この世の全ての傷口に花を捧げよ――髙村薫『李歐』感想

ああ、どうしてこんなに私は揺さぶられながら、この小説の感想を書く為に奔走しているんだろう。もう二ヶ月近く経った。この本を読んでから、ずっとずっとこの本のことを考えている気がする。理由の一つは同性同士の恋愛とロマンティックラブイデオロギーの関係について考えたから。そしてもう一つは、22年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻したから、だと思う。多分。

何のことを話しているの? っていう声が聞こえる気がする。あなた、99年に書かれた小説の話をしているんじゃないの? って。

そうなの。そうなのだけれど、これは冷戦の物語なの。帝国主義が奴隷貿易という悪夢の続きであったように、冷戦も帝国主義と植民地政策という悪夢の続きだった、そのことを描いている物語なの。

そう言って即座に納得して貰えるかと言われると、自信がない。そう言われても、って顔をされそうだ。
――だったら、ねえ聞いて、私が考えていること。私が揺さぶられている理由を。長くなるけど、ちょっと我慢してね。

髙村薫『李歐』を今日、どう読むか

『李歐』は92年に発表された、同作者の『わが手に拳銃を』を下敷きにして新たに書き下ろされた小説だ。髙村薫は単行本として刊行された小説を文庫化する際に、かなり細かに手を入れる。その作業を行うつもりで単行本を読み直したら、全面改稿の必要を感じたということらしい。

両作の書かれた90年代。それはどういう時代だっただろうか。87年に韓国では民主化宣言がなされ、同年に台湾の戒厳令も解かれた。89年には天安門事件が起きた。『李歐』のクライマックスにも出て来たベルリンの壁崩壊も、やはり89年。ソ連の崩壊は91年だ。天安門事件によって中断された大陸中国の改革開放だったが、92年からは再び活発になった。

日本国内に目を向けてみれば、 バブルの崩壊が90年、55年体制が崩れて細川内閣が発足したのが93年のこと。日本社会の内側だけに目を向ければ、「バブル景気の80年代が終わって、一気に経済が縮小し、景気が冷え込んだ時代」という印象が強い。Japan as No.1時代の終わりの始まり、そんな風に思う人もいるかもしれないし、日本にも新自由主義の風が吹き始めた時代、と見る人もいるかもしれない。

物語の中に目を向けると、『李歐』で描かれる時代は1960年から1992年に及ぶ。加えて、守山や笹倉といった、主人公達の親世代に当たる人物の語りによって、40年代の物語までもが断片的に流入して来る。

主人公二人はどちらも54年生まれ。片や文革によって家族を失い、香港へと逃亡した中国人であり、片や母親が台湾人の恋人と駆け落ちしてしまった為に、家族への虚無感を抱えた日本人だ。二人は76年の大阪でほんの数日だけ出会い、そしてまた離れる。前半期には李歐のギャングという生業が理由で、後半期には一彰に妻子がいるという理由で、再会には十五年の年月を要した。二人が再会したのは92年。改革開放が軌道に乗りつつある中国で、一彰と李歐は再会するのだ。

話が92年の国際社会に戻って来た。物語からまた抜け出て、現代史を見渡そう。『李歐』の出版された99年、世界はまだ、2001年のアメリカ同時多発テロを知らなかった。世界が様々な傷を引きずっていることを、さも知らないようなつもりでいられた。西側諸国の勝利が印象づけられた90年代、多くの人々が「自由の勝利だ」とか「私達は正しい」などと思い、きっと21世紀の世界は平和になると無邪気に信じていた――そんなムードがあったのではないだろうか。

それが非常に西ヨーロッパ・アメリカ的な歴史認識であること、帝国主義と植民地支配の思想を引きずっている考え方であること、日本人もまたそのパースペクティヴを当然のように採用して世界を眺めていること、それらを『李歐』は示している――ように思える。

何故そういう感想に至ったのかを語る為に、これからまだ、長い話をしなくてはならない。

 

