文舵練習問題第一章

アーシュラ・K・ル=グウィン著/大久保ゆう訳『文体の舵をとれ』(フィルムアート社・2021)を読んで以来、練習問題をやるやる詐欺していた。今回一念発起して、ちょっとずつ取り組んでいこうと思う。

今日はまず、第一章に収録されている二つの練習問題から。

①「文はうきうきと」

チューリップが咲いたら、ちょっと旅に出てみよう。ちょうど良いぐあいに、チャンスが巡ってきたからね。茶色い煉瓦を歩いていけば、ちょくちょく見かけるアーティチョークの群生。ちゅんちゅん囀るすずめたちは、チョコレートみたいな翼で道案内をする。ちょろちょろ流れる小川のせせらぎを、手水がわりにして口をすすぐ。ちゃんとした行き先なんて決めずに、ちょいちょい寄り道していこう。蝶々を追いかけて走り出せば、昼夜も分からない森へ来た。宙ぶらりんな気持ちで進んで行けば、ちゃんと景色は変わっていく。彫刻がほどこされた遺跡や、茶葉を運んで商人が行き来した古道。注意して見ればそんな素晴らしい風景が、ちょいちょい姿を表すよ。
あっ、注目! あそこにちょんちょん歩いているやつ、見える? あれって超珍しい、チョボイチって鳥じゃない!? あれ知らない? だったら挑戦してみない? 何にって……ちょっとほら、耳貸して。ああそうだよ、あのチョボイチくんを捕まえるんだ! ちょ、ちょい待って! どうしてそんな首を振るのさ。ちょっとくらい挑戦したって良いじゃない! 貴重な鳥を捕まえるのは、ちょっとどうかと思うだって? うーん、そうかあ……。なら仕方ない、注視して観察して、あの羽をスケッチしてみよう。直接触れはしないけど、注目したら分かることもあるよね。これなら賛成? やった! ちょうど良い、十二色のチョークがあるから、これを使おう。ちゃかちゃか描いていかないと、チョボイチくんは逃げちゃうからね。レッツチャレンジ!

 

感想

いきなり疑問にぶち当たった。というのは、この「語り(ナラティヴ)の文」が何を指しているのか、英語と日本語との差異もあってかよく分からないからだ。脚韻や韻律を禁止しているのは、恐らくこれが詩歌にならないようにという狙いがあるからだろう。頭韻はOKだけれど脚韻はNG、というのはきっと英語文学における「詩歌」の定義と関係するのだろうと思われる。

日本語で書く場合に、仮に韻律禁止を「七五調やそれに類するリズムの良さで揃えないようにする」と考えたとしても、日本語文学には『万葉集』以来の頭韻の歴史がある。「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(藤原公任)などはその好例だ。
今回私は頭韻を用いてみた。が、これは日本語で書く際に禁止した方が良いルールなのではないか? 書きながらそんな疑念が頭を離れなかった。

また、仮に頭韻を禁止したとしても口語自由詩に接近するのをどのように回避したら良いのか? という問題が残りそうだ。
思い出したのは、清家雪子『月に吠えらんねえ』第五巻(2016年・講談社)のエピソード。朔はミヨシくんに対して、

口語自由詩は型からの解放と引き換えに散文との境が曖昧になる宿命を抱えている

と語り、また福田正夫「恋の彷徨者」について

これは詩? 行分けしてるだけの小説?

と指摘して、口語自由詩と散文の違いとは何なのか、それは言葉の響きによる音楽性なのではないか、と萩原朔太郎の詩歌論を説明していた。

私もこの練習問題に取り組みながら、「日本語における詩歌と散文の分水嶺とは何なのだろう?」と強く感じた。英語文学にも勿論自由詩はあるだろうが、それと散文とはどのように違うのか。英語で散文(特に小説)を書こうとする人にとって、その辺りの区分はどのように了解されているのか。そんなことが気になる最初の練習問題だった。

 

②動きのある文章

私は一つの曲線になって、静謐そのものだった青い世界を割る。紅海を渡るモーセみたいに。此処はプールであって海でなく、私は私であってモーセではないけれども。
そう、一つの曲線だ。ジャンプ台から落下し、水界へと侵入する曲線。地球の摂理にこの上なく従いながら、しかし一つの世界を脱出し、また別の世界へ侵入する行為。
跳び込む、ということ。
指先と頭とが割り込みの抵抗を一瞬感じるけれど、その後はむしろ水が私自身を包んでゆく。そう、これは世界が私という曲線を包摂する過程でもある。
一旦水の世界に包摂されてしまえば、今度は身体という曲線を、水が自然に弄んでゆく。水が肌を隈なく触れ、伝い、流れてゆく。
水の世界は私の動きを拒まない。私の動きをなすがままにあらしめる。
全身を撓らせれば世界そのものが揺れ動き、私を遠くへ押し出してくれる。指先に、頬に、鼻梁に、唇、産毛に感じる流れが私を取り巻き、動かし、更に動きやすくする。
私が世界を、世界が私を動かしている!
脚を揃えて腰から揺らす。私はすなめり、私はいさな。私はこの世界で泳ぐ生き物。水の国は私の世界。私は世界に遠く運ばれ、世界は私の意のままになる。
水の追い風、水のばね、さあ私をもっと遠くへ!

 

感想

書くことそのものの爽快感、楽しさ、といったものを思い出せる問題だった。個人的には、指定がやや曖昧な①よりも取り組みやすい。
それにしても、この問題文の「リアリティ」という言葉も、何を意図した言葉なのか分かりかねて結構困った。こちらで良いように判断してしまって構わないということなのだろうか……。

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