『とはずがたり』のこと

光文社古典新訳文庫から出ている、佐々木和歌子訳『とはずがたり』を読みました。かなり果敢な現代日本語訳だったのですが、現代語で感情移入しながら読める本になっていて、大変心揺さぶられる読書体験になりました。
『とはずがたり』は高校生の時に図書館で読んで以来、妙に記憶に残って(ある意味当然)、時折訳注を借りて走り読みしたりしていたのだけれど、こんな風に初めから終わりまで一気に読むというのは初めてでした。

余りに良かったので、勢いで講談社学術文庫の次田香澄『とはずがたり 全訳注』上下巻を買って読み比べたりとかしています。佐々木氏と次田氏とでは『とはずがたり』や後深草院二条に対する眼差しが少し異なっていて、そのズレも興味深いなあと思ったり……。

ということで、まとまらないけれど感想を書いてみたいと思います。

誰も彼女の人生に安らぎを与えなかったのだな、と思った。つきつめると、そういう感想になる。
彼女は母を早くに亡くし、父ともまた十代で死別した。彼女は夫を持たなかった。子供は何人も産んだけれど、誰一人「我が子」として育てられなかった。彼女は後深草院の後宮において、ただ寵愛だけを拠り所とする不安定な立場だった。祖父や伯父の後ろ盾はあるにはあったけれど、彼女の気持ちに寄り添ってくれるものではなかったし、時を経るに従いその後見の力も弱くなっていった。そして、とうとう宮中を追われた。

彼女の前半生をびりびりに引き破ったのは誰だっただろう。生まれる前から娘を差し出すことを約束した、母・大納言典侍だろうか。十四歳の娘を入内ではなく女房の身分で院に仕えさせた、父・久我雅忠だろうか。それともやはり、彼女を幼い頃から宮中で育て、母・大納言典侍の身代わりとして寵愛しながらも、彼女の心や人生を何一つ真摯に考えなかった後深草院だろうか。

びりびりに引き破ったなんて、現代人の読者の感傷的・批判的な読み方が作り出す妄想だろうと言う人もいるのかもしれない。私も、そんな気持ちがちらりとよぎったりもする。けれど、ではなぜ彼女はこれを書いたのだろう。

次田香澄は『とはずがたり』の前三巻(宮中での日々)と、後二巻(旅に出て以降の日々)とは、それぞれ「ほんね」と「たてまえ」の関係にあり、「たてまえ」の後二巻は遊義門院やその周辺の人々を読者として想定して書かれたものであるのに対し、前三巻は別の読者を想定して書いた「ほんね」の章段なのだと説明している。
何となく、分かる気がする。「ほんね」と「たてまえ」という分け方が適切かはさておき、前半と後半で作品のトーンは大きく異なる。後二巻分の内容が、人に読まれても何ら恥じるところのない文章であることも、直感的に理解出来る。
ではなぜ? 彼女はなぜ、「ほんね」を書いた? 誰へ向けて? 何のために?

事実このような人生を送ったのだとしたら、書かずにはいられなかっただろう、と私は思った。「身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうへ」と跋文には書かれているが、それは本当にその通りだっただろう。『とはずがたり』が長く宮中に秘蔵され、天下の孤本と呼ばれるに至った理由の一つに、その内容が余りにスキャンダラスであることが挙げられるが、このような読者を想定し難い内容の文章を、彼女はなぜ書いたのか。それはやはり、書かずにはいられなかったから、自分一人で思い返すだけでは到底満足できない何かがあったから、ではないだろうか。

二条の生きた鎌倉時代中期、貴族の女性の幸せとはどのようなものであっただろう。『枕草子』に書かれているのとは違い、貴族の娘が宮中に出仕することは恥ずかしいことではなく名誉なことであるという価値観が中世には一般的だったようだが(図録『性差の日本史』P.80参照)、そうだとしても女房として仕えた女性もその後は妻となり、母となることが幸せの形だったのではないだろうか。

当時の社会通念が用意する幸せの鋳型に嵌っていないことをもって、二条を不幸せと見做す訳ではない。そうではなく、二条が誰の妻にもならず、誰の母にもならなかったことは、すなわち彼女の周囲の人間(特に周囲の男性)が、誰一人として彼女の「一般的な」幸せを真面目に考えてあげなかったことの証左ではないかと思うのだ。
二条の母・大納言典侍は多くの男に「ぬしづかれ」て、久我雅忠の妻となった。それをただ眺めているしかなかった若き日の後深草院は、やがて娘が生まれたら自分に欲しいと言ったらしいが、つまり大納言典侍は後深草院に新枕を授ける役を務め、彼に愛されながらも、身分の釣り合う他の男と結婚した訳だ。二条が母のような道を辿れなかった最大の理由は、後深草院という人が彼女を自分に縛り付けることで、彼女の平凡な、ごく当然の幸せへの道を塞いだことにある。そしてまた後深草院は、縛り付けることによって発生する彼女への責任も簡単に抛擲する男だった。

二条は可哀想だなあ、と読みながらしみじみと感じた理由を考えると、やはりそうした部分――誰も真面目に彼女を愛さなかった――ということに思い至る。雪の曙(西園寺実兼)だけが彼女の心を掬い上げてくれるものの、彼との関係は後深草院や亀山院、あるいは有明の月(性助法親王)などとの関係が複雑化する中で途切れてしまう。そしてその雪の曙もまた正妻を持つ身だった。

二条は自分の経験した妊娠を鮮明な筆致で描写している。どの子も彼女が産んだのに、どの子も彼女の子ではなかった。どの男も、彼女に彼女の子を育てる凡庸な幸せを与えなかった。
彼女が不幸だったと言いたいのではない。二条は当時の貴族の女性にしては破格なほど旅を重ね、広い世界を見聞きした。後深草院と再会した時、彼女の見聞の広さと経験の豊かさは、明らかに彼を圧倒していた。彼女はそういう意味で、決してただ不幸であるだけの女性ではなかった。

だが彼女が結果的に強い人になった、自立した人になったことと、彼女の周囲が彼女をスポイルしたということとは別だろう、と思う。彼女はやはり男達に搾取されていた。搾取という言葉が当時のありようにそぐわないのならば、立場の不安定さや後ろ盾の脆さを理由に、良いように扱われたとでも言おうか。
二条は後深草院の女房の中で花形のような存在だったことが伺える。粥杖の一件とその贖いなどは、そのような彼女の華やかな立場を端的に表しているように思う。だが華やかな場で人々にちやほやされるということと、人生を真面目に考えてもらえるということととの間には、どれ程の懸隔があることか(これは現代のアイドルにも通底するような事柄かもしれない)。

二条が必ずしも自分自身を惨めだとか、不幸だとか思っていた訳ではないかもしれない。だが何とも言い難い寂しさ、やるせなさ、鬱勃とした怒りのようなものが彼女の中には蟠っていて、それが彼女に『とはずがたり』を――なかんずくその前半を書かせたのではないか、と私は思う。

誰か、彼女に安心や安穏や、なだらかな幸せを与えられなかったのだろうか。独りぼっちで生きていけるということと、独りでいたいと思うこととは違う。何だか『とはずがたり』を読むと、二条は独りで生きていけるようにはなったけれど、そうなりたいと思った訳ではない人なのではないかと感じられてしまって、それが本当に本当に、悲しく感じる。

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