帝国主義の残像

一旦、時計の針を現代へと進めよう。

2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻したというニュースが国際社会を電撃的に駆け巡った。私を含め、世界中の人がこれに衝撃を受けた。
前触れはあった。2014年にはロシアのクリミア併合があった。同年にはドンバスと呼ばれる地域で武力衝突があった。それ以降も、ロシアはウクライナの親露派を支援して国の中で内部分裂が起こるよう工作を続けている。

ことは武力衝突に留まらない。2020年にはベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが、ロシアとの結びつきを強める独裁者ルカシェンコを批判、彼に抵抗する市民運動に賛意を示した事をきっかけにドイツへと亡命した。彼女は『戦争は女の顔をしていない』や『チェルノブイリの祈り』などで、戦争をはじめとする人災に巻き込まれた「小さい人」達にインタビューを行い、それらの声に基づいた小説を執筆し続けている。彼女が語り続けているのは、まず何よりも「戦争の取り返しのつかなさ」についてだ。彼女がベラルーシにいられなくなったということは、とりもなおさず、そのような声を上げることが許されない状況が、ベラルーシに到来したことを意味している。

ロシア軍のウクライナ侵攻を知った世界では、個人が積極的に「戦争反対」を語るムーブメントが起きた。Twitterでは#NoWarのハッシュタグが言語を超えて用いられた。ウクライナの国旗の色をモチーフにした服装やアイテムを身に着ける運動も世界的に行われている。日本を含め、多くの国や地域で戦争反対のデモが行われた。
そしてそれらの人々の多くが、EU加盟国やイギリス、アメリカをリーダーとする「西側諸国」の経済制裁、人道支援、ウクライナへの協力に賛意を示している。

ああ、「西側」という言葉。この言葉がBBCのニュースに現れた時、あるいは「鉄のカーテン」という言葉が再び使われるようになった時、あるいは西ヨーロッパ諸国・アメリカVSロシアという構図を今回の侵略から読み取った時、人々は即座に冷戦を想起した。
強国同士がイデオロギーに基づいて磁場を作り出して諸国を味方につけ、軍事力をちらつかせあうことで世界を二分する。世界は20世紀に逆戻りしてしまった。21世紀はこんな時代じゃなかった筈だ。私もそう思ったし、多くの人がそう思ったことだろう。例えばロシアにも、例えばイギリスにも、ドイツにも、フランスにも、アメリカにも、近い感慨を抱く人がいただろう……。

――?
今私が列挙した国々は、19世紀末から20世紀にかけて、何と呼ばれていたことだろう。列強と呼ばれ、帝国と呼ばれていた。

21世紀はこんな時代じゃなかった筈だ。パレスチナの人がそう言うだろうか? あるいはシリアの人が? あるいはアフガニスタンの人が? イラクの人が? 先日の国連安保理におけるスピーチで話題となったキマニ国連大使が代表する、ケニアの人はどう思っているだろう?

ケニアそして殆どのアフリカの国々は帝国の終焉によって誕生しました。私たちの国境は私達自身で引いたものではありません。ロンドンパリリスボンといった遠い植民地の本国で引かれたものです。(中略)現在アフリカの全ての国の国境をまたいで歴史的文化的言語的に深い絆を共有する同胞たちがいます。独立する際にもし私たちが民族人種宗教の同質性に基づいて建国することを選択していたのであればこの先何十年も血生臭い戦争を繰り広げていたことでしょう。しかし私たちはその道を選びませんでした。私たちは既に受け継いでしまった国境を受け入れたのです。それでもなおアフリカ大陸での政治的経済的法的な統合を目指す事にしたのです。
(ANNnewsCH「ウクライナ危機でアフリカが見せた“怒り”のスピーチ 世界中で大きな反響(2022年3月3日)」参照 2022-03-22)

