そしてその存在が金光瑤に露見しないよう、金光瑤の通行玉令を無効化する。金光瑤はその仕打ちに飽くまで冷静に対応した。藍曦臣が実弟を庇いたいのは理解できるとして藍曦臣を慰め、乱葬崗に傀儡が現れたことを報告するのである。
しかしその後の乱葬崗で金光瑤が仕組んだことを考えるに、彼は魏無羨が乱葬崗にいないことは百も承知だったはずだ。だとすれば、藍忘機の生家である雲深不知処に両者ともに匿われている可能性が高いと踏んでいてもおかしくないように感じられる――まさか屏風の後ろで聞いていたとは思わないだろうが。

そう思うと、寒室を退出する際に言った「二哥,你想去看看大哥嗎?我要為大哥下葬了,二哥要去送大哥最後一程嗎?」(日本語字幕「義兄上に会いに行きたいですか?葬儀を執り行います、義兄上を最後に送り出しましょう」)という台詞が強い意味を持っては来ないだろうか。藍曦臣は実弟とその知己を、実弟が実弟であるという理由だけで庇っている。藍曦臣は血の繋がった家族同士の信頼を理由に、今まで良好な関係を築いて来た金光瑤を突然信じなくなった。その輪に金光瑤は絶対に入れない。天に誓った義兄弟であっても、実の兄弟の血の絆には勝てない。あのシーンは端的にそれを示しているシーンなのだ。
だからこそ金光瑤は去り際に、義兄弟の長兄を思い起こさせる言葉を紡ぐ。私には上記の台詞が、「実の兄弟ではなく、義兄弟の絆を重んじてくれ、選んでくれ」という思いの籠もった言葉に聞こえる。

この読み解きにはもう一つの傍証がある。第42話の藍曦臣と藍忘機との以下のような会話だ。

「兄長,赤鋒尊的頭顱確實在金光瑤的手中」(日本語字幕「赤峰尊の首は確かに金光瑤の手に」)
「你親眼所見?」(日本語字幕「見たのか?」)
「他親眼所見」(日本語字幕「彼が見ました」)
「你相信魏公子?」(日本語字幕「信じるのか?」)
「信」(日本語字幕「はい」)
「那金光瑤呢?」(日本語字幕「金光瑤は?」)
「不可信」(日本語字幕「信じません」)

このやり取りが興味深いのは、藍曦臣が「你親眼所見?」と問い掛ける点だ。直訳すると「お前はその目で見たのか?」というような意味になるだろう(『魔道祖師』日本語版では「自らの目で見たのか?」と訳されている)。魏無羨が見たという証言は信じられないが、実弟が実際にその目で見たという証言であれば兄は信じる、と言っているに等しい発言である。ここでも、実弟への特別な信頼――血の繋がった兄弟であれば嘘はつかない――が窺える。

藍曦臣が証拠もなしに金光瑤よりも藍忘機を信じるということ、これが家族主義的な態度でなくて何だろう。同じ両親から生まれた兄弟の間の絆は、他のどのような他者との関係にも勝って強く、また排他的である。この二人の絆を前にした時、魏無羨や金光瑤は相対的に信じるに足りない他者として弾き出される。通行玉令を返す時、金光瑤は言外に実の弟と義理の弟(「義理の弟」という呼称が相応しくないかもしれないが、他に良い呼称がないためこの言葉を使わせてもらう)と、どちらかを選べと言っているのではないか。半ば以上実の弟を選んでいる兄に対して、もう一方の兄弟のことを思い出して欲しくて、あのような言葉を向けたのだ、と私は読んだ。

5.君子と家族の檻から出て行く

次第に、藍曦臣は正反対の二つのものに引き裂かれていった。一つは実弟が象徴する家族や一族であり、家訓を守ることであり、君子然として振る舞うことを自身に課し、高い階級と純粋な血統に生まれた誇りと責任とを負う宗主の立場――家族主義的な立場である。もう一つは義弟が象徴する義兄弟であり、金光瑤との誼や交流、彼に助けられた恩を返したいという気持ち、彼を大切に思っているから助けたいという、一人の人間としての藍曦臣の感情――敢えて家族主義に対置させるのであれば、個人主義的な立場である。

引き裂かれ、揺れ動く藍曦臣の葛藤は解決されないまま、物語は観音廟のシーンに突入する。第49話では、藍曦臣が金光瑤と問答をするが、そこで発せられる言葉は全て、金光瑤が親族を殺めたのかどうかを問うものであった。ここでも藍曦臣の家族主義的なスタンスが浮かび上がる。嘗て聶明玦は、血統主義に基づいた階級意識を背景に金光瑤を裁こうとしたが、藍曦臣は家族主義に基づいて彼を裁こうとする。二つの社会構造が、恵まれた人物の言葉と力でもって金光瑤を断罪する構図である。
藍曦臣が金光瑤に平手打ちを食らわせるような怒りを見せる理由も、全ては「家族は・夫婦は・親子は・兄弟は、他のどの様な関係にも増して強固に信頼しあうものだ」という意識に基づいている。実の父に蹴落とされ、兄弟や従兄弟に冷遇された金光瑤にとっては、到底受け容れられない残酷な規範意識である。
そして金光瑤が大切な甥である金凌を人質に取った時点で、藍曦臣はとうとう言うのだ。

「你上次也是這麼說的,我現在根本分不清你到底説的哪句是真話!」(日本語字幕「またその言い訳か、一体どの言葉が真実なのだ」)

