香月美夜『本好きの下剋上』を読みました

沼に落ちたのが割と悔しいのですが、『本好きの下剋上』に嵌りました。
Kindle Unlimitedで第一部の漫画版を読んだ後に書籍版→未刊行部分をWeb版で読んだ、というような感じです。

読み終える前にTwitterやpixivで作品タグを覗いてしまうというヲタクゆえの悪癖のせいで、ラストを半ば知った状態で読んだのですが(ネタバレを一切見ずに読んだ人は「どうしてこうなった?」と感じるラストのような気がする)、それでも全く問題なく楽しめました。

以下ネタバレを織り交ぜつつ、つらつら感想を。フェルディナンドが良いキャラすぎて、彼のことばかり書いてしまいました。
最初は批判的な感想から始まりますが、ちゃんと褒めてます。今回の記事は気の狂っていない感想ですので安心してお読み頂けますよ!(?)

『本好きの下剋上』は児童文学~少女小説的な良さがあって、個人的には白泉社の少女漫画を読むような気持ちで読みました。具体例を出すならば、高屋奈月『フルーツバスケット』とか樋口橘『学園アリス』みたいな味わいだったなあと感じます。家族愛に繋がるものとしての恋愛や性愛、という描き方が、特に白泉社少女漫画……と思う理由だったかもしれませんね。

元々そういう物語が好きなのもあって嵌ったのだな、と自分で自分を分析しているのですが、一方で作中の結婚観や成人年齢が現代日本社会とは異なるせいもあって、この「家族愛に繋がる恋愛・性愛」「家族愛ありきの恋愛」というような描写も、評価が難しいなあと感じる部分もありました。
特に第五部でローゼマインと再会して以降のフェルディナンドの心情……ですね。相手は十四、五歳の少女だぞ……とか、自分が育てた子に恋するの……という感想を呑み込むのは難しい。

フェルディナンドの心情を追い掛けると、ローゼマインに縋る気持ち自体は十分共感可能なものですし、彼が成長したローゼマインと再会して、次こそ手放さないと思う理由も理解するに余りあるのですが、そこで唐突に恋をしている事実が出現するのが、正直解せないし、気持ち悪さを感じてしまう原因だろうと思います。

これについてはふせったーにも書いたのですが、婚約・結婚という出来事に関連するとされている感情(恋愛・性愛の感情、独占欲など)が、フェルディナンドのそれまでの人生に沿った感情よりも優先されている、という印象を受けました。作者の物語に対する規範意識としての、あるいは作中世界の社会的規範としてのロマンティックラブイデオロギーに、フェルディナンドというキャラクターが(やや不当に)屈している、というように感じます。

ややこしいのは、フェルディナンドがそもそもローゼマインに抱いていた感情である家族愛的なものも、この「婚約・結婚という出来事に関連するとされている感情」に当てはまってしまうという点です。
家族愛を「婚約・結婚に関連する感情」のバリエーションの一つと考え、その一つを有しているならば同グループに括られる他の感情――例えば恋愛や性愛の感情も有しているのだろう、と判断しているのが、本作の語り手であり作者である……という風に感じます。

全体として異性愛規範に従順な作品だとも感じますし、ローゼマインが「懸想はしていない」と言っているのに周囲は誰もそれを理解しない辺りから、ロマンティックラブイデオロギーに従順な作品だとも思います。が、同情的な見方をするならば、作中に散見される「政略結婚」を主人公にさせたくない、それには批判的でありたい、という意識が作者にはあるのかな、と想像します。それを回避せんがためのフェルディナンドの恋愛感情であり、絶対に懸想しているのにローゼマイン本人だけが気付いていない、という描写なのではないか……と想像出来ます。

異性愛規範への無批判な従順は、日本語によるポップカルチャー全体を覆う問題だと思います。一消費者として批判精神を忘れずにいたいとは思いつつ、この作品固有の問題としてクローズアップしすぎるのも、また少し違うのかな……とも感じます。消費者が適度な批判精神を忘れずにいることで、様々なフィクションに反映される規範意識をアップデートしていけたら良いですよね。

沼に落ちたと言いながら渋い感想から出発してしまいました。
上記のような点はありますが、ローゼマインとフェルディナンドの関係は瑕疵を有しつつも非常に魅力的でした。
終盤の展開から、私はどうしても『源氏物語』のことを考えながら読んだのですが、フェルディナンドの中に母親的なものへの憧憬や執着が殆どないことが、二人の関係に清新さを与えていたような気がします。母でも娘でも妹でもなく、恋人や妻という言葉にも収まりきらない何かを求めて、フェルディナンドはローゼマインの手を掴むのですが、こうした一通りの名付けに収まらない感情、私は好物ですので……。

フェルディナンドがマインを気にかけ面倒をみるようになったことが、二人の関係の全ての始まりだと思うのですが(マインがどんなに神官長に懐いたとしても、彼自身がマインを気にしなければ、彼女の人生はあんな風にはなりませんでした)、彼が何故マインに世話を焼く気になったのか、どうしてマインを気に入ったのかを考えると、その理由の一端を挙げることはできても、彼の中に生まれた感情全体を覆う言葉が見付からないな……という結論に至る気がします。
誰かを気にかけ、その人の為に尽力したいと思う心というのは、ごく日常的なものでありながらとても奇跡的で、彼にそのような奇跡的なものが到来した、ということにとても心を動かされます。

大人からの愛情を殆ど知らずに育った彼が、か弱い幼子に翻弄されながらも必死で応えようとすること、いつの間にかローゼマインが彼の心の中で重要な位置を占めること、親子の愛情とも兄弟同士の愛情とも違う、しかしやはり家族的な愛情を抱くこと、これら全てに、言葉によるカテゴライズやレッテルを超えた何かがあると感じます。私は二人のその関係に、胸がぎゅっとなりました。有り体に言えば、尊いです……。

それだけに、最終盤で唐突に「恋愛」が出現したのが惜しい、と思ってしまいます。菅野雪虫『天山の巫女ソニン』の感想でも書いたことですが、既存の感情の鋳型に囚われずに誰かを真剣に愛する物語を、私は常に求めています。『本好きの下剋上』にはそのポテンシャルがありますし、そのような物語として読める部分も大いにありますので、惜しさを強く感じてしまうのでした。

「わ、私そんな沼に落ちてませんから」風に感想を書いたのですが、めためたに沼に沈められています。pixivで二次創作を連投するヲタクと化しているので、まあ、生温く見守ってください……。

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