彼らにとって21世紀は20世紀の続きだ。冷戦構造が崩れたから、「これで一段落」と言えるほど、時代の残した傷は簡単なものではない。
21世紀は20世紀的な体制を克服した世界なのではなく、ただ20世紀の後にやって来た時代だ、というだけのことである。仮に21世紀が20世紀に比べて多少なりとも良い時代、良い社会を築いているのだとすれば、そうあろうと日々努力する人々のお蔭であって、パラダイム・シフトのお蔭で自動的に何事かが解決した訳では、断じて、ない。

帝国主義は列強諸国による植民地獲得競争だったと言いました。各国が互いに競いあいながら世界の分割を進めていったことに間違いはありません。しかし,それと同時に,列強諸国の間にはある種の共存・協調関係もみられました。列強諸国は勢力拡大を目指す一方で,それが転じて大国間の戦争に発展するのをできるだけ避けようとしました。その結果,互いに競争しつつも共存するという意味の「競存」体制が現れてきます。競存体制のもとでは,例えば植民地をめぐる領土争いがおこった場合,列強諸国は交渉によって互いの利害を調整し,それを国際的に(列強諸国間で)承認する手続きをとりました。
(大澤広晃『歴史総合パートナーズ⑧ 帝国主義を歴史する』2019年・清水書院 1.帝国主義の時代)

ロシア軍のウクライナ侵攻は、明らかにEUやイギリスを――西ヨーロッパ諸国を脅かす。ロシアVS 西ヨーロッパの構造は避けたい。だから必死に侵略に反対するのか。ロシアがシリアに戦争を仕掛けたり、はたまたアメリカがアフガニスタンやイラクで戦争をする分には、強国間の戦争にはならない。だからそれらの戦争は見逃されたのか。
今回の侵略には冷戦の影が見え隠れすると共に、更にその背後に、帝国主義の残像が見え隠れしている。強国・大国と言われる国が世界を壟断するのが、どこか「当然」だと考える人々の存在を、この侵略は浮き彫りにしたように思う。

戦争は間違っている。戦争に巻き込まれた個人に対して、他国が人道支援を行うのは国際協力のあるべき姿だ。そういう意味で、「NoWar!」その言葉は正しい。
だがしかし……。「NoWar!」と叫ぶ私たち日本人にとって、戦争は「遠い過去に終わったもの」だというのが、余りに当たり前の前提としてある。それはきっと、ドイツでも、フランスでも、イギリスでも、アメリカでも、そうなのではないだろうか。戦争と言えば第二次世界大戦か、せいぜいベトナム戦争のこと。世界のどこか遠くでまだ戦争をしているらしいけど、何だか前世紀的だよね。今はそんな時代じゃないでしょ、もう。

その前提は――その歴史認識は、本当に、「正しい」のだろうか?

かつて日本も、「大日本帝国」だった時代があった。そのことと、この歴史認識とは、どこかで繋がっていないだろうか?

 

冷戦とアジア

冷戦 Cold War
第二次世界大戦後、相対立するイデオロギーのアメリカ合衆国、ソビエト連邦の二大国が、核戦力を背景に世界的規模で対決し、ときには熱い戦争Hot Warにまで発展した国際政治上の現象。
「冷戦」・日本大百科全書(ニッポニカ)・JapanKnowledge, https://japanknowledge.com (参照 2022-03-22)

冷戦という言葉は、実際に殺し合うような戦争は「起きなかった」という印象を聞く人に与える。けれどそれは大きな嘘で、核を背景にした米ソ二国、あるいは東西両陣営は、時にHot Warを起こして激しく対立した。だがそのHot Warの発生は実に隠微だ。髙村薫が好んで用いる、隠微という言葉そのもの。