実の弟に全幅の信頼を置く藍曦臣と、実の肉親からの冷遇と妨害によって辛い前半生を過ごした金光瑤とでは、家族に関する価値観において一致した見解に辿り着くことは不可能だろう。二人の見ている家族像は余りに真逆であり、経験も正反対だ。
金光瑤のそうした面が悪事と共に暴かれるにつれ、藍曦臣は、一体金光瑤の何が真実で、何が虚偽なのかという基準を見失ってゆく。自身が見ていた金光瑤が虚像であった――もしくは金光瑤のごく一部分に過ぎなかったことを突きつけられ、自身が他律的に生きて来たことで取りこぼした様々な事柄の苦味を一度に味わう。
しかしそうした衝撃と不信感の拡大の一方で、藍曦臣は何処か常に金光瑤に甘い。「我不知該不該相信了」(日本語字幕「信じていいか分からぬ」)とは言っても、「もう信じられない」とは言わない。傷の手当てをするのもそうだし、義弟に弁解の余地を与えてしまうのもそうだ。藍曦臣の中には、隙あらば金光瑤の善性に光を当ててやりたい、助けてやりたいという気持ちがあって、それがどのシーンでも彼を手緩くさせている。

金光瑤を刺してしまうまで、藍曦臣は二つのものに引き裂かれながらも、家族主義的な立場を崩し切らずにいた。宗主としての立場に立ちながら、許されるぎりぎりの範囲で、繰り返し金光瑤に温情を与えたと言って良いだろう。しかし彼が金光瑤を刺し、その義弟に詰られ、道連れにされそうになり、「你陪我一塊儿死吧」(日本語字幕「一緒に死んでください」)と言われた時、彼は一線を踏み越える。

藍曦臣は長年、家訓の鋳型と、それによって強化された家族主義の枠の中で生きて来た。彼が最も理解するのは実弟であり、最も従うべきは叔父であり、家訓だった。義弟との関係は、飽くまでその下位に位置する絆だった。
しかし土壇場でその上下は反転する。今までの恩義に報いるため、義弟を疑い死に至らしめた罪を贖うため、最期の願いを叶えるため――そのために、義弟に命を差し出しても良いという判断をしたのだ。
家訓が要請するような君子であれば、金光瑤のような奸邪は断罪して然るべきだろう。叔父や一族の者達が求めるような宗主であれば、実弟と共に不義を裁いた上で、無事に生還することが肝要であるはずだ。
しかし藍曦臣はここへ至って、それら二つの範疇から――謂わば檻から出て行く。家族も、家族が求める君子像も捨てて、自分が大切だと思う他者の願いを叶えようとする。

そしてそのことで逆に、最後は金光瑤から生きることを求められる。金光瑤の表情と行動から察せられるのは、「你陪我一塊儿死吧」という言葉が一種の試し行為だったということだ。共に死んでくれるような優しい兄、最終的には自分を信じ、赦してくれる他者を彼は切望していて、その望み通りに振る舞った藍曦臣だからこそ、彼は生かしたいと思うのである。

あるいはこういう言い方も出来るかもしれない。藍曦臣は家族の求める君子像を捨てた。そして大切な人の願いを命懸けで聞き入れた時、その人からもう一度、「あなたは君子だ」という認証を受け取った。君子とは個人に先んじて存在して人格を縛るものではなく、個人が十全に他者のために力を尽くした時、他者から感謝と共に与えられる名誉なのだ、と。

6.金光瑤の欲しかったもの

藍曦臣に関する記述が長くなってしまったが、今一度金光瑤に視点を戻したい。聶明玦は彼の犯した罪を、出身階層と結び付けて裁こうとした。金光瑤は品性の卑しい「娼妓之子」であり、自身は正義によって人を裁く資格のある仙門名家の宗主である、と。金光瑤はその思考の歪みこそを憎んで義兄を殺した。
思考の歪みと書いたが、仙門社会の内側に生まれ、その階級の中で生を終える人々からすれば、それは正常な思考で歪みでも何でもない。ただ孟瑤だけが痛烈に感じざるを得ない差別意識であり、格差なのである。

では藍曦臣はどうだろうか。彼は階級格差について、何か深い考えがあった訳ではない。ただ、家訓に「不可輕視貧弱,不可欺凌弱者」(日本語字幕「貧しきを軽視せぬこと、弱きを虐げぬこと」)とあったために、これを守っただけの人間だ。彼は家訓によって箍をはめられて生きることに慣れていた。家訓によって結ばれた、家族や氏族のために生きる以外の道を用意されていなかった。

孟瑤がそもそも仙門を志した理由は、母親・孟詩の教育にある。『魔道祖師』によれば、孟詩は孟瑤を、お前の父親は仙門の名家の出身なのだ、お前は特別な子なのだと言って育てた。それは実の父親との血の繋がりに真正のものがあるのだから、父親と同じ世界へ行け、ということを意味してはいないか。父親の血筋に特別な意義を認める時、既に孟瑤にとっての家族とは父親のことである。
孟詩が息子に施した教育は、「父親の子であれ」「君子であれ」の二つだったと言って良いだろう。そして息子が仙門の世界に足を踏み入れた時から、一方を守ろうとすれば、一方に背くしかなくなるのであった。父の子であろうとすれば君子ではなく、君子であろうとすれば父の子にはなれない。孟瑤は板挟みになって苦しんだことだろうが、結局は前者を守り、後者を捨てる。

金光瑤は社会構造の歪みを一身に受ける生を恨んだ。彼が本当に願っていたのは、父親の子として生きると同時に、君子として生きることだっただろう。それが母親の願いであり、母親の願いを叶えたいという自らの願いでもあっただろうから。だからこそ金光瑤は藍曦臣に対して、善なる自分の姿だけを見せ続けたのだ。
ならば、藍曦臣は義弟に――社会のどん底で虐げられた弱き人に――願われ、祈られる存在なのだ。私の憧れだった君子として生きろ。生きて私を救ったように、これからも生きて弱き者を救ってくれ、と。

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