罪と赦しのある地平へ――有栖川有栖「火村英生シリーズ」感想

年末年始の休みを使って、有栖川有栖「火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)」を読みました。随分以前から、「お前は絶対にこのシリーズが好きだから読め」と言われていましたが、漸く読みました。案の定大好きになりました。勧めてくれた周囲の皆様、ありがとうございます。

この1月11日に出た最新刊を含め、27冊のかなり大部なシリーズなのですが(そしてシリーズはまだまだ続くのですが)、作者の文章が非常に綺麗で読みやすかったこともあり、さくさくと読み終えました。

小説27冊を俯瞰した感想を書くなんてやったことがないので、ちょっとあたふたとしてノートなどを作ってみたりしました。楽しかった。
ということで、以下毎度のテンションがおかしい感想です。シリーズのあれこれについてネタバレがあります。長いし、ここで書き切れなかったこともあるので、もしかしたらまた別記事にするかもしれません。

 

ミステリは(主に)殺人についての物語だが、「人が人を殺すとはどういうことなのか」という素朴かつ抽象的な問いについて、真っ正面から答えてくれることは稀だ。何せ、ミステリの主眼はいかに殺人の謎を解き、犯人を特定するかにある。人の生死を哲学することはミステリのテーマではないし、生死の重みを真剣に語ってしまえば、人の死から事件が始まるというお約束の切れ味を鈍らせる可能性すらあるだろう。
しかし今回火村英生シリーズを読んで、この作品群は「人が人を殺すとはどういうことなのか」という問いに答えようとしている、数少ないミステリではないか、という考えが頭をよぎった。
作品に時折姿を見せる、火村とアリスの哲学や思想のようなもの。それらを縫い合わせ、繋いで、一体火村が殺人に何を見ているのか、アリスがそんな火村の姿に何を思っているのか、それを追い掛けたいと思った。この感想は、その一つの試みである。

ゾウリムシのように細胞分裂をして永遠に自己を複製する生物は、他者と出会わないのだから、愛も憎しみも知らない。それこそが永遠だ。
(有栖川有栖『乱鴉の島』終章 2006年・新潮社

どんな危機にも対応できるように、神様は有性生殖によってバリエーションを増やすことを思いついた。お前がさっきから悪と呼んでいるのは、そのメニューの一つだ
(有栖川有栖『マレー鉄道の謎』第一章1節 2002年・講談社

ことは生命の淵源近くに遡る。単細胞生物が無性生殖によって増えることと、人間をはじめとする多くの生物が有性生殖によって増えることの、何が違うか。『乱鴉の島』のドクターは、それは永遠と一瞬の違いだと語る。単細胞生物には彼我の別も、個としての自覚もない。個体としての死もない。ならばそれこそが永遠ではないか、と。しかし一部の生物は永遠を捨て(させられ)、多様な個体を生み出す有性生殖システムによって増えることになった。その結果、彼我の別が、個性が、個体としての自覚と自我が、そして唯一無二の個体の終わりである死が生まれた。死の誕生の瞬間だ。有性生殖が命の有限性を生んだのだ。

有性生殖によって増える多くの生き物の中で、人間だけが何ゆえに万物の霊長となったか。物語の中にはそれへの解答は見当たらないが、火村は次のようなことを言っている。

罪も罰も文化という馬に乗ってどこへでも走る。ヘイホー。北でも南でも。西でも東でも。ただな、自分が乗っている馬が暴走しだしたと判ったら、俺は乗って走りながらその馬を蹴り殺してやりたい、とも思ってるんだぜ
(『ダリの繭』第八章7節 1993年・角川書店)

文化という馬。人は文化という乗り物に跨がって、動物的世界とは全く別の地平を発見した。文明社会の発明と発展。それが何によって始まったのかは分からない。牧畜か、農業か、交易か、何かそのような最初の「馬」があったのだろう。人間は文化という馬を駆る内に、生も死も、愛も憎しみも、馬上で理解するようになった。それらの理解が、更に馬飼いの生き方を強固にしていった。人はいつのまにか自分の四つの足で歩いていた頃の動物的地平を忘れて、文化という馬に乗らずに生きることなどできない生き物になっていった。馬はどんどんと速くなった。疲れ知らずになった。文明社会は複雑化し、拡大した。もはや文明社会が動物的世界を追い払い、世界全てが文明になったかのようだった。火村の言葉に従うのなら、人間が育てた乗り物としての文化、その到達点の一つが罪刑法定主義であり、法治国家だ、ということになるだろう。