1945年に日本が手放した朝鮮半島を、アメリカとソ連はヤルタ協定に基づき38度線で「分割」統治した。両国間の対立構造が先鋭化したことが背景となって、50年に朝鮮戦争が勃発する。
アメリカの上層部もソ連の上層部も、自分達はアジアの土地に線を引ける、「分割」できる力を有していると信じて疑わなかった。ドイツの連合軍占領期の「分割」に比べて、朝鮮半島の分割は余りに人為的な線の引かれ方である。現在こそ韓国・北朝鮮の国境線は38度線ではないものの、この米ソのやり方は帝国が切り取ったアフリカの国境を思わせる。

そして旧宗主国の日本はアメリカ軍の後衛を担う形で物資の供給に励み、これによって特需景気が発生した。この後記述するインドシナ戦争、ベトナム戦争に起因する特需景気も日本には存在する。

特需
アメリカ軍がアジアでの戦争遂行のため特別に生じた需要をいう。原則的には在日米軍の域外調達という契約で実現されたものをさす。第二次世界大戦後のアジア戦略において、兵器廠としての日本工業の潜在能力を活用すべく、冷戦体制下のアメリカの必要から生まれた特需は、同時に日本独占資本の再編、とくに軍需産業の復活に決定的な役割を果たした。1950年(昭和25)後半から実質的に6年間続いた朝鮮特需の年平均契約高は2億7000万ドルといわれ、当時の日本の国際収支改善の重要なチャンスとなった。…(中略)…東南アジア向けの軍用車両の修理生産開始(1948)、沖縄軍事基地建設の発注(1949)などの朝鮮特需は、日本の軍需産業復活の方向を決定づけた。…(中略)…フランス軍のインドシナ敗北直後に開始されたアメリカのベトナム軍事援助を手始めにベトナム特需が始まった。65年のアメリカ地上軍の本格的投入を前提としたベトナム特需の最盛期(1966~68)には年間30億ドル以上といわれ、直接特需(航空機・艦艇修理)のほか間接特需(韓国、シンガポールなどベトナム参戦国家での現地生産)、アメリカ特需などがあったが、以後その規模も大型化・高度化し、日本経済の対米従属傾向をいっそう強めてゆくこととなった。
「特需」・ 日本大百科全書(ニッポニカ)・JapanKnowledge・https://japanknowledge.com ・(参照 2022-03-23)

46年~54年にかけて、ベトナムがフランスからの独立を求めるインドシナ戦争が行われた。これがシンプルな独立戦争にならなかったのは誰もが知っている通りだ。ベトナム戦争の開始がいつなのかについては諸説あるが、54年~60年の間には開始したと考えられている。

インドシナ戦争
インドシナ戦争がフランスの植民地主義戦争、ベトナムの民族独立戦争だけであったならば、フランスの敗北、ベトナムの勝利によってベトナムの統一と独立は実現したであろう。そうならなかったのは、インドシナ戦争が冷戦下の局地戦争だったからであろう。アメリカがフランスの戦いにてこ入れし、ベトナムの支配力を北緯17度線以北に限定しようとし、さらに1954年9月SEATO (シアトー)(東南アジア条約機構)をつくって、その防衛範囲にインドシナを入れたのは、共産主義勢力のそれ以上の進出と膨張をあくまでも阻止するためであった。まさに共産主義封じ込め政策の展開である。それだけに、共産主義封じ込め政策を完成させるためには、アメリカは自らの力でこの政策を追求しなければならなかったし、ベトナムの統一を達成するためにはベトナムはもう一つの戦いが必要であった。それが次のベトナム戦争であった。
「インドシナ戦争」・日本大百科全書(ニッポニカ)・JapanKnowledge,・https://japanknowledge.com・(参照 2022-03-22)

ベトナム戦争は73年まで続いた。46年のインドシナ戦争開始から、足がけ27年だ。ただ自分達の暮らす土地を自分達のものだと主張するために、27年間の戦争。ベトナム戦争の開始を60年と考えても、27年の内の13年間は、ただただ、アメリカが反共を掲げて殺戮を行った年月だった。

アメリカは北爆に際して,北ベトナムの人々に恐怖心を与えることを目的に,意図的に市民の生活空間や経済インフラを攻撃しました。ナパーム弾やボール爆弾,クラスター爆弾など対人殺傷力の高い兵器が使われ,犠牲者を増やしました。さらに,アメリカ軍は大量の枯れ葉剤を散布しました。これは,敵の拠点であるジャングルを丸裸にするとともに,農作物を全滅させて食糧の供給を絶つことが目的でしたが,この結果,生態系は大きく破壊され,枯れ葉剤を浴びた人々は深刻な健康被害に苦しみました。
アメリカ軍は,ゲリラ戦を展開する敵勢力を押さえ込むために,敵軍を支援していると見なされた民間人をも攻撃の対象とする索敵撃滅作戦を実行しました。この作戦は軍事拠点とは言えない村や地域でも実行され,突然襲来したアメリカ軍の手で女性,子ども,老人を含む多くの人々が無抵抗のまま殺害されたと言われています。その最も悲惨な例は,1968年3月16日におこったソンミ虐殺です。この日,索敵撃滅作戦を実行するアメリカ軍兵士たちは,「村にいるものをすべて殺せ」という命令を受けて,ソンミ村に向かいました。住民の抵抗がなかったにもかかわらず兵士たちは村人を無差別に殺害し,504人が犠牲となりました。脱植民地化と冷戦が密接に絡みあう時代,(旧)植民地地域では大国による暴力の行使が絶え間なく続いたのです。
(大澤広晃『歴史総合パートナーズ⑧ 帝国主義を歴史する』2019年・清水書院 3.帝国主義の遺産)

『李歐』作中で登場するフィリピン。近世・近代におけるフィリピンの歴史は、正に植民地支配とそれへの対抗の歴史だ。16世紀から19世紀に渡るスペイン植民地の時代を経て、1898年にフィリピン独立革命が起こるも、同年には米西戦争が勃発する。アメリカはこの時、フィリピンの独立に全面協力するかわりに、アメリカ軍のフィリピン上陸を援助するようアギナルドへと要請していた。アギナルドはこれを信じて協力したものの、スペインからアメリカへ、フィリピンの「領有権」が譲渡される形で戦争は終結する。34年にはアメリカから独立するが、アメリカへの経済的な依存状態は続く。そんな中で日本軍の侵略と占領に遭い、フィリピン社会は更に泥沼化していく。

フィリピン共産党という党には二種類ある。一つは1930年に結成されたソ連的思想の流れを汲む共産党(PKP)、もう一つは毛沢東主義を基本とする1968年結成の共産党(CPP)である。李歐が「白面」として所属していた新人民軍(NPA)を擁するのは後者、CPPの方だ。初めて知ったことだが、この組織は今もなお反政府勢力として活動を続けており、アメリカ政府にはテロ組織として認定されているという。
前者の共産党(PKP)は抗日組織フクバラハップと連携し、1946年のフィリピン独立後も反政府勢としてフィリピン国内に残存したが、親米政権とアメリカ軍により、フクバラハップ共々弾圧されて1954年にはその勢力を失っている。後者の共産党(CPP)は69年に新人民軍を結成し、親米政権だったマルコス政権に対抗する形でゲリラ戦を開始。70年にはモロ民族解放戦線がミンダナオ島で反乱を開始した。マルコスは両組織の反乱を理由に1972年に全土に戒厳令を敷き、独裁政権への道を辿っていった。

たった数カ国の歴史を概観するだけでも、眩暈のする思いだ。独立に果てしない労力を費やし、旧宗主国との関係性に惑い、大国の軍事的な干渉に怯え、更に同一組織内でも分裂が起こる。一旦戦争が始まれば、ゲリラ戦、テロ行為、組織同士の合従連衡によって果てしなく続く戦乱、深まる社会不安……。
何十年にも渡る戦争と動乱は、アジアの多くの地域を疲弊させた。様々な思想を持った様々な組織が、協力しては決裂し、その度に血が流れた。戦争こそ起きなくとも、独裁政権が様々な思想や活動を制限し、国民の多くを死に追い遣った社会もある。台湾の戒厳令と白色テロ、度重なる軍事政権を経験するタイ……。

旧宗主国をはじめとする大国は後ろでそれら混乱の糸を引き、武器を輸出しては金を吸い上げた。日本の戦後の経済発展の理由の一つがここにある。一億総中流の麗しい夢は、HotWarに不可欠の武器を鬻ぐことによって育まれた。少なくともそういう面がある訳だ。

 

祈りの物語としての『李歐』

アジアにおける冷戦と帝国主義。そのあらましを本当に簡単に見渡してみただけでも、この分量だ。

そして漸く私は、『李歐』の話をすることができる。

この物語の中に、「希望のカラ売り」という言葉が出て来る。強国の植民地として、その後もパワーゲームの草刈場として、長い混迷の時代にあったアジアにおいて、イデオロギーや信念はいつでもそのようなものとしてあった。

守山はな、黄友法が死んだとき、一言『希望のカラ売りや』て言いよった。今もはっきり覚えとる。戦争が終わっても、植民地が独立しても、民主主義だの共産主義だのというて、どれだけの人間が希望の前売り券を自分の命で買うてきたか、いうことや。それでもその日は来ない。いつまで待っても、希望のカラ売りや。そういう時代やった。
(髙村薫『李歐』1999年・講談社 櫻花屯)

冷戦期、アジアの様々な地域で、イデオロギーの形をした前売り券をばら撒いたのは誰だっただろう。民主主義や共産主義という言葉を、小さくされた人々に高く売りつけたのは誰だっただろう。

構造は保存され続けている。奴隷貿易が人道的に非難された19世紀、代替の労働力を求めてヨーロッパの帝国は世界地図をどんどんと切り取っていった。20世紀、第一次世界大戦以降に民族自決という言葉が唱えられるようになると、宗主国は植民地の民族運動を警戒して、植民地の文明化を図った。鉄道の敷設、学校制度の設備……。
「日本は台湾を日本の植民地統治の『ショーウィンドウ』に仕立て上げたのである」とは、周婉窈著・濱島淳俊監訳『図説 台湾の歴史』の言葉である。そのような植民地経営は、植民地の人々に「近代」をもたらすものであると共に、宗主国の威信を示して植民地の人々を従属させようとする政策でもあった。

しかし第二次世界大戦後、今度こそ独立運動を抑えがたくなると、強国は段々と植民地経営を諦めざるを得なくなっていった。

植民地の独立は,ときにさまざまな思惑や打算の産物でもありました。とはいえ,独立運動の原点に,支配される側にあった人々の不満と自立を求める意思があったことはたしかです。そうした植民地住民からの要求や帝国支配に批判的な国際世論に直面した宗主国は,自ら進んで植民地を放棄したわけではなく,むしろそうせざるをえない状況に追い込まれていったのです。この大筋を忘れてはなりません。にもかかわらず,旧宗主国では,交渉による独立の事例やかつて植民地だった国々との継続的な関係を指摘して,植民地からの撤退を「円滑な脱植民地化」とか「時流に即した現実的な政策判断」として評価する声が聞かれることもあります。そのような理解からは,帝国支配下での暴力やそれが現在にどのような影響を及ぼしているのかという問いはなかなか生まれてきません。結果として,植民地責任を省みる機会は失われてしまうことになります。
(大澤広晃『歴史総合パートナーズ⑧ 帝国主義を歴史する』2019年・清水書院 むすびに代えて)

アジアには、そして世界中の多くの地域には、こうした構造のつけた傷が今も生々しく残っている。

私が初めて『李歐』を読んだのは、2022年2月の初め頃だった。その時の私は、ロシアがウクライナに侵攻するなど、思ってもみなかった。私は一彰と李歐のラブロマンスを読んだのだ、と思った。このブログにも、そんな感想を書いた。あのマジックリアリズムのようにも、またおとぎ話のようにも思える櫻花屯での再会に、ロマンティックすぎるのではないかと思ったりもした。安易な結末のようにも思った。大金持ちが恋人に破格のプレゼントをして愛情を表現する、という類型的な物語があるが、その亜種のように思った。その他、李歐にまつわるエピソードが余りに超人的すぎて、これは李歐に酔い痴れるための物語だ、ただ李歐のかっこよさと美しさに酔えば良いのだ、と思ったりもした。

しかし、同時にちらりと思ったことがあった。李歐から家族を奪った文化大革命。習近平政権下の現代中国社会は、昨今「マイルドな文革」「第二の文革」と呼ばれるような状況になりつつあるようだからだ。2018年には国家主席の任期について、2期10年までという制限が撤廃された。20年からはテレビ番組の内容統制や、同性愛表現へのより厳格な規制が生まれた。他にも、新疆地域での少数民族の弾圧や、長らく続く問題とはいえ台湾への軍事的な圧力の高まりなどもある。

それは、多くの人の人生に傷跡を残す政治だ。そのことはロシア軍のウクライナ侵攻のニュースを知ってから、より鮮明に感じるようになった。
弾圧も戦争も、一人ひとりの人生に消えない傷を残してゆく。それらの背後にある冷戦も、帝国主義も、どれも皆、小さい個人の人生をぐちゃぐちゃにしていった。

その取り替えしのつかなさを思う時、あの夢のように美しい『李歐』のラストは、ただのロマンティシズムだとか、おとぎ話だとか言えなくなってくる。二人は桜の木蔭で、離ればなれだった十五年を語り合い、幼少期、そしてまた青年期、政治とパワーゲームに複数回壊された「家族」を、もう一度編み直そうとしている。

祈るような物語だ。痛みにふるえる時、隣に憩える肩よあれという祈り。百年、二百年、更にもっと長く続く社会と個人の痛みよ、どうか少しでも和らいでくれという祈り。もう二度と傷付けられぬようにという祈り。次の世代よ健やかであれという祈り。

咲子を死なせて以来、一彰は明快な憎悪を一つ発見してはいた。それは自分と母、自分の家族、咲子とその父母、黄友法や趙文礼、そして笹倉文治や原口達郎から李歐まで、身の周りにいた人びとをことごとく愚弄したこの時代そのものへの憎悪だった。断じて、個々人ではなかった。三十年をかけて、一彰はそうしてやっと骨の髄から、人が人でない、政治や歴史の全部を憎悪したのだが、その結果個々の死はいくらか茫洋とし、一つ一つ時代に呑み込まれていこうとしているのは、果たして必然だったのか、それで死者は救われるのかと、今はふと考えた。
「強いて言えば、もし知らなかったら、それはそれで済んだのかも知れないと思うことはありますが……。それでも、殺したり殺されたりを見てきたのに、そのつど希望は逆に強くなったような気もします」
(中略)
「君は、希望いう言葉を持っとるんか……。今それを聞いて、俺は隔世の感を持った」
(髙村薫『李歐』1999年・講談社 櫻花屯)

その希望がカラ売りされないよう、この世界を少しでも善い形にする。それが我々に――「宗主国」の住人の子孫である我々に、せめても出来ることなのではないだろうか。「人が人でない、政治や歴史」をもう二度と繰り返さないように。

これは想像だが、99年に『李歐』を上梓した時、作者の高村氏も、混乱の時代に終止符が打たれたと思ったのではなかっただろうか。彼女が気になっていたのは冷戦の傷跡、あるいはそれより更に前からある帝国主義の傷跡であって、これから傷付く可能性のある誰かのこと、これから付けられてしまう深い傷口のことではなかった筈だ。
しかし21世紀の世界でも、構造は温存された。どこかの地域で常に戦乱があった。今もある。甘やかな愛情の物語は、まだ、そしてもう、単なるラブロマンスとしては浮かび上がらない。それは切実な祈りの物語として胸に響いてくる。一つの悲惨な歴史が終わったことへの慰撫ではなく、未来への悲痛な願いの物語として。愛情は祈りで、家族もまた祈りだ。