だが、馬上の人間ははたと考える。私達の命の淵源とは? 私達は何処から来て何処へ行くのか? などと。既に動物的世界は遠く、人間は馬上に在ることに――則ち文明社会の規矩の内側で生きることに、慣れきっていた。その問いを口にする頃には、もう誰も文明の外では生きられなくなっていた。
人間は人間文明の内側を投影する形で、文明の外側を想像した。動物的世界は遥か遠かった。私達の命を作ったのは、私達に似た、それでいて私達を超越した存在に違いない。そこで神が、創造主が生まれた。そして神の存在を仮定した瞬間から、動物的地平が人間に科す様々な不条理を、神の名の下に説明しなくてはならなくなった。

多様性の生産を目した有性生殖システムは、文明の規矩など関知しない。人間は動物的地平を文明で埋め尽くしたと考えていたかもしれないが、動物を生んだシステムは文明の内側であっても有効に作用し続けた。システムの生んだ多様な個が、更に愛憎や生死を生み続ける。人間文明は、それらに意味を与えようと躍起になる。このシステムは神が作った、死は神が人間にもたらした罰だ、エトセトラ、エトセトラ。
しかしどのような説明をもってしても、個がある限り、死からも、他者――則ち別の個体――からも、人間は逃れられない。個は生きているだけで別の個と触れあい、これを傷付け、また喜ばせる。個は生きているだけで別の個との差異を生み、個性を育み、だからこそ唯一無二の存在としていつか死なねばならない。人がどんなに善く生きようとしても、どんなに自由に生きようとしても、他者との関わりに束縛され、それによって不断の変化を余儀なくされる。個には個であるがゆえの孤絶がありながら、個であることによって他者に開かれ続けなくてはならない。

崇拝すべき神など非在の無情の世界で、運命と名づけられた不可避な力が私たちを隷属させています。そんな認識から私は逃れられないのです。

私は神を否定し、人という悲しいものを愛しく思います。それゆえに、神であるかのようにふるまう殺人者に限りない嫌悪を覚えます
(有栖川有栖『新装版 46番目の密室』第二章3節 2009年・講談社)

火村は、この世に満ち溢れる人間存在への不条理ゆえに、神の存在を認められないと言った。その神とは誰か? 文明社会の内側を投影した創造主のことだ。愛憎や生死、生命の淵源を説明するために人間が生み出した、人間自身の写像のことだ。
では神のいない世界に未だ存在するのは何なのか。そこには文明社会に閉塞する人間と、そんな人間を含めた多くの動物を覆う有性生殖システムがある。神を否定する代わりに、このシステムと、システムが生み出す多様性を肯定するならば、火村の言った個性としての悪を有する個、「狡くて卑劣な」個体や、「残忍で粗暴な」個体の存在も認めねばならない。個が個を抹殺しかねないような要素だとしても、それが生まれ落ちて現に存在する以上、存在することを是とせねばならなくなるのだ。

人を殺したい、と私自身が思ったことがあるからです

絶対の罪というものはあると思います。それは人が神のようにふるまうことです
(有栖川有栖『新装版 46番目の密室』第二章3節 2009年・講談社

システムは、個による個の抹殺も多様性の一つとして許容するだろうか? ――するに違いない。虫や蛇は共食いをするし、シャチは子殺しをすることもあるという。人が個性としての悪を有するだけでなく、有する悪を発現させて別の個を殺めること。システムはそれすらも容認する。
ならば火村の言う「絶対の罪というものはある」という言葉は、神の非在の世界で我が物顔に蠕動する、システムへのNOにほかならない。一人の人間という個を縛り、人間全体という種を縛る理へのNO。人が生んだ虚構の神は、人の生殺与奪を当然のように握る。人の唯一の持ち物である命を、容易く侵害して憚らない。そんな神の似姿にならんとする人間の傲慢を、彼は赦さない。そしてこの世界全体がそのような悪の発現を織り込み済みで存在していることに、NOと叫ぶ。だからこそ、人が人を裁くほかない、と彼は言う。神はおらず、世界が悪の発露を当然のことと見做すのだとしたら、人以外の何者が殺人者を裁くのか? 人が人を裁くほかにない。

それは反逆的であると同時に、とても厳しい思想だ。過ちへの赦しが存在しない思想だ。システムが作り出しているのは、罪そのものを存在させない、平準化された地平である。どのような個性も、どのような個体も、どのような行為も等し並みに存在して良いとされる地平。そこには罪という概念はない。そんな理に、あるいは地平に向かって「赦せない罪はある!」と言う時、それを叫ぶ主体自身、赦すことも赦されることも放棄しなくてはならない。火村は罪の存在しない世界に、罪を誕生させようとしている。彼の立つ地平には、未だ罪を得ていない個と、既に罪を得た個しか存在しないのだ。「赦せなさ」の存在しない世界に、「赦せなさ」があるのだと訴える時、叫ぶ当の本人に「赦し」のある筈がない。