ロシア軍のウクライナ侵略に当たって、21世紀はこんな時代ではなかった筈だ、とか、西側諸国が、鉄のカーテンが、と私達が何気なく口にする時――その時、私達は何かを棚上げし、何かに見て見ぬふりをしている。
それは、「私達は世界中の多くの戦争の歴史的な当事者だ」という意識ではないか。私達の社会を数世代前に動かしていた人々は――少なくとも私の祖父母や曽祖父母は、宗主国の人間だった。植民地の労働力と資源によって豊かに暮らしていた。私の両親は冷戦構造下で「西側」の人間として育った。朝鮮戦争やベトナム戦争の特需景気のお蔭で、一層豊かな社会の中で成長した。日本国籍の両親・祖父母から生まれた私にとって、これは紛れもない事実だ。私の生活、文化資本、受けて来た教育、それら全てがこの歴史と結びついている。かように、私達は歴史から逃れられない。歴史を動かして来た様々な思想からも。

私達がウクライナでの戦争だけを特別に悲しむ時、そこには「私達の意識の中の宗主国」がありはしないか。パレスチナや、アフガニスタン、イラク、シリア、新疆、チベット、そうした地域のことは「私達には関係ない」と考えてしまうような意識。
ウクライナでの戦争は確かに深刻な問題で、今すぐにでも止めなくてはならない虐殺だ。しかし、それは他の多くの地域にもあったし、今もある。私達はそれについて、今回と同じように憂え、同じように悲しみ、同じように祈ったか?

結局私達は、かつて列強と呼ばれ、宗主国と呼ばれた国々だけを「仲間」「同等の存在」と見ているのではいないのか? EUが――ドイツやフランスの延長としてのEUが戦争の危機に晒されるから、この度私たちはこんなにも不安なのではないのか? 自分が国家自体である訳もないのに、そうやって世界地図を塗り分けて、何かを分かったような気持ちで……。

ああ、目の前に傷口がある。そして傷跡も。その全てに花を捧げようとする私でありたい。傷付けようとする者を止めたい。献花する傷を選んでしまう私ではありたくない。
今、殺されてゆく人達のこと、その人の住む社会の数百年に渡る混乱のこと。その全てに声を上げて、Noと言える自分でありたい。

帝国主義と冷戦構造に端を発する強国の壟断。その構造を今度こそ、捨てたい、捨てさせたい。もう二度と、「人が人でない、政治や歴史」を繰り返さないように。希望をカラ売りせず、それをしようとする人を止める、そういう私でありたい、そういう私達でありたい。そういう百年、二百年、三百年、四百年でありたい。

パレスチナ、アフガニスタン、イラク、シリア、新疆、ミャンマー、ウクライナ……。その他まだまだきっとたくさんあるに違いない、多くの国や地域の人々の命を思う。私一人と同じだけの重みを持つ命が、数多く消えていったことを思う。死者と生者の全ての痛みが和らぐように、愛する人の肩に憩えるように、彼らが二度と傷付かぬようにと祈る。そして、私と私達と彼らとが皆協力して、誰も傷付けない社会を作っていけるように、私は祈る。

 


参考文献

高村薫『李歐』1999年・講談社
髙村薫『わが手に拳銃を』1992年・講談社
大澤広晃『歴史総合パートナーズ⑧ 帝国主義を歴史する』2019年・清水書院
周婉窈著/濱島淳俊監訳/石川豪・中西美貴・中村平訳『図説 台湾の歴史』2007年・平凡社

ANNnewsCH「ウクライナ危機でアフリカが見せた“怒り”のスピーチ 世界中で大きな反響(2022年3月3日)」
日本大百科全書(ニッポニカ)・JapanKnowledge

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