神はいない。罪はある。火村が立っているのは、そんな地平だ。

「夕陽は没落の象徴でもあるし、確かに闇の前触れでもあるけれど、それだけでもない」
火村は言う。
「生まれ変わるために沈むんだから」
(有栖川有栖『朱色の研究』エピローグ 1997年・角川書店)

 ──来世は明日です。
私が感得したのは、〈前世とは昨日〉だった。ちょうど二十四時間ほどを経た今、対になる言葉が花蓮の口から飛び出し、火村の心を動かしている。今回のフィールドワークでは数奇なことがいくつかあったが、この暗合が最も劇的に感じられた。
(有栖川有栖『インド倶楽部の謎』第六章9節 2018年・講談社

自分自身にかけてやれない言葉であっても、他者に対しては思いの外簡単に言ってやれる、ということがある。火村もそうなのかもしれない。『朱色の研究』で教え子の貴島朱美にかけた言葉は、後に『インド倶楽部の謎』でアリスが――そして火村が――頓悟するかのように感得した、一対の言葉に良く似ている。

有性生殖システムによって生を承けた個は、個性の違いから彼我の別を認識し、孤絶した個の意識を持ち――それでありながら、別の個、則ち他者と常に触れあい、影響を与えあい、変化し続けながら生を全うする。
前世とは昨日のこと、来世とは明日のこと。それは神がおらず、罪のみが存在する地平に、赦しを誕生させる言葉だ。個は死を得るまでの間、恒常不変の個として存在するのではない。どうしようもなく他者に晒され、変化し続けざるを得ない存在だ。だからこそ個は、生成と消滅、則ち生と死を繰り返す循環的・変動的な存在として捉え直す余地がある。
昨日の自己は、今日の変化を身に受ける前の別の自己だ。明日の自己は、今日を咀嚼した先に変化した新たな自己だ――そのようにして、一瞬を生きる個は前世から来世へと生まれ変わり続ける。
アリスは語る。

 人を殺したいと思ったが、踏み止まった。だから、踏み出してしまう人間が赦せない。そう言って殺人者を狩り、裁きの場へ引き立てることを目的に生きている男が、私の横に立っている。激烈な感情に揉まれた日を、前世だとして切り離せたなら──犯罪研究の道は捨てずとも、彼は今よりずっと楽になれるのではないか。
(有栖川有栖『インド倶楽部の謎』第六章5節 2018年・講談社)

罪の存在しない世界ではない。悪が平準化された地平でもない。犯してはならない罪は確かにある。「赦せない!」そう叫んで良い。――しかし罪を犯した個も、他者に晒されることによって変わっていく。変わらざるを得ない。変わる中で罪を悔いることもあれば、償いたいと思うこともある。『鍵の掛かった男』の梨田稔は、それを体現した存在ではなかったか。
人は生きている限り、変わることが出来るし、変わらないではいられない。それは確かに、有性生殖システムが人間に科した軛と、裏表の関係でもあるだろう。変化は個人の自由意志に因るものではない、そう言うのは容易いかもしれない。

「(前略)人間は、そこまで自由なんだろうか?」
判らない。──が、おそらく、自由ではない。
「お前が悪と戦っているんやない、ということが朧げながら理解できた。まるでSFのヒーローやけれど、お前が牙を剝いてる相手は、神様や」
(有栖川有栖『マレー鉄道の謎』第一章1節 2002年・講談社)

しかし運命づけられた変化に対する楽観的な肯定――もしくは祈りにも似た肯定――によって、罪しか存在しなかった地平に、漸く赦しが誕生する。
全ては、一瞬を生きて、生きて、生きて――生き続けることを前提としている。命を奪うことで殺人者を裁いてしまうのなら、そこに変化はない。変化がないのならば、赦しもない。生成と消滅もない。罪しかない。だから、殺人者の命を奪うことをアリスは躊躇うのではないのか。だから、命は命で贖えという火村の叫びに、待ったをかけたくなるのではないのか。火村の追及の声に是と言った瞬間に、火村自身もまた赦されない存在になってしまうのだから。

アリスは火村の心の平安を祈る。悪夢から解放され、赦しを受け容れることを。それは火村が生き続けることであり、他者との繋がりの中でしなやかに変化してゆくことである。
アリスが火村に憩って欲しいと願うのは、きっとそんな地平なのではないだろうか。

